【水戸城とは】
水戸城は、御三家のひとつ水戸徳川家三十五万石の居城である。
だがこの城には天守がない。石垣もない。那珂川と千波湖に挟まれた台地を、巨大な空堀で三つに断ち切っただけの——中世以来の造りをそのまま使い続けた土の城である。日本100名城第14番。

令和二年(2020)に復元された大手門。高さ約13メートル、水戸城最大の門である(茨城県水戸市三の丸)
【佐竹から徳川へ】
この地に最初に城を構えたのは、平安末期の馬場氏(大掾氏の一族)と伝えられる。室町期には江戸氏が入り、およそ百五十年この城を保った。
天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐に乗じて佐竹義宣が江戸氏を追い、水戸城を奪う。翌年、佐竹氏は本拠を太田城(舞鶴城)から水戸へ移した。常陸五十四万石の中心が、ここに定まる。
だが佐竹の水戸時代は十年余りで終わる。関ヶ原で去就を明らかにしなかった義宣は、慶長七年(1602)に出羽秋田へ移された。このとき真壁城の真壁氏も従って角館へ移り、入れ替わりに角館の戸沢氏が常陸へ、のちに新庄へ流れていく。関ヶ原の後始末は、東北と関東の家をまるごと入れ替えた。
そして慶長十四年(1609)、徳川家康の十一男・頼房が二十五万石で入り、水戸徳川家が成立する。

令和三年(2021)に復元された二の丸角櫓。土塁の上に建ち、石垣は用いられていない
【石垣も天守もない御三家の城】
水戸城の造りは、御三家の居城としては異例である。
尾張徳川家の名古屋城には金の鯱を戴く大天守があり、紀州徳川家の和歌山城も高石垣を巡らせている。ところが水戸城には、石垣が一切ない。天守も建てられなかった(三階櫓が天守の代用とされたが、昭和二十年の空襲で焼失した)。

本丸と二の丸を隔てる巨大な空堀。現在はJR水郡線と道路が通り、その深さを実感できる
守りは、台地を断ち切る空堀と土塁だけで成り立っている。上の写真の谷は堀切の跡で、いまはそこに鉄道と道路が通っている。堀の底を電車が走る城というのは、そう多くない。
この日たどってきた城を並べると、水戸の位置がよく分かる。臼井城も児山城も中世の土の城だった。高田城は「石を一つも使わない七十五万石」だった。水戸城は、その系譜の最北端にして最高格——御三家が、中世の土の城に住み続けたのである。
【城が、学校になった】
水戸城の三の丸には、藩校弘道館がある。天保十二年(1841)、九代藩主徳川斉昭が創設した。

「特別史跡 旧弘道館」の石柱と正門。敷地は藩校としては日本最大級だった
弘道館は敷地面積で日本最大級の藩校で、儒学・国学・史学に加えて、医学・薬学・天文学・兵学・武術まで教えた。総合大学に近い。正門・正庁・至善堂は重要文化財、敷地全体が特別史跡である。

弘道館の一室。文机と行灯が当時のまま置かれている
この学校で学んだ最も有名な生徒が、徳川慶喜である。斉昭の七男として生まれた慶喜は五歳から水戸で育ち、弘道館で学問と武芸を修めた。三の丸には「徳川慶喜向学の地」の碑が立つ。
そして慶応四年(1868)、大政奉還ののち、慶喜は謹慎の地としてこの弘道館の至善堂を選んだ。最後の将軍が学んだ場所が、最後の将軍が将軍でなくなったあとに戻ってきた場所でもあった。

弘道館前に立つ徳川斉昭公像。奥に大手門が見える
【水戸で学んだことが、長州を動かした】
城下にもう一つ、見逃せない石碑がある。吉田松陰水戸留学の地である。

「吉田松陰水戸留学の地」の碑。松陰が残した詩が刻まれている
案内板によれば、松陰が水戸を訪れたのは嘉永四年(1851)十二月十九日から翌年一月二十日にかけて。この地にあった永井政介宅に約一か月余り滞在し、その間、会沢正志斎・豊田天功等の碩学に師事し、水戸の青年有志と交わって、水戸の学問の真髄を学んだという。
そして案内板はこう続ける。「その精神は、やがて長州藩の志士を奮起させ明治維新の原動力となった。」
石碑に刻まれた詩は、松陰が水戸を去るにあたり、政介の長子・芳之介に与えて志を励ましたものである。水戸の城下で二十二歳の青年が学んだことが、十六年後に幕府を倒す力になった。そしてその幕府の最後の将軍もまた、同じ城下で学んでいる。
【弘道館記を書いた男とその父】
斉昭を支えて藩政改革にあたり、弘道館の設立に最も大きな足跡を残したのが藤田東湖である。

藤田東湖像。弘道館記の草案を書き、『弘道館記述義』を著した
市が設置した「藤田東湖生誕の地」の案内板は、東湖を「藩政改革に尽力し、また『弘道館記』の草案を書き、『弘道館記述義』等を著して、藩校弘道館の創設に大きな足跡を残した側用人」と紹介する。文化三年(1806)三月十六日、父・幽谷の長男としてこの地に生まれた。
その屋敷地は寛政八年(1796)に父・幽谷が藩から与えられたもので、敷地内には私塾「青藍舎」があり、東湖はそこで父から学問を受けて成長した。江戸へ出て剣術や槍術の修行も積んだという。
父の藤田幽谷は古着商の子から水戸学の中心へ登った人物で、その生誕地の碑も近くに立つ。町の一角の私塾から出た父子が、水戸学を作り、藩校を作り、幕末の思想を作った。
【大河で描かれない話 ─ 斉昭が作った鉄の車】
水戸東照宮に、奇妙なものが保存されている。

鉄板を張った一人乗りの車両。徳川斉昭が考案したと伝えられ、安神車と呼ばれる
鉄板を鋲で留めた箱に車輪をつけ、覗き窓と銃眼を開けたもの。安神車と呼ばれ、徳川斉昭が考案したと伝えられる。牛に引かせて中の一人が銃を撃つという構想で、「日本最古の戦車」と紹介されることもある。
斉昭は海防を強く唱えた人物で、大砲の鋳造にも力を入れた。城内には十八封度カノン砲も残る。黒船が来る前から、この藩は外国と戦う準備をしていた。その発想がどれほど実用的だったかはさておき、当時の危機感がこの鉄の箱に固まっている。
【水戸城の現地写真】







【水戸城・場所・アクセス】
〒310-0011 茨城県水戸市三の丸
JR「水戸駅」北口から徒歩約10分。常磐自動車道 水戸インターから車で約20分。日本100名城 第14番。
見どころは復元された大手門と二の丸角櫓、本丸と二の丸を隔てる巨大な空堀、そして弘道館。城域には水戸一高・水戸二中などが建ち、いまも城が学校であり続けているのが水戸らしい。城下には藤田東湖・幽谷の生誕地、吉田松陰水戸留学の地が点在する。
【水戸城ゆかりの城】
