鹿野城(しかのじょう)は、因幡の西部、鳥取市鹿野町にあった平山城です。城主として知られるのは亀井茲矩で、尼子再興軍に身を投じた武将のひとりでした。城山の裾を二重の堀がめぐり、今もその水面が残ります。茲矩は城だけでなく町と用水を整え、鹿野の町並みの骨格をつくりました。城跡は桜の名所として知られ、堀に映る花が見どころになっています。
- 尼子再興軍の生き残りだった亀井茲矩が長く城主をつとめた城
- 茲矩が鹿野に入ったのは関ヶ原より二十年ほど前で、関ヶ原は加増の節目
- 城下の町割りと用水、新田開発が今の鹿野の町並みのもとになっている
- 亀井家の津和野移封後は鳥取藩池田家の支城となり、やがて廃された

城山の裾をめぐる堀と、水ぎわに並ぶ桜。手前は堀に架かる橋の擬宝珠で、朱色の欄干が水面の色に映える。
水をたたえた堀と、城山の構え
鹿野城は、独立した小山を本丸とし、その周囲に二重の堀をめぐらせた城です。山上には本丸と二の丸が階段状に置かれ、麓の平地に居館と家臣屋敷、その外に城下町が広がる構成でした。山城と平城の性格をあわせ持つ、近世のはじめによく見られる形です。
今も残るのは、この堀と城山の地形です。石垣は一部が山腹に残りますが、建物は伝わっていません。堀は幅が広く、水面に山と桜がそのまま映りこみます。城を守るための水が、そのまま景色をつくる装置になっている—鹿野城跡が写真に撮られやすい理由は、この構造にあります。

堀の水が鏡のようになり、桜と対岸の山、そして空を映している。城山の南側にあたる一角。
尼子再興軍から、秀吉の与力へ
亀井茲矩はもともと湯氏の出で、尼子氏の家臣の家に生まれました。月山富田城が毛利に落ちて尼子氏が滅んだのち、山中幸盛(鹿介)らが起こした尼子再興軍に加わります。再興軍は上月城で織田方として毛利軍と戦いますが、援軍が絶たれて落城し、幸盛は護送の途中で討たれました。茲矩は亀井の名跡を継ぎ、以後は秀吉の与力として働きます。
天正八年(一五八〇)からの秀吉の因幡攻めで、鳥取城は兵糧攻めによって落ちました。この一連の戦いのなかで鹿野城も織田方のものとなり、茲矩が城を預かることになります。
鹿野城主になったのはいつか
町と用水をつくった城主
茲矩の名が地元で語り継がれているのは、戦よりも普請と開発のためです。城下では街路を碁盤目に区切り、寺を配置して町をまとめました。周辺では用水路を引き、日本海ぞいの砂丘地や河内川ぞいの荒地を新田に変えています。灌漑と新田開発は、石高を増やすもっとも確かな方法でした。
鹿野には、山中幸盛の菩提を弔うために茲矩が建てたと伝わる幸盛寺があります。尼子再興軍でともに戦った主筋を、大名となったのちに祀ったことになります。城下町の寺と町割りは今も歩いてたどれる形で残り、鹿野は城下町の面影を保つ町として知られています。
茲矩はまた、海の外との交易にも強い関心を持っていました。朱印船を仕立てて東南アジアへ船を出し、「琉球守」を名のったとも伝わります。この話は別の記事でくわしく取りあげています。

堀端に立つ木組みの常夜灯ごしに城山をのぞむ。山腹を桜が覆い、その下に堀の水が広がる。
津和野へ移り、支城となって消える
亀井家は二代政矩のとき、石見の津和野へ移されました。鹿野の地は鳥取藩池田家の領内に入り、鹿野城は支城として城代が置かれます。ただし一国一城令ののちは城としての機能を縮小し、建物は取り払われて堀と地形だけが残りました。廃城の詳しい経緯を伝える記録は多くありません。
因幡から伯耆にかけては、羽衣石城のように毛利と尼子・織田のあいだで揺れた城が点在します。鹿野城もその一つでしたが、戦国の城で終わらず、城下町と用水という形で次の時代に残ったところに特徴があります。
鹿野城跡の訪ね方
城跡は鹿野城跡公園として整備され、堀のまわりを一周できます。桜の季節には堀ぞいの並木が花をつけ、夜は照明も入ります。城山へは登る道がついており、山上からは鹿野の町と周囲の山並みが見わたせます。石垣の一部が残る区間もあるので、足もとを確かめながら歩くのがよいところです。
町へ下りれば、茲矩の町割りが残る通りと、幸盛寺をはじめとする寺が並びます。城跡と町をあわせて歩いて一時間ほど。鳥取市中心部からは車で四十分ほどで、鳥取城とあわせてまわる行程が組みやすい位置にあります。
所在地:〒689-0405 鳥取県鳥取市鹿野町鹿野
