- 茶々は北近江の大名・浅井長政と、織田信長の妹・お市の方の長女です。生まれは永禄12年(1569)ごろとする説が有力です
- 父の小谷城、母と継父・柴田勝家の北ノ庄城と、二度の落城を生きのび、のちに秀吉の側室となって鶴松と秀頼を産みました
- 『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」では、秀長が秀吉に、跡継ぎの実子をもうけるため「織田の血を引く茶々」を迎えるよう勧めると予告されています。ただし、秀長が勧めたことを示す史料は見当たりません
- 慶長20年(1615)5月、大坂夏の陣で秀頼とともに大坂城で亡くなりました。「悪女」という印象の多くは、江戸時代以降につくられたものです
『豊臣兄弟!』で井上和さんが演じる茶々は、第39回「茶々の本心」で物語の中心に立ちます。NHKの予告では、秀長が秀吉に、後継者となる実子をもうけるため織田の血を引く茶々をめとるよう勧める、と紹介されました。のちに「淀殿」と呼ばれ、秀頼の母として豊臣家の最後を見届けることになる茶々は、どんな一生を送ったのでしょうか。この記事では、生まれから大坂城の最期までの生涯を、年表とあわせて史実でたどります。秀吉の側室になった理由については茶々(淀殿)はなぜ秀吉の側室になったのかでくわしく扱っています。
茶々の生まれ ─ 浅井長政とお市の長女

茶々の父は北近江(いまの滋賀県北部)の大名・浅井長政、母は織田信長の妹・お市の方です。つまり茶々は信長の姪にあたり、妹に初と江がいて、三人はのちに「浅井三姉妹」と呼ばれました(お市の方とは/お市の方と浅井三姉妹)。生まれた年は、かつては永禄10年(1567)とされてきましたが、近年は永禄12年(1569)とする説が有力になっています。
一度目の落城 ─ 小谷城(天正元年)
浅井長政は、はじめは信長と手を結んでいましたが、やがて朝倉氏の側について信長と戦うようになります。天正元年(1573)、信長の軍勢に攻められて小谷城は落ち、長政は自害しました。茶々はまだ数え五つほどでした。母のお市と三姉妹は城を出て織田家に引き取られましたが、兄の万福丸は処刑されています。この小谷攻めで、城の中ほどの京極丸を攻め落としたのが、秀吉と秀長の兄弟でした(小谷城の戦い/小谷城跡)。茶々にとって秀吉は、父を滅ぼした軍勢の一人でもあったのです。
二度目の落城 ─ 北ノ庄城(天正11年)
本能寺の変のあと、お市は織田家の重臣・柴田勝家と再婚し、三姉妹も越前の北ノ庄城へ移ります。しかし天正11年(1583)、勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、北ノ庄城でお市とともに自害しました。三姉妹は城から出され、秀吉のもとで暮らすことになります(北ノ庄城/柴田勝家とは)。茶々は十五歳ほどで、二度目の落城で母を失ったことになります。

「織田の血を引く」娘 ─ 第39回で語られること
第39回の予告で強調されているのが「織田の血」です。秀吉と正室の寧々のあいだには子がなく、秀吉は信長の四男・於次秀勝を養子に迎えていましたが、その秀勝は天正13年(1585)12月に十八歳で亡くなってしまいます。織田の血を引く跡継ぎ候補を失ったあとで、信長の姪である茶々を迎えるという流れは、ドラマの筋としてはよく理解できます。ただし、秀長が秀吉に茶々を勧めたことを記した史料は見当たらず、これはドラマの描き方とみられます(第39回「茶々の本心」の予想と史実)。秀吉の跡継ぎ問題は秀吉に実子はいたのかでまとめています。
秀吉の側室になったのはいつか
茶々が秀吉の側室になった時期は、はっきりしていません。秀吉のもとにいたことが史料で確かめられるのは天正14年(1586)10月ごろからで、天正17年(1589)5月27日には、秀吉が茶々のために用意した淀城で長男の鶴松が生まれています。淀城は秀長が普請を任された城で、ここから茶々は「淀の方」「淀殿」と呼ばれるようになります(茶々はなぜ淀殿と呼ばれたのか)。なぜ父母の仇ともいえる秀吉の側室になったのかについては、浅井の家を残すため、妹たちを守るためなど、さまざまな見方があります(茶々はなぜ秀吉の側室になったのか)。
鶴松と秀頼 ─ 天下人の跡継ぎの母に
待望の男子だった鶴松は、天正19年(1591)8月5日、わずか三歳で亡くなりました。秀吉は同じ年の12月、甥の秀次に関白をゆずります。ところが文禄2年(1593)8月3日、茶々は大坂城で二人目の男子・拾(のちの秀頼)を産みました。秀頼の誕生は秀次の立場を揺るがし、文禄4年の秀次事件へとつながっていきます(秀次事件をわかりやすく)。慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなると、茶々は幼い秀頼の母として大坂城に入り、豊臣家の中心に立つことになりました。
関ヶ原から大坂の陣へ ─ 姉妹が敵味方に
秀吉の死後、豊臣家の内では石田三成らと徳川家康の対立が深まり、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いへと進みます(石田三成と茶々の関係)。三姉妹の運命はここで大きく分かれました。妹の初は京極高次の妻となり、のちに大坂冬の陣では和睦の使者として動きます。末の妹・江は徳川秀忠の正室となり、三代将軍家光の母になりました(初(常高院)とは/浅井三姉妹のその後)。
大坂冬の陣のとき、淀殿が武具を身につけ、武装した女房を三、四人連れて番所の武士を励ましたという記録が『当代記』に残っています。ドラマで茶々が弓を引く場面がたびたび描かれるのは、こうした「武の顔」を思わせるものかもしれません(茶々は弓が得意だったのか)。慶長20年(1615)5月8日、大坂夏の陣で大坂城が落ち、茶々は秀頼とともに自害しました。三度目の落城でした。
茶々(淀殿)の生涯 年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 永禄12年(1569)ごろ | 近江の小谷城で、浅井長政とお市の方の長女として生まれる(永禄10年説もある) |
| 天正元年(1573) | 小谷城が落ち、父・長政が自害。母と妹たちと織田家に引き取られる |
| 天正10年(1582) | 本能寺の変。母・お市が柴田勝家と再婚し、越前の北ノ庄城へ |
| 天正11年(1583) | 北ノ庄城が落ち、母と勝家が自害。三姉妹は秀吉のもとへ |
| 天正13年(1585)12月 | 秀吉の養子で信長の四男・於次秀勝が死去 |
| 天正14年(1586)10月ごろ | 秀吉のもとにいたことが史料で確かめられる |
| 天正16年(1588)ごろ | 秀吉の側室になったとされる |
| 天正17年(1589)5月27日 | 秀長が普請した淀城で、長男・鶴松を産む |
| 天正19年(1591) | 1月に秀長、8月5日に鶴松が死去 |
| 文禄2年(1593)8月3日 | 大坂城で次男・拾(秀頼)を産む |
| 慶長3年(1598)8月 | 秀吉が死去。秀頼の母として大坂城に入る |
| 慶長5年(1600) | 関ヶ原の戦い |
| 慶長6年(1601)6月 | 「気鬱」で食が進まず、曲直瀬玄朔の薬を受ける(『医学天正記』) |
| 慶長8年(1603) | 2月に家康が将軍に。5月に再び玄朔の診察。7月に姪の千姫が秀頼に嫁ぐ |
| 慶長19年(1614) | 大坂冬の陣。武具を着て番所の武士を励ます(『当代記』) |
| 慶長20年(1615)5月8日 | 大坂夏の陣で大坂城が落ち、秀頼とともに自害 |
「悪女」淀殿のイメージは本当か
淀殿は、豊臣家を滅ぼした気の強い悪女として語られることが少なくありません。けれども、その像の多くは、豊臣家を滅ぼした徳川の時代以降に書かれた軍記や、明治以降の芝居で広まったものです。
茶々(淀殿)ゆかりの地
茶々の一生は、三つの城の落城とともにありました。生まれ育った小谷城跡(滋賀県長浜市)、母と別れた北ノ庄城(福井市)、鶴松を産んだ淀城(淀殿と呼ばれた理由)、そして最期の地となった大阪城です。いまの大阪城は徳川が築き直したもので、茶々が暮らした豊臣の大坂城は地下に眠っています。
よくある疑問
Q. 『豊臣兄弟!』で茶々を演じているのは誰ですか?
A. 井上和さんです。
Q. 茶々と淀殿は同じ人物ですか?
A. 同じ人物です。茶々は幼いころからの名で、淀城に住んだことから「淀の方」「淀殿」と呼ばれるようになりました。「淀君」という呼び名は後世に広まったものです。
Q. 茶々は何年に生まれましたか?
A. 永禄10年(1567)説と永禄12年(1569)説があり、近年は永禄12年説が有力です。
Q. 秀長が秀吉に茶々を勧めたのは史実ですか?
A. それを示す史料は見当たりません。第39回の描き方とみられます。
Q. 茶々はどのように亡くなりましたか?
A. 慶長20年(1615)5月8日、大坂夏の陣で大坂城が落ちたとき、秀頼とともに自害しました。
まとめ
茶々は、浅井長政とお市の方の長女として生まれ、小谷城と北ノ庄城で二度の落城を経験したのち、秀吉の側室として鶴松と秀頼を産みました。秀吉の死後は秀頼の母として豊臣家を背負い、大坂夏の陣で三度目の落城とともに生涯を終えます。井上和さんが演じる茶々が、第39回「茶々の本心」でどんな「本心」を見せるのか、第39回の予想と史実とあわせて注目してみてください。
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