- 天草国人一揆は、天正17年(1589)、肥後の天草諸島で、天草五人衆と呼ばれる地元の武士たちが、新しい領主の小西行長に背いた戦いです
- きっかけは、行長が宇土城を築くための普請(工事の負担)を命じたことでした。天草の国人たちは「自分たちは秀吉に直接従う身だ」として、これを拒みました
- 行長だけでは鎮められず、隣の加藤清正が援軍に駆けつけます。志岐城、本渡城が攻め落とされ、一揆はその年のうちに終わりました
- 天草の国人の多くはキリシタンでした。同じキリシタンの行長が、キリシタンの国人と戦うという、皮肉な戦いでもありました
肥後の国人一揆が佐々成政の切腹で幕を閉じたあと、肥後は北と南に分けられ、加藤清正と小西行長が入りました。これで肥後は落ち着いた、と思いたいところですが、そうはいきませんでした。わずか一年後、今度は南の小西領の天草で、ふたたび国人たちが立ち上がったのです。この記事では、肥後のもうひとつの国人一揆、天草国人一揆をたどります(肥後国人一揆とは)。

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天草五人衆とは
天草は、肥後の西に浮かぶ島々です。戦国時代、ここには志岐・天草・上津浦・栖本・大矢野の五つの家があり、それぞれ島の一部を治めていました。これが天草五人衆です。どの家も小さな勢力でしたが、何代にもわたってその土地に根を張ってきた、典型的な国人でした。
天草はキリスト教がさかんな土地でもありました。志岐氏や天草氏は早くから宣教師を受け入れ、領民の多くがキリシタンになっていました(キリシタン大名とは)。
| 家 | 本拠 | この一揆での動き |
|---|---|---|
| 志岐氏(志岐麟泉) | 天草下島の北・志岐城 | 一揆の中心。城を攻められ、のちに島を離れる |
| 天草氏(天草種元) | 天草下島の東・本渡城 | 本渡城に籠もって戦い、落城 |
| 上津浦氏 | 天草上島の西 | 一揆に加わる |
| 栖本氏 | 天草上島の南 | 一揆に加わる |
| 大矢野氏 | 大矢野島 | 一揆に加わる |
なぜ一揆が起きたのか ─ 宇土城の普請
天正16年(1588)、小西行長は肥後の南半国を与えられ、宇土に新しい城を築きはじめました。城づくりには大勢の人手がいります。行長は、領内の国人たちにも普請の負担を命じました(宇土城跡)。
天草五人衆は、これを拒みます。彼らの言い分は、自分たちは九州攻めのときに秀吉に直接従い、領地を安堵された身であって、行長の家来ではない、というものでした。新しく来た大名に従うかどうか。肥後国人一揆と同じ問いが、ここでもくり返されたのです。

志岐城と本渡城の戦い
天正17年(1589)、行長は兵を送り、一揆の中心となった志岐麟泉の志岐城を攻めました。ところが、天草の国人たちは粘り強く戦い、行長の軍は苦戦します。
ここで動いたのが、肥後の北半国を治める加藤清正でした。清正は援軍を率いて天草に渡ります。このとき、天草方の木山弾正と清正が一騎打ちをし、清正が討ち取ったという話が伝わっていますが、のちの軍記にもとづく逸話と見られます。
志岐城は落ち、一揆勢は天草種元の本渡城に集まって最後の抵抗をしました。しかし本渡城も攻め落とされ、天草国人一揆はその年のうちに終わります。城には女性たちも加わって戦ったと伝えられています。

その後の天草
一揆のあと、天草は名実ともに小西行長の領地となりました。天草五人衆の家は、行長の家臣となったり、島を離れたりして、国人としての力を失っていきます。
関ヶ原の戦いで行長が滅びると、天草は唐津の寺沢氏の領地となり、重い年貢とキリシタンへの厳しい取りしまりが続きました。寛永14年(1637)、天草と島原の人びとは原城にこもって立ち上がります。島原・天草一揆です。天草の人びとが立ち上がるのは、天草国人一揆からおよそ50年後のことでした(原城、有馬晴信とは)。

よくある質問
Q. 天草国人一揆はいつ起きましたか?
A. 天正17年(1589)です。
Q. 天草五人衆とはだれですか?
A. 志岐・天草・上津浦・栖本・大矢野の五家の国人です。
Q. なぜ一揆が起きたのですか?
A. 小西行長が宇土城の普請を命じたことを、天草の国人たちが拒んだためです。
Q. だれが鎮めましたか?
A. 小西行長が攻め、加藤清正が援軍に加わって鎮めました。
まとめ
天草国人一揆は、肥後国人一揆のあと、小西行長の領地となった天草で起きたもうひとつの国人一揆です。宇土城の普請を拒んだ天草五人衆は、行長と清正の軍に攻められ、志岐城と本渡城が落ちて一揆は終わりました。天草の人びとが再び立ち上がるのは、およそ50年後の島原・天草一揆でした。
参考:鳥津亮二『小西行長』八木書店/『肥後国誌』/天草市「本渡城跡」案内

