伏見の丘に建つ大小二つの天守は、豊臣秀吉の伏見城を復元したものではありません。昭和三十九年に遊園地の施設として建てられた模擬天守です。本物の伏見城の中心は、いま明治天皇陵になっていて立ち入ることができません。それでもこの場所が特別なのは、秀吉が最期を迎え、鳥居元忠が千八百で四万を十三日間支え、徳川三代が将軍宣下を受けた城が、たしかにこの丘にあったからです。
- いま建つ天守は昭和の遊園地の施設で、復元ではない
- 伏見城は二度築かれ、一度目は地震で倒れている
- 鳥居元忠の籠城が関ヶ原の幕を開けた
- 跡地に桃が植えられ、桃山という地名が生まれた
伏見城とは:秀吉が最後に築いた城
伏見は京と大坂を宇治川と淀川で結ぶ結節点で、船が行き交う水運の要でした。豊臣秀吉が隠居所としてこの地に城を構えたのは文禄元年(一五九二年)のことです。当初は指月と呼ばれる丘に築かれましたが、慶長元年(一五九六年)の大地震で倒壊し、すぐ北東の木幡山へ移して建て直されました。いま模擬天守が建つのは、この二代目の城域にあたる一帯です。
再建された伏見城は、隠居所というより政権の本拠でした。諸大名の屋敷が城下に並び、朝鮮との交渉もここで行われています。秀吉が慶長三年(一五九八年)に世を去ったのもこの城でした。

丘の上に建つ大小二つの天守。豪華な意匠だが、豊臣期の伏見城を復元したものではない。
この天守について
天守の姿は華やかで、いかにも桃山らしく見えます。ただ、その来歴は城とは別のところにあります。

晴れた日の天守。遊園地が閉じたあとも建物は残され、公園のなかで外観だけを見学できる。
鳥居元忠、千八百の十三日
慶長五年(一六〇〇年)、上杉討伐のため会津へ向かう徳川家康は、伏見城の留守を鳥居元忠に託しました。家康とは幼いころからの主従で、別れの夜に二人が語り合ったという話が伝えられています。家康が兵を分けようと言うのを元忠が断り、残る兵は少ないほうがよいと答えたとも伝わりますが、この場面は後世の記録に整えられた部分が大きいところです。
まもなく石田三成が兵を挙げ、宇喜多秀家や小西行長らの四万が伏見城を囲みます。守るのは千八百ほど。それでも十三日にわたって持ちこたえ、内応によって火が放たれるまで城は落ちませんでした。元忠は本丸で討ち死にし、城兵はことごとく倒れます。この籠城が東軍に時間を与え、関ヶ原へ向かう流れをつくりました。
落城のあと、血に染まった床板は供養のために京都の寺々へ引き取られ、天井板として使われました。養源院や源光庵に伝わる血天井がそれで、いまも手形や足形の跡を見ることができます。駿府城で晩年を過ごした家康が、元忠の家を末代まで厚く遇したのは、この十三日への報いでもありました。

石垣の上にそびえる天守。本来の伏見城の本丸は、ここではなく明治天皇陵になっている一帯にあった。
徳川三代の城と、桃山という地名
家康は焼けた伏見城を建て直し、征夷大将軍の宣下をこの城で受けました。秀忠も家光も同じく伏見城で将軍宣下を受けており、江戸幕府の始まりの儀式は三代続けてこの丘で行われています。二条城が京での将軍の宿館として整うと役割は移り、元和のころに伏見城は廃されました。
建物は各地へ移されたと伝えられ、福山城の伏見櫓のように、伏見の名を残したまま今日まで建っているものもあります。城が取り払われた跡地には桃の木が植えられ、やがて桃山と呼ばれるようになりました。安土桃山時代という時代の名は、この桃畑から来ています。聚楽第と同じく、秀吉が築いた大きな建物が跡形もなく消え、名前だけが残ったかたちです。
茶々が鶴松を産み、「淀殿」の呼び名の由来になった城は淀城 ─ 秀長が改修した淀古城と徳川の淀城跡で紹介しています。
伏見桃山城・場所とアクセス
京都市伏見区桃山町大蔵45。近鉄の丹波橋駅や京阪の伏見桃山駅から歩いて二十分ほど、JR桃山駅からも同じくらいです。公園は自由に入れ、天守は外観のみ見学できます。南へ下れば伏見の酒蔵の町並みと寺田屋、北へ回れば明治天皇陵の長い石段があります。城そのものを訪ねるというより、秀吉から家康への政権の移り目が起きた土地を歩く、という旅になります。

冬の天守。大天守と小天守が並ぶ姿は、桃山の華やかさを意識して設計されている。
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