大内氏館:陶晴賢の謀反により討たれた大内義隆ら歴代大内氏の居館 大内氏館

大内氏館/アクセス・場所・地図 陶晴賢の謀反により討たれた大内義隆ら歴代大内氏の居館 大内氏館

【城名】
大内氏館

【大内氏館の説明】
大内氏館は山口県山口市大殿大路にあった城館で代々大内氏の居館であった。24代当主の「大内弘世」が山口を本拠と定め、移り住んだ時に築かれた居館で、京都を模した館として建てられました。そのため、詰城として館の背後に「高嶺城」があります。

大内氏館/アクセス・場所・地図 陶晴賢の謀反により討たれた大内義隆ら歴代大内氏の居館 大内氏館【お城特集 日本の歴史】

当初は塀や堀で囲まれた程度の館だったが、徐々に空堀や土塁を増築していき城砦としての役割も果たせるようになっていった。天文20年(1551年)、時の当主「大内義隆」は家臣の「陶隆房」の謀反により自刃して果てた。

大内氏館/アクセス・場所・地図 陶晴賢の謀反により討たれた大内義隆ら歴代大内氏の居館 大内氏館【お城特集 日本の歴史】

その後、新たな当主として大友宗麟の弟で大内氏に養子として入っていた「大内義長」が大内氏館に入った。弘治2年(1556年)に「毛利元就」が侵攻してくると大内義長は山口を放棄して逃亡し、ここに名門大内氏は滅びた。

大内氏館/アクセス・場所・地図 陶晴賢の謀反により討たれた大内義隆ら歴代大内氏の居館 大内氏館【お城特集 日本の歴史】

大内氏館もその役目を終えることとなり、館跡には「毛利隆元」が大内義隆の菩提を弔うために龍福寺を建立しています。現在は大内氏館の復元整備が進められています。

目次

京を写した町と、その中心にあった館

大内氏館は、城というより「館」です。堀と土塁で囲んだ方形の区画に、住まいと政庁と庭園が収まっていました。大内弘世が山口を本拠と定めたとき、京の町にならって道を碁盤の目に区切り、川を鴨川に見立てて町を造ったと伝わります。館はその町の中心に置かれました。戦うための城は別にあり、背後の山に詰城として高嶺城が築かれています。館と詰城を組み合わせる考え方は、各地の戦国大名に共通するものでした。

西国一の大名がここにいた

大内氏は周防・長門を本拠に、北九州や石見にも勢力を伸ばした大大名です。日明貿易で富を集め、京から公家や僧を招いて文化を育てました。雪舟が山口に住んだのもこのころです。大内義隆の代には、宣教師フランシスコ・ザビエルが訪れ、布教を許されています。山口が「西の京」と呼ばれたのは、この時代の蓄積があったからです。

家臣に攻められた館

天文二十年(一五五一)、重臣の陶隆房(のちの晴賢)が兵を挙げ、義隆は館を追われて長門の大寧寺で自害しました。文化を好み、武を軽んじたと非難されての謀反でしたが、実際には家中の対立が積み重なった末の出来事です。そのあと当主に立てられたのが、大友氏から養子に入っていた大内義長でした。弘治二年(一五五六)には毛利元就が攻め寄せ、義長は山口を捨てて逃れ、大名としての大内氏は滅びます。

館の跡に寺が建った

館の跡地には、毛利隆元が義隆の菩提を弔うために龍福寺を移しました。滅ぼした側が、滅ぼされた当主を供養する形です。境内の発掘で、池を中心にした庭園や、館を囲む堀と土塁の跡が見つかり、いまは西門や庭園が復元整備されています。土塁や堀の見方は城の基本用語にまとめました。

現地はいま

館跡は龍福寺の境内にあり、自由に歩けます。復元された西門や池泉庭園、土塁の一部を見られます。山口駅からバスで十分ほど、背後の高嶺城跡とあわせて歩くと、平地の館と山の城の関係がよく分かります。

【大内氏館・場所・アクセス】
〒753-0034 山口県山口市下竪小路57-3

【大内氏館地図】

  • URLをコピーしました!
目次