浜田城(はまだじょう)は、日本海に面した石見の城です。大坂の陣の功で古田重治が入り、城と城下町を築きました。幕末、第二次長州征討の石州口で長州軍と戦った浜田藩は敗れ、藩主は城を出ます。このとき城は焼けましたが、長州軍が焼いたのではなく、藩みずからが火を放ちました。城跡は城山公園として残り、石垣と移築された門が見られます。
- 大坂の陣の功で古田重治が入り、日本海ぞいに築かれた平山城
- 二代で御家騒動が起き、以後は譜代・親藩の大名が次々に入れ替わった
- 幕末の藩主は水戸徳川家の出で、藩内は割れていた
- 城が焼けたのは長州軍の攻撃ではなく、退却にあたっての自焼

城山の登り口に建つ門。津和野藩の武家屋敷から移されたもので、浜田城の遺構ではないが、当時の門の姿を伝えている。奥に石段と石垣が続く。
日本海を背にした城
浜田城は、河口ちかくの独立した丘に築かれています。北は日本海、東西を川にはさまれ、南だけが陸につながる地形です。山頂に本丸、そこから段々に二の丸、三の丸を下ろし、麓に居館と城下町を置きました。石垣は自然石を積んだもので、段ごとに折れを入れて横矢がかかるようになっています。
石見は、銀山を抱える土地です。石見銀山は江戸幕府の直轄地となり、そこから積み出される銀と、日本海の廻船が行き来しました。浜田はその海ぞいにあり、港と街道を押さえる位置にあります。城が置かれた理由は、この海にあります。
古田氏の築城と、お家騒動
元和年間、大坂の陣の功で古田重治が五万四千石を与えられ、この地に入りました。重治は城を築き、町割りを整えます。ところが二代重恒の代に家中が分裂し、家督をめぐる争いから幕府の裁定を受けることになりました。いわゆる古田騒動です。結果として古田家は改易されます。
以後、浜田には松平(松井)氏、本多氏、松平(越智)氏と大名が入れ替わりました。西国をにらむ要地であり、譜代や親藩が置かれる土地だったからです。石高はおおむね五万石前後で、大きな藩ではありません。しかし、萩の毛利家に近いという一点が、この藩の立場を決めていました。
城は誰が焼いたのか
浜田藩が戦いきれなかった背景には、藩内の分裂がありました。藩主の松平武聡は水戸徳川家の出身で、水戸の斉昭の子、徳川慶喜の弟にあたります。水戸は攘夷論の発信地でしたが、藩としての浜田は幕府の命で長州と戦う立場にありました。藩士のあいだにも意見の隔たりがあり、士気はそろいません。
攻める長州側を指揮したのは大村益次郎でした。村医から兵学者となり、西洋式の用兵で石州口を進めます。山あいの道を通る部隊の動かし方、銃の使い方が、旧来の戦い方と噛み合わなかった—石州口の戦いは、その差がはっきり出た戦線でした。

草に覆われた本丸跡。建物はなく、平場と木立が残るだけで、右手に石造りの小さな記念物が立つ。
城が焼けたあとの浜田
藩主が退いたのち、浜田藩は所領を失い、藩そのものが消えました。旧藩士の一部は美作の鶴田へ移り、そこで藩を再興しています。城下は長州の支配下に置かれ、やがて明治の府県に組み込まれました。城が焼けたことは、この町にとって藩の終わりとほぼ同じ意味を持っています。
城山には、のちに津和野藩の武家屋敷の門が移されました。浜田城のものではありませんが、失われた城の入口を補うように、今は登り口に建っています。石垣は各所に残り、本丸まで登れば日本海と浜田の港が見わたせます。
浜田城跡の訪ね方
城跡はJR浜田駅から歩いて二十分ほど、城山公園として開かれています。麓の護国神社から登り、移築された門をくぐって石段を上がると、十五分ほどで本丸跡に着きます。石垣は段ごとに残っていて、折れの付け方を見ながら登ると城の構えがよくわかります。
山陰の城をめぐるなら、萩城や松江城、月山富田城と結ぶ行程が組めます。長州と幕府がぶつかった線を西からたどると、浜田がその最前線だったことが地図の上でも見えてきます。
所在地:〒697-0027 島根県浜田市殿町123-1
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