- お市の方は生涯に二度、城が落ちる夜を経験している。小谷と北ノ庄である
- 一度目は娘たちと生き延び、二度目は自ら残ることを選んだ。その差は何だったのか
- 三姉妹を城から出したのは、勝家ではなくお市の意思だったと考えられる
- 茶々・初・江の三人は、その後それぞれ豊臣・京極・徳川へ嫁ぎ、天下の血筋をつないだ
- 北ノ庄城跡(福井市)には三姉妹像と勝家像が並んで立っている
天正十一年(1583)四月二十四日、越前北ノ庄城は炎に包まれた。柴田勝家は妻・お市の方とともに天守に籠もり、自ら火を放って果てる。だがその前に、三人の娘は城から出されていた。茶々、初、江。のちに淀殿となり、京極高次の正室となり、徳川秀忠の御台所となる三姉妹である。
この夜の判断が、その後の日本の歴史を決めたと言っていい。大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも、賤ヶ岳の戦いに続くこの場面は大きな山場になる。今回は、勝ち残った側ではなく、城に残った女性の側から北ノ庄落城を見てみたい。

北ノ庄城址公園に立つ浅井三姉妹の像。茶々・初・江の三人はこの城から送り出された
二度、城が落ちる夜を迎えた人
お市の方は織田信長の妹である。永禄十年(1567)ごろ、近江の浅井長政に嫁いだ。政略結婚ではあったが、二人の仲は良かったと伝えられ、茶々・初・江の三人の娘が生まれている。
その幸せを壊したのは兄だった。元亀元年(1570)、浅井氏が朝倉義景に味方して信長から離反すると、両家は決裂する。姉川の合戦を経て、天正元年(1573)、小谷城は織田軍に囲まれた。長政は自刃し、浅井氏は滅ぶ。このときお市は三人の娘とともに城を出て、兄のもとへ戻った。落城の夜を生き延びたのである。
だが十年後、彼女はもう一度、燃える城の中にいた。しかも今度は、自分の意思で残った。同じ状況で正反対の選択をしているところに、この人の十年が凝縮されている。
なぜ勝家に嫁いだのか
天正十年(1582)六月、本能寺の変で信長が斃れる。跡目を決めた清須会議のあと、お市は柴田勝家に嫁いだ。三十代半ばの後家と、六十歳前後の宿将である。
この縁組が誰の主導だったかについては説が分かれる。勝家が織田家中の序列を固めるために望んだとも、信長の弟・織田信包や信孝が羽柴秀吉を牽制するために仕組んだとも言われる。確かなのは、この結婚によってお市が「信長の妹」から「反秀吉陣営の中心にいる女性」へと立場を変えたことである。秀吉が三法師を擁して主導権を握るなか、勝家とお市の結びつきは、織田家の正統を主張する旗印そのものだった。
ドラマではこの縁組が、秀吉にとって痛恨の一手として描かれるはずである。お市が秀吉を嫌っていたという逸話は後世の脚色を含むが、少なくとも政治的には、彼女は明確に秀吉の敵側に立った。

北ノ庄城址・柴田神社に立つ柴田勝家の像。「瓶割り柴田」と恐れられた織田家筆頭家老の最期の地である
賤ヶ岳、そして四月二十四日
天正十一年(1583)四月、近江・賤ヶ岳で両者は激突する。勝家軍は前田利家の戦線離脱をきっかけに総崩れとなり、勝家は越前へ敗走した。追撃してきた秀吉軍は北ノ庄城を包囲する。
『川角太閤記』などの記録によれば、勝家は城に籠もる前に、お市と三人の娘を城から出そうとした。娘たちは受け入れられた。だがお市は拒んだ。長政のときは娘のために生きる道を選んだが、今度は妻として最期をともにする——そう決めたのだと伝えられる。
四月二十四日、勝家は宴を開いて家臣に別れを告げ、天守に火を放った。辞世は「夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲居にあげよ 山ほととぎす」。お市の辞世とされるのは「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」。夫婦の歌がどちらもほととぎすを詠んでいるのは、後世の創作を疑わせもするが、そう語り継がれてきたこと自体がこの夜の重さを示している。享年、お市三十七。

北ノ庄城址に建つ慰霊碑。城とともに果てた勝家・お市と、家臣たちを弔う
三姉妹を出したのは誰の判断か
ここが、この話のいちばん面白いところである。通説では「勝家が娘たちを助けた」と語られる。だが少し考えてみると、娘たちは勝家の実子ではない。浅井長政の遺児であり、織田信長の姪である。勝家にとっては、守るべき義理はあっても血のつながりはない。
一方、お市にとって三人は自分の産んだ娘である。そして彼女は十年前、まさに同じ状況で娘を連れて城を出た経験がある。落城の作法を知っていたのだ。誰に託せば娘が生き延びられるか、どのタイミングで出せばいいのか。それを身をもって知っていたのは、勝家ではなくお市のほうだった。
三人は秀吉に引き取られ、保護された。敵の娘を殺さず育てたのは秀吉の温情とも、織田の血を手元に置く政治判断とも言われるが、いずれにせよお市の読みは当たった。長女・茶々はやがて秀吉の側室となって秀頼を産み、淀殿と呼ばれる。次女・初は京極高次に嫁ぎ、大坂の陣では豊臣と徳川の間を取り持った。三女・江は徳川秀忠の正室となり、三代将軍家光の母となる。
燃える城から出された三人の少女が、豊臣家の母・徳川家の母・両家の調停者になった。北ノ庄の夜がなければ、この配置は生まれていない。
大河では描かれない話
お市の生年ははっきりしない。天文十六年(1547)説が有力だが、それだと長政に嫁いだのが二十歳前後、勝家に嫁いだのが三十六歳前後になる。当時としては決して若い再婚ではない。「戦国一の美女」という評判は江戸期以降に定着したもので、同時代の確実な記録に容姿の記述はほとんどない。
また、江には北ノ庄落城後に二度の結婚があり、秀忠は三人目の夫である。三姉妹が政略の駒として何度も嫁がされた事実は、ドラマではあまり丁寧に描かれない。母が城で死を選んだあと、娘たちは生きるために嫁ぎ続けたのである。
よくある質問
Q. お市の方はなぜ二度目は逃げなかったのですか。
A. 記録が残っていないため断定はできません。ただ、小谷のときは娘たちがまだ幼く、母が必要でした。北ノ庄のときは長女・茶々が十代半ばで、妹たちを守れる年齢に達しています。母としての役目を果たし終えたという判断があったのかもしれません。
Q. 三姉妹は本当に仲が良かったのですか。
A. 大坂の陣では、豊臣方の淀殿と徳川方の江という、敵味方に分かれる立場になりました。その間を初が行き来して和睦交渉にあたっています。仲が良かったというより、三人とも姉妹であることを最後まで捨てなかった、というほうが実態に近いでしょう。
ゆかりの地をめぐる
お市の方の生涯は、二つの城跡をたどれば追える。ひとつは滋賀県長浜市の小谷城。浅井三代の山城で、長政と過ごした日々と最初の落城の地である。もうひとつが福井市の北ノ庄城で、いまは柴田神社と北ノ庄城址公園になっており、勝家像と三姉妹像が並んで立っている。
その北ノ庄城の跡地に、のちに徳川家康の次男・結城秀康が築いたのが福井城である。勝家が滅んだ土地に、江の義理の兄にあたる人物が新しい城を建てた。血筋の巡り合わせを考えると、この一帯は歩くだけで戦国から江戸への転換が体感できる。

北ノ庄城址に鎮座する柴田神社。勝家とお市、そして三姉妹が祀られている
勝家その人の生涯については、柴田勝家とは:瓶割り柴田の実像と、北ノ庄城で迎えた最期で詳しく取り上げています。
まとめ
お市の方は、二度の落城を経験し、一度目は生き、二度目は死んだ。その判断を悲劇として語るのは簡単だが、彼女が残したのは死ではなく三人の娘である。母が城に残ったからこそ、娘たちは「落城した城主の妻」ではなく「保護すべき信長の姪」として秀吉のもとへ行けた、という見方すらできる。
大河ドラマで北ノ庄が燃えるとき、画面の中心にいるのは勝家と秀吉だろう。だがその夜にいちばん大きな決断をしたのは、たぶん城に残ったほうの人である。
