躑躅ヶ崎館跡(武田神社):信玄が天守も高石垣も持たなかった館と、背後に構えた要害山城

甲府市古府中町の躑躅ヶ崎館跡は、武田信虎がこの地に本拠を移してから、信玄・勝頼と三代およそ六十年にわたって甲斐の国を動かした場所です。天守もなければ高石垣もなく、土塁と堀に囲まれた方形の区画が並ぶだけの姿は、同じ日本100名城のなかでも異質に見えますが、これは武田氏が城を軽んじていたからではなく、平時の政庁と戦時の城をはっきり分けていたためでした。背後の山には要害山城が構えられ、館が危うくなればそちらへ退く手はずになっていたのです。

この記事のポイント
  • 信虎・信玄・勝頼の三代、六十年あまりの甲斐の政庁だった
  • 天守も高石垣もないのは、詰城の要害山城と役割を分けていたため
  • いま虎口に見える石垣は、武田氏が滅んだあとに積まれたと考えられている
  • 甲府城の完成で役目を終え、大正年間に館跡へ武田神社が建った
目次

躑躅ヶ崎館とは:信虎が開いた甲斐の政庁

武田氏の館はもともと甲府盆地の東寄り、石和や川田のあたりに置かれていました。永正16年(1519年)、甲斐の統一を進めていた武田信虎が相川扇状地の末端にあたる現在の古府中へ新しい館を構え、翌年にかけて家臣や商人を移して城下町を開きます。館は東西・南北ともおよそ二百メートルの方形の主郭を中心に、西曲輪や御隠居曲輪、味噌曲輪といった区画が堀をはさんで連なる構えで、京の公家の屋敷を思わせる整った造りでした。武田氏が滅んだのちに甲斐の政治の中心となる甲府城が、石垣と天守台を備えた近世の城として一キロほど南に築かれるのと比べると、性格の違いがよくわかります。

躑躅ヶ崎館跡(武田神社)の神橋と鳥居

堀に架かる神橋の先に鳥居が立つ。左右に見える石垣は武田氏の時代のものではなく、武田氏が滅んだあとに積まれたと考えられている。

「人は城、人は石垣」は信玄の言葉なのか

石垣を積まない館に住んだ信玄を語るとき、きまって引かれるのが「人は城、人は石垣、人は堀」という歌です。堅固な城を築くより人の心をつかむほうが国を守る、という意味に受け取られ、館の質素さと結びつけて語られてきました。ただ、この歌がどこから出てきたのかをたどると、話はそれほど単純ではありません。

▽ よく語られる話

信玄は「人は城、人は石垣、人は堀」と説き、だからこそ甲斐の本拠に城を築かず、生涯を土塁の館で過ごした。

▼ 史実ではこうです

この歌が見えるのは江戸時代の初めに成立した軍学書『甲陽軍鑑』で、信玄本人が詠んだことを裏づける同時代の記録は見つかっていません。『甲陽軍鑑』そのものの史料価値をめぐっても、後世の潤色が多いとする立場と、武田家の内情をよく伝えているとする立場が分かれています。また信玄は本拠こそ館のままでしたが、信濃や駿河では城を次々に取り立てており、城を否定していたわけでもありません。

歌の真偽はさておき、家臣の屋敷を館のまわりに集め、主君と家臣が肩を寄せ合うように暮らした古府中の景観そのものは、この歌が後世まで生き残った理由をよく説明してくれます。川中島の戦いで五度にわたって上杉謙信と向き合えたのも、動員をかければ短い日数で家臣が館の前に集まる構えがあったからでした。

躑躅ヶ崎館跡の石垣と風林火山の幟

石垣に風林火山の幟が立つ。「疾きこと風の如く」にはじまる旗印は孫子の一節から取られたもので、信玄の代名詞として知られる。

館と要害山城、二段構えの守り

館を築いた翌年、信虎は北へ二キロほど入った標高七百八十メートルの山上に要害山城を築いています。駿河の今川勢が甲斐へ攻め込んだとき、信虎は身重の正室を要害山へ移したと伝えられ、信玄はそのふもとの積翠寺で生まれたという話が残ります。館が政庁で要害山が詰城、さらに西の湯村山にも城が置かれ、館を中心に三つの拠点が三角形を描く配置でした。

本拠に高い石垣や天守を積まなかった理由を、武田氏は国境で敵を止める方針だったから、と説明されることがよくあります。実際、甲斐は四方を山に囲まれ、峠を押さえれば大軍は入りにくい土地です。ただし国境の守りが破られた場合を考えていなかったわけではなく、館の背後に山城を用意していたことがその答えでした。この二段構えは室町期の守護の館に広く見られるかたちで、信玄一代の発明ではありません。

躑躅ヶ崎館跡の石段と石垣

石段の上に築かれた石垣。館跡の守りは土塁と堀が主体で、石垣は限られた場所にしか見られない。

三代の館:曲輪はどのように広がったか

信虎が構えた当初の館は主郭ひとつだったとみられ、のちに堀をへだてて西曲輪が加えられました。西曲輪は信玄が嫡男義信の住まいとして整えたと考えられており、南北に枡形の虎口を備えています。義信はのちに父と対立して幽閉され、跡を継いだのは諏訪氏の血を引く四男の勝頼でした。

勝頼の代になると、館の南側に梅翁曲輪が加えられ、西曲輪の堀も手が入ります。武田氏の版図は信玄の晩年に甲斐・信濃・駿河・上野・遠江と三河や美濃の一部にまで広がり、石高に直せば百万石を超えていたと見積もられますが、その中心はずっとこの館のままでした。信濃では深志城、のちの松本城や高遠城が拠点として整えられ、館から放射状に伸びる棒道が軍勢の移動を支えています。

家臣団と城下町:武田二十四将が住んだ古府中

館の東側が大手で、その前面には家臣の屋敷が並び、さらに外側に商人や職人の町が広がっていました。板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌といった信虎以来の宿老から、山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信ら信玄が引き立てた面々まで、のちに武田二十四将として絵に描かれる武将たちの多くがこの一帯に屋敷を構えています。二十四将という括り自体は江戸時代に絵画の題材として定着したもので、同時代にそう呼ばれていたわけではありません。

信濃へ勢力を広げるにつれ、家臣は在地の城へ配されるようになります。高坂昌信が置かれた海津城は川中島の押さえとなり、飯山城や大峰城のあたりでは上杉方とにらみ合いが続きました。のちに上田城を築く真田氏も、この時期は武田の一手を担う信濃の国衆のひとつでした。

武田家の滅亡と、館が廃された日

信玄が没したあと家督を継いだ勝頼は、長篠で織田・徳川の連合軍に敗れて多くの宿将を失います。長篠城をめぐる攻防から始まったこの戦いのあと、勝頼は館では領国を支えきれないと考えたのか、天正9年(1581年)に韮崎の台地へ新府城を築いて本拠を移しました。ところが翌年、織田信長・徳川家康・北条氏政の軍が三方から攻め込み、勝頼は完成まもない新府城に火を放って岩殿山城を目指したものの、小山田信茂の離反によって行き場を失い、天目山で自害します。

甲斐は織田家臣の河尻秀隆に与えられ、秀隆は躑躅ヶ崎館に入りました。ほどなく本能寺の変が起きると甲斐は混乱し、秀隆は一揆のなかで命を落とします。空白地となった甲斐・信濃をめぐって徳川と北条が争った末に家康が甲斐を手にし、家康もしばらくはこの館を使いました。いま虎口まわりに見える石垣は、この徳川氏の時代からその後の豊臣系大名の時代にかけて積まれたものと考えられています。やがて甲府城が完成すると政治の中心はそちらへ移り、館は静かに役目を終えました。

武田の子孫はどうなったか、そして武田神社

勝頼とともに天目山で果てた嫡男の信勝で武田の嫡流は絶えましたが、一族がすべて消えたわけではありません。信玄の次男で出家していた海野信親の系統は江戸幕府に高家として召し出され、六男の信清は姉の嫁ぎ先である上杉家を頼って米沢へ移り、家臣として血をつないでいます。信玄の娘たちの縁組を通じて、木曽や穴山、北条といった家にも武田の血は流れました。信玄が寺領を寄進した身延山久遠寺のように、武田氏とゆかりの深い寺社も甲斐の各地に残っています。

館跡に社殿が建ったのは大正のことでした。信玄に従三位が追贈されたのを機に県内で機運が高まり、主郭の一角に武田神社が建てられます。参道や神橋が整えられたのもこのときで、いま正面の入口になっている南側は、館の時代の大手ではありません。大手は東側にあり、発掘によって三日月堀や石積みをともなう虎口の構えが確認され、現在は史跡として整備が進んでいます。宝物殿では武田家ゆかりの資料を見ることができ、堀に沿って一周すれば土塁の高さと水堀の広さを体で測ることができます。

武田神社の拝殿

館跡の主郭に建つ武田神社の拝殿。大正年間に社殿が整えられ、信玄が祭神として祀られた。

▶ 旅の計画に

【都内発】電車 1泊2日:甲府・武田の里 ― 武田信玄の躑躅ヶ崎館と甲府城、恵林寺と昇仙峡をめぐる甲斐の旅
姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」の行程。武田神社と甲府城をまとめて歩けます。

躑躅ヶ崎館跡(武田神社)・場所とアクセス

山梨県甲府市古府中町2611。JR甲府駅北口からバスで十分ほど、歩けば三十分ほどの道のりで、駅から北へまっすぐ延びる坂を上りきった突き当たりが館跡です。日本100名城のスタンプは境内の宝物殿に置かれています。南へ下れば甲府城跡(舞鶴城公園)、北へ登れば要害山城で、館と詰城と近世の城を一日でつなげて歩けるのが甲府という町のおもしろさです。

武田氏と甲斐・信濃の城

戦国大名が本拠を移したかどうかの違いは、戦国大名は本拠を移したのかで比べています。

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