- 石田三成と茶々(淀殿)は、どちらも北近江にゆかりがあり、浅井家の旧領という共通の土地を背負っていました
- 「三成と淀殿が組んで、北政所と加藤清正らに対立した」という図式はよく知られていますが、近年はこの対立の図式そのものを疑う見方が強くなっています
- 関ヶ原の直前、淀殿は三成の挙兵を鎮めるために家康に上洛を求める書状を出しており、三成の側に立ったわけではありません
- 二人の不義を疑う話は江戸時代の俗説で、確かな史料はありません
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、大坂城でわがままを言う茶々(井上和)に、石田三成(松本怜生)が忠告する場面が描かれます。のちに淀殿と呼ばれる茶々と、豊臣家の奉行として秀吉を支えた三成は、関ヶ原の戦いでは同じ「豊臣方」とされることが多い二人です。では、二人は実際にどれほど近い関係だったのでしょうか。
二人をつなぐ北近江という土地
石田三成は永禄3年(1560)、近江国坂田郡の石田村(いまの滋賀県長浜市)に生まれました。そこは浅井氏が治めた北近江の一角で、三成の石田家は、この土地の土豪の家でした。一方、茶々は浅井長政とお市の方の長女として、北近江の小谷城で育ちます。二人は、同じ北近江の出身だったのです。
浅井家が滅んだあと、北近江を任されたのが秀吉で、三成はこの長浜時代に秀吉に仕えたと伝わります。寺で小姓をしていた三成が、鷹狩りの帰りの秀吉にぬるい茶から順に三杯出して気に入られたという「三献茶」の話は有名ですが、これは江戸時代の逸話集に見える話です。確かなのは、三成が浅井家の旧領から秀吉に取り立てられた人物だったという点で、茶々にとって三成は、父の国の出身者でもありました。

茶々が秀吉の妻になったころ、三成は奉行だった
天正11年(1583)に北ノ庄城が落ちて母のお市が亡くなると、茶々たち三姉妹は秀吉のもとに引き取られます。茶々が秀吉の妻として史料に見えるのは天正14年(1586)ごろからで、天正17年には長男の鶴松、文禄2年(1593)には秀頼を産みました。そのころ三成は、秀吉のもとで検地や兵站、大名との取次を担う奉行として働いていて、茶々とじかに向き合う場面を伝える史料はほとんどありません。ドラマの忠告の場面は、二人のその後を見すえた創作と考えるのがよいでしょう。
茶々が仇の秀吉の妻になった理由については 茶々(淀殿)はなぜ仇・豊臣秀吉の側室になったのか で、三成という人物については 石田三成:なぜ嫌われ、なぜ敗れたのか でくわしく取り上げています。
「淀殿派と北政所派」の対立はあったのか
秀吉が亡くなったあとの豊臣家について、長く語られてきたのが「近江派」と「尾張派」の対立です。三成ら近江出身の奉行が淀殿を支え、加藤清正・福島正則ら尾張出身の武将が秀吉の正室・北政所(ねね)を慕い、その対立が関ヶ原につながった、という図式です。
秀吉の死後、二人はどんな立場にいたのか
慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなると、六歳の秀頼が豊臣家の当主となり、母の淀殿は秀頼とともに大坂城に入りました。政治は、徳川家康ら五大老と、三成ら五奉行が分担して担う形になり、三成は奉行として、淀殿は秀頼の母として、それぞれ幼い主君を支える立場にありました。ところが翌慶長4年、加藤清正ら七人の武将が三成を襲おうとする事件が起き、三成は奉行を退いて居城の佐和山城に引きこもります。そのあとに大坂城の西の丸へ入ったのが家康で、三成が表舞台から外れたことで、淀殿と秀頼を支える奉行の側の力は大きく弱まりました。二人のあいだに立って豊臣家を守る仕組みは、この時点で崩れはじめていたのです。
関ヶ原の直前、淀殿は三成の味方をしたのか
慶長5年(1600)7月、三成が大谷吉継らと挙兵の準備を進めると、淀殿と三人の奉行は、事態をしずめるために急いで上洛するよう、会津へ向かっていた家康に書状を送っています。このとき淀殿は、三成の動きを止める側にいたのです。その後、毛利輝元を総大将として西軍が立ち上がってからも、淀殿は秀頼の名で出陣したり、秀頼の墨付きを出したりすることは許さず、豊臣家としては成り行きを見守る立場をとったとされます。
関ヶ原で西軍が敗れると、三成は捕らえられて10月1日に京の六条河原で処刑されました。一方、淀殿と秀頼は罪を問われず、大坂城にとどまります。淀殿が三成と一体だったのなら、こうはならなかったはずで、二人の立場ははっきり分かれていたのです。

三成の居城・佐和山城については 佐和山城跡 で紹介しています。
二人の不義を疑う話は本当か
江戸時代には、淀殿と三成、あるいは大野治長との不義をうわさし、秀頼は秀吉の子ではないとする話が書き残されました。けれども、それを裏づける同時代の確かな史料はありません。豊臣家を滅ぼした側の時代に、淀殿を「家を傾けた女性」として描く物語がつくられていくなかで広まった俗説と考えるのが自然です。秀頼の出生をめぐる疑惑については 秀頼は本当に秀吉の子だったのか で取り上げています。
よくある疑問
Q. 石田三成と淀殿は恋仲だったのですか?
A. そうした話は江戸時代の俗説で、確かな史料はありません。
Q. 三成と淀殿は同じ出身地ですか?
A. どちらも北近江の出身です。三成は坂田郡石田村、淀殿は浅井家の小谷城で育ちました。
Q. 関ヶ原で淀殿は西軍だったのですか?
A. 西軍は秀頼を立てて戦いましたが、淀殿は秀頼を出陣させず、豊臣家としては見守る立場をとりました。挙兵の直前には、家康に上洛を求める書状も出しています。
まとめ
石田三成と茶々(淀殿)は、同じ北近江の出身で、秀吉の死後はともに豊臣家を支える立場にありました。けれども、二人が手を組んで北政所方と争ったという図式や、不義のうわさには確かな裏づけがなく、関ヶ原の直前、淀殿はむしろ三成の挙兵を止める側に立っています。ドラマで三成が茶々に忠告する場面は、豊臣家の行く末に深くかかわることになる二人の、最初の接点として描かれているのでしょう。
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