高崎市吉井町の山上に、白壁の天守が建っています。一郷山城と呼ばれるこの建物は、戦国時代の城が残ったものではなく、平成のはじめに展望施設として建てられた模擬天守です。もとの一郷山城は関東管領上杉氏の支城のひとつと伝えられ、武田信玄の西上野侵攻で失われました。史料は多くありませんが、この山に城が置かれた理由は、周囲の地形と街道を見ればよくわかります。
- 山上の天守は戦国の建物ではなく、平成に建てられた展望施設
- もとの城は平井城を支える上野の支城のひとつと伝わる
- 武田信玄の西上野侵攻のさなかに落ちたとされる
- 山頂からは関東平野と上州の山々が見渡せる
一郷山城とは:吉井の山上に立つ城
一郷山城があるのは群馬県高崎市吉井町多比良、標高四百六十メートルほどの一郷山の頂です。鏑川の流れる谷を見下ろし、北へ目をやれば榛名の裾から高崎の平野が広がります。上野の西の端で、信濃へ抜ける道と、平野へ下る道が交わるあたりを押さえる位置でした。
城そのものの記録はごくわずかで、いつ誰が築いたのかを確実に伝える史料はありません。麓の多比良に置かれた城の支城だったという伝承が残る程度です。城跡としての遺構も判然とせず、山上の平坦地に当時の建物の痕跡を探すのは容易ではありません。
山上の天守について
訪れた人がまず驚くのが、山頂に建つ三層の天守です。

山頂に建つ三層の天守。平成のはじめに展望施設として建てられたもので、戦国時代の建物ではない。
関東管領上杉氏と、平井城の支城網
室町時代の後半、関東管領をつとめた上杉氏は、鎌倉公方との争いのなかで本拠を上野へ移しました。その中心が藤岡の平井城です。平野と山の境目にあたるこの一帯には、平井城を囲むように支城が置かれ、谷筋や峠道を分担して見張っていました。一郷山城もそのひとつと伝えられます。
山城は単独では意味を持ちません。狼煙や伝令で結ばれ、敵の動きを本城へ伝えることが役目でした。一郷山の高さは、まさにその用途に合っています。山頂に立てば、鏑川の谷を上ってくる者も、平野を横切る軍勢も、遠くから見つけられたはずです。
上杉の退去と、武田の西上野侵攻
やがて相模から北条氏が勢力を伸ばし、上杉憲政は小田原城の北条氏康に押されて平井城を捨て、越後の長尾景虎、のちの上杉謙信を頼って落ち延びます。関東管領の名跡を受け継いだ謙信はたびたび関東へ出兵しますが、上野の支配は安定しませんでした。
そこへ西から入ってきたのが武田信玄です。信濃を平定した信玄は碓氷峠と佐久の方面から上野へ手を伸ばし、箕輪城の長野氏と長く争いました。一郷山城が落ちたと伝わるのは永禄六年(一五六三年)のことで、この西上野侵攻の一場面にあたります。麓の集落には、そのときの戦いにまつわる言い伝えが残っています。
武田氏が滅び、北条氏も倒れたあと、上野には徳川の家臣が入りました。井伊直政が高崎城を築いて拠点を平野へ移すと、山の上の城が使われる理由はなくなります。一郷山城も、記録に残らないまま静かに役目を終えました。
一郷山城・場所とアクセス
群馬県高崎市吉井町多比良。上信電鉄の吉井駅から車で十五分ほど、山道を登った先に駐車場があります。天守の内部は公開が休止されている時期があるので、訪ねる前に高崎市の観光案内で確認しておくと確実です。山頂の広場からの眺めは開けていて、晴れた日には関東平野の向こうまで見渡せます。平井城跡や箕輪城跡とあわせて回れば、上野をめぐる争いの地形が頭に入ります。
