宇和島城:藤堂高虎が築いた海城と高さ十三メートルの石垣、伊達家が建てた現存天守

宇和島城:藤堂高虎が築城し伊達秀宗が配領 その後明治を迎える名城 宇和島城

宇和島城(うわじまじょう)は、愛媛県宇和島市にある城で、築城の名手・藤堂高虎が築いた海城です。かつては城の西半分が宇和海に接し、石垣が波打ち際から立ち上がっていました。高虎の時代のものとされる高さ約十三メートルの野面積みの石垣が今も残り、山頂には伊達家が建て直した小ぶりな白い天守が、江戸時代のままの姿で立っています。

この記事のポイント
  • 藤堂高虎が築いた海城。西半分は海、東側は海水を引き込んだ堀で守られていた
  • 高虎期とされる高さ約十三メートルの野面積みの石垣は、当時国内最高クラスの高さと伝わる
  • 外郭は五角形なのに四角に見える「空角の経始」という仕掛けで知られる
  • 高虎の天守は黒い三重の天守。いまの白い天守は伊達家二代・宗利が建て直した現存天守
目次

宇和島城とは|藤堂高虎が築いた海城

文禄四年(1595年)、藤堂高虎は朝鮮での働きを認められて伊予の宇和郡七万石を与えられ、この地に入りました。翌年から、中世の板島丸串城があった標高約七十四メートルの丘で本格的な築城を始め、慶長六年(1601年)に完成させます。高虎は、豊臣秀長の家臣として和歌山城などの普請に関わり、城づくりの腕を磨いてきた人物です。秀長に仕えた二十年については藤堂高虎とは:七度主君を替えた男で詳しく書いています。

宇和島城の現存天守と桜

石垣の上に立つ現存天守。春には城山の桜に囲まれます。

海に浮かぶ城だった|眼下に広がる宇和海

いまの宇和島城は市街地の真ん中にありますが、築かれた当時は違いました。城山の西半分は直接海に接し、石垣は波打ち際に築かれていました。東側には海水を引き込んだ水堀をめぐらせ、城全体がほとんど水に囲まれた「海城(水城)」だったのです。本丸からは眼下に宇和海が広がり、船で出入りすることもできました。城山には本丸から原生林の中を抜ける抜け道が何本もあり、海へ通じていたとも伝わります。堀と海は明治から大正にかけての港の改修で埋め立てられ、いまは海辺の城だった面影は地図の上からしかたどれません。伊予の海を押さえた城としては、村上水軍の来島城とあわせて読むと、瀬戸内と宇和海の城の違いが見えてきます。

高さ十三メートルの石垣|高虎が積んだ野面積み

城山には、藤堂高虎によるものとされる高さ約十三メートルの石垣が残っています。自然の石をほとんど加工せずに積み上げた野面積みで、築かれた当時は国内でも最高クラスの高さだったと伝わります。宇和島市の案内でも、藤兵衛丸の石垣群が高虎の築城期のものとして紹介されています。高虎はのちに伊賀上野城で高さ約三十メートルの高石垣を築きますが、その原点のひとつがこの宇和島にありました。三十メートルの石垣については伊賀上野城をご覧ください。

宇和島城の城山に残る石垣と石段

城山の登城道。苔むした石垣と石段が緑の中に続きます。

五角形なのに四角に見える|空角の経始

宇和島城のいちばん有名な仕掛けが、外郭の縄張りです。堀と海で囲んだ外郭のラインは、実は五角形になっていました。ところが城の外から見ると四角形にしか見えず、見えない一辺、つまり「空角」が生まれます。攻める側からは死角になり、守る側にとっては物資の搬入口や、いざというときの逃げ道になりました。この工夫は「空角の経始(あきかどのけいし)」と呼ばれます。高虎がなぜ築城の名手になれたのかは藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのかで掘り下げています。

▽ よく語られる話
幕府の隠密が宇和島城を調べたところ、四角形の城だと報告してしまいました。それほど高虎の仕掛けは見破れませんでした。
▼ 史実ではこうです
隠密の話は、空角の経始の巧みさを伝える逸話として語られるもので、確かな記録で裏づけられているわけではありません。確かなのは、外郭が五角形に設計されていたことと、それが外から四角に見える配置だったことです。

なぜ「築城の革命児」と呼ばれるのか

高虎は築城の名手、あるいは「築城の革命児」とも呼ばれます。理由は、それまでの城づくりの常識を変えた点にあります。ひとつは高石垣です。宇和島の十三メートル、伊賀上野の三十メートルと、石垣をどこまで高く積めるかを押し広げました。もうひとつは水の使い方で、宇和島や今治のように海水を堀に引き込み、海そのものを守りに変えました。さらに、同じ形の階を積み重ねる層塔型の天守は、建てるのが早く、部材も規格化しやすいもので、高虎がその普及に大きな役割を果たしたとされています。高虎が大改修した伊勢の津城や、秀長のもとで関わった和歌山城と見比べると、その変化がよくわかります。

板島丸串城から宇和島城へ|高虎以前と以後

この丘には、鎌倉時代の嘉禎二年(1236年)に西園寺公経が宇和地方を勢力下に置いて砦を築いたのが始まりとされ、丸串城と呼ばれていました。天正三年(1575年)には西園寺宣久の居城となります。天正十三年(1585年)、豊臣秀長を総大将とする四国攻めで伊予は小早川隆景の領地となり、家臣の持田右京が城代を務めました。四国攻めの流れは四国平定・九州平定をわかりやすく解説、伊予が毛利方に渡った経緯は四国国分とはで書いています。その後、戸田氏の城代を経て高虎が入り、完成とともに正式に宇和島城と名づけられました。高虎自身は加増されて今治城に本拠を移し、宇和島には城代を置きます。関ヶ原のあとに伊賀上野へ移り、慶長十三年(1608年)に富田信高が入城、信高の改易後はふたたび高虎が代官として預かりました。

黒い天守から白い天守へ|伊達家の宇和島

慶長十九年(1614年)、伊達政宗の長男・伊達秀宗が十万石で入り、以後明治まで伊達家が治めます。政宗の生涯は伊達政宗:関ヶ原から大坂の陣、そして晩年をどうぞ。高虎が建てた天守は、黒い下見板張りの三重の天守だったとされています。これを寛文年間(1662年から1671年)に二代藩主の伊達宗利が大改修し、いまの白漆喰の三重三階の天守に建て替えました。高虎の黒い天守から、伊達家の白い天守へ。城の顔は変わりましたが、縄張りそのものは高虎の設計がほぼそのまま使われたと考えられています。

石垣の上に立つ宇和島城天守

本丸の石垣の上に立つ天守。小ぶりながら破風の重なりが美しい姿です。

現存天守の見どころ|小ぶりで美しい白い天守

宇和島城の天守は、江戸時代以前に建てられた天守が今に残る全国十二の現存天守のひとつで、国の重要文化財です。石垣から少し離れて建つ独立式で、規模は小ぶりですが、正面の唐破風や重なる千鳥破風がよく整い、戦のための建物というより太平の世の藩の象徴として建てられたことがうかがえます。明治以降、ほとんどの建物は取り壊されましたが、天守と上り立ち門、石垣、山里倉庫が残りました。城山の登城道を歩くと、高虎の石垣と伊達家の石垣が入り混じる様子を見ることができます。秀長・高虎ゆかりの城をまとめてめぐるなら秀吉・秀長ゆかりの城めぐり完全ガイドも参考にしてください。

宇和島城の城山に残る石垣と苔むした石段

城山の石垣と石段。木々に覆われた道を登った先に本丸があります。

【宇和島城・場所・アクセス】
〒798-0060 愛媛県宇和島市丸之内1

【宇和島城地図】

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