小谷城の戦い(小谷落城)とは:秀吉兄弟が京極丸を落とした夜と、浅井久政・長政の最期|天正元年の全経過

夜明け前に松明を掲げて小谷城の曲輪へ攻め登る羽柴勢のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 小谷城の戦いは、天正元年(1573)8月から9月にかけて、織田信長が浅井長政の本城・小谷城を攻め落とし、浅井家を滅ぼした戦いです
  • 信長はまず援軍に来た朝倉義景を追って越前へ攻め込み、朝倉家を滅ぼしてから小谷城に戻りました
  • 勝負を決めたのは、8月27日の夜に羽柴秀吉の部隊が尾根の中ほどの京極丸を奪い、小丸の浅井久政と本丸の長政を切り離したことでした
  • 久政は小丸で自害し、長政も本丸を追われて9月1日ごろに自害したとされます。お市と三人の娘は城を出て、秀吉が北近江を任されることになりました
  • 京極丸攻めで弟の小一郎(秀長)が活躍したという話は広く知られていますが、同時代の記録で確かめられるのは秀吉の部隊の働きまでです

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第17回「小谷落城」で描かれたのが、この小谷城の戦いです。姉川の戦いから三年、浅井長政が最後までこもった北近江の山城は、秀吉の部隊が夜のうちに尾根の真ん中を奪ったことで、一気に崩れました。この戦いは浅井家の滅亡であると同時に、秀吉が初めて一国規模の領地を手にする出発点でもあります。この記事では、朝倉家の滅亡から京極丸攻め、浅井父子の最期、そして戦いのあとの北近江までを、城の構造の図とともにくわしくたどります。

目次

姉川から三年 ── 秀吉は横山城で何をしていたのか

元亀元年(1570)の姉川の戦いで浅井・朝倉の連合軍を破ったものの、信長は小谷城を落とせませんでした。小谷城は標高約五百メートルの小谷山に築かれ、尾根に沿って曲輪がいくつも連なる、北近江でも屈指の堅い山城だったからです。その後の三年間、信長は浅井だけを相手にしていられませんでした。比叡山の焼き討ち、石山本願寺との戦い、そして甲斐の武田信玄の西上と、四方を敵に囲まれていたのです。姉川の戦いの経過は 姉川の戦い で紹介しています。

そのあいだ、小谷城の南の横山城に入った秀吉は、浅井方の武将を一人ずつ調略して寝返らせていきました。佐和山城の磯野員昌が降り、宮部継潤も織田方に移ります。元亀3年(1572)には、小谷城の目の前にある虎御前山に織田方の砦が築かれ、横山城から虎御前山まで軍用の道も通されました。力攻めではなく、包囲の輪を少しずつ縮めていくやり方です。虎御前山の砦については 虎御前山城跡 で、秀吉が守った横山城は 横山城 で紹介しています。

天正元年8月 ── 先に朝倉が滅びた

天正元年(1573)4月に武田信玄が亡くなり、7月には信長が将軍足利義昭を京から追いました。背後の心配がなくなった信長は、8月8日、三万とされる大軍を率いて北近江へ出陣します。ちょうどこのころ、小谷城の北西を守っていた浅井方の阿閉貞征が織田方に寝返り、小谷城の守りに穴があきました。

浅井を救うため、越前から朝倉義景がふたたび援軍を率いてやって来ました。ところが8月12日の夜、信長は風雨をついて自ら小谷城の北の大嶽の砦を攻め取り、続いて丁野山の砦も落とします。小谷城と朝倉勢を結ぶ拠点を失った義景は、越前へ退きはじめました。信長はこれを見逃さず、退く朝倉勢を追って刀根坂で大きく打ち破り、そのまま越前へ攻め込みます。8月17日には一乗谷が焼かれ、20日、義景は逃れた先で自害しました。百年以上続いた越前朝倉家は、わずか十日ほどで滅んだことになります。

援軍を失った小谷城は、完全に孤立しました。信長は越前から北近江へ取って返し、8月26日、ふたたび虎御前山に陣を据えます。

小谷城のかたち ── 尾根に並んだ曲輪

小谷城の攻め方を理解するには、城のかたちを知っておく必要があります。小谷城は、小谷山の南へ延びる細長い尾根の上に、曲輪を一列に並べた城でした。北の山頂近くに大嶽の砦があり、そこから南へ、浅井久政が住んだ小丸、京極丸、中丸、長政が住んだ本丸、大広間、番所と続きます。尾根の両側は急な斜面で、東側の清水谷には家臣たちの屋敷が並んでいました。

小谷城の曲輪の配置と、秀吉の部隊が京極丸を攻めた方向を示す概略図
小谷城の曲輪の配置の概略図。尾根の中ほどの京極丸を奪われたことで、北の小丸と南の本丸が切り離されました。

この並び方には弱点がありました。曲輪が一列に連なっているため、途中の一つを奪われると、その北と南が分断されてしまうのです。しかも、北の小丸には隠居の父・久政が、南の本丸には当主の長政がいて、父子は別々の曲輪にいました。京極丸は、ちょうどその二人のあいだに位置していました。

8月27日の夜 ── 秀吉の部隊が京極丸を奪う

『信長公記』は、8月27日の夜中に羽柴筑前守(秀吉)が「京極つぶら」、つまり京極丸に攻め上り、浅井下野守(久政)と浅井備前守(長政)のあいだを取り切った、と記しています。秀吉の部隊は、東の清水谷の方から斜面を登って京極丸に取りつき、夜のうちにここを占領したと考えられています。

京極丸を奪われたことで、小丸の久政と本丸の長政は互いに助け合うことができなくなりました。秀吉の部隊は続いて北の小丸に攻めかかり、追い詰められた久政は小丸で自害します。日付は8月27日の深夜から28日にかけてとされますが、諸説があります。久政の首は京へ送られました。

夜明け前に松明を掲げて小谷城の曲輪へ攻め登る羽柴勢のイメージ(イラスト)
京極丸へ攻め登る羽柴勢のイメージ(イラスト)。尾根の中ほどを奪ったことが、小谷城の命運を決めました。
▽ よく語られる話
京極丸攻めは秀吉兄弟の大手柄で、弟の小一郎が先頭に立って崖をよじ登り、夜のうちに曲輪を奪った。
▼ 史実ではこうです
『信長公記』が記しているのは、羽柴筑前守(秀吉)が京極丸に攻め上って久政と長政のあいだを取り切った、というところまでです。秀吉の部隊に小一郎(のちの秀長)がいた可能性は高いものの、小一郎が具体的に何をしたかを記した同時代の記録はありません。兄弟の分担や崖登りの場面は、後世の物語やドラマの脚色と考えておくのがよいでしょう。

浅井長政の最期とお市・三姉妹

本丸に残された長政は、なおしばらく抵抗を続けました。『信長公記』は、翌日に信長自らが京極丸に上り、長政を自害させたように記していますが、長政が8月29日付で家臣に感状を出したと伝わることなどから、長政の自害は9月1日とする説が有力です。長政は本丸を出て、その下の赤尾屋敷で自害したと伝えられています。数え年で二十九歳でした。

落城の前に、長政の妻・お市と三人の娘、茶々・初・江は城を出され、織田方に引き取られました。一方、長政の嫡男・万福丸は城から逃がされたものの、のちに見つけ出され、関ヶ原で処刑されたと伝えられます。三人の娘のその後は大きく分かれていき、長女の茶々はやがて秀吉の側室となりました。お市の生涯は お市の方とは で、三姉妹のその後は 浅井三姉妹のその後 でくわしく紹介しています。

元亀元年(1570)6月 姉川の戦い。秀吉が横山城の城番に
元亀3年(1572) 虎御前山に織田方の砦。横山城までの軍用道路
天正元年(1573)8月8日 信長、北近江へ出陣。阿閉貞征が織田方に
8月12日夜 信長、大嶽の砦を攻め取る
8月13日以降 退く朝倉勢を刀根坂で破り、越前へ
8月20日 朝倉義景が自害。朝倉家滅亡
8月26日 信長、虎御前山に戻る
8月27日夜 秀吉の部隊が京極丸を奪う。小丸の久政が自害
9月1日ごろ 長政が自害し、小谷城が落城

落城のあと ── 秀吉、北近江の大名に

小谷城が落ちると、信長は浅井家の旧領だった北近江三郡を秀吉に与えました。石高は十二万石ほどとされます。秀吉にとって、初めての一国規模の領地でした。秀吉はこのころ名字を木下から羽柴に改め、山の上の小谷城ではなく、琵琶湖のほとりの今浜に新しい城を築いて、地名を長浜と改めました。小谷城は使われなくなり、建物や石材の一部は長浜城の普請に回されたと伝えられています。

弟の小一郎が兄の家中の重臣として名前を確かに見せはじめるのも、この長浜時代からです。北近江の村々を治め、年貢を集め、家臣団をまとめる仕事が、兄弟の肩にかかることになりました。小谷城の落城は、秀吉兄弟が「戦う武将」から「国を治める大名」へと踏み出した転機でもあったのです。長浜城については 長浜城 で紹介しています。

小谷城跡を歩く

小谷城跡は滋賀県長浜市湖北町にあり、国の史跡に指定されています。ふもとの小谷城戦国歴史資料館で城の模型や資料を見てから登ると、曲輪の並びがよくわかります。番所跡から大広間、本丸、中丸、京極丸、小丸へと尾根をたどると、京極丸が本丸と小丸のちょうどあいだにあることが実感できるはずです。秀吉の部隊がどこを奪えば城が二つに割れるかを見抜いたことが、足で歩くとよくわかります。登り道や駐車場、通行止めの情報は、出かける前に長浜市の観光案内で確かめておくと安心です。城の見どころは 小谷城跡 にまとめています。

よくある疑問

Q. 小谷城が落城したのはいつですか?
A. 天正元年(1573)です。8月27日夜に京極丸が落ち、浅井長政は9月1日ごろに自害したとされます。

Q. 京極丸を落としたのは誰ですか?
A. 『信長公記』は、羽柴筑前守(秀吉)が京極丸に攻め上ったと記しています。

Q. 秀長(小一郎)は小谷城攻めで活躍したのですか?
A. 兄の部隊にいた可能性は高いですが、小一郎の具体的な働きを記した同時代の記録はありません。

Q. お市の方と三姉妹はどうなったのですか?
A. 落城の前に城を出され、織田方に引き取られました。お市はのちに柴田勝家に嫁ぎ、北ノ庄城で最期を迎えます。

まとめ

小谷城の戦いは、三年がかりの包囲の末に、信長がまず朝倉家を滅ぼし、孤立した小谷城を攻め落とした戦いです。決め手となったのは、秀吉の部隊が8月27日の夜に尾根の中ほどの京極丸を奪い、小丸の久政と本丸の長政を切り離したことでした。浅井家は滅び、北近江は秀吉に与えられ、ここから長浜城主・羽柴秀吉と、その家中を支える弟・小一郎の時代が始まります。ドラマ全体の流れは 豊臣兄弟!全話一覧 で、浅井家の側から見た最期は 浅井長政 後編 でたどることができます。

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