長野県伊那市に高遠城跡(たかとおじょうあと)がある。国指定史跡、日本100名城30番。
桜の名所として知られ、春には「天下第一の桜」と呼ばれるタカトオコヒガンザクラが咲く。
だがこの城には、桜よりも語るべきことがある。ここは、武田家で唯一まともに戦って死んだ男の城であり、同時に江戸幕府を支えた名君を育てた城でもある。

高遠城址公園の入口。国指定史跡・県指定天然記念物の表示が並ぶ
天正十年二月、伊那谷で何が起きたか
古戦場跡の案内板(伊那市)に、この戦いの経過が詳しく記されている。要点を追う。
「天正十年(一五八二)二月、織田信長は、信玄亡き後の武田氏の混乱に乗じて、一気呵成の攻略に転じた。」
攻め手は信長の嫡男・織田信忠が率いる軍である。そして案内板は、伊那谷の武田方がどうなったかを、まったく容赦なく書いている。
「伊那口からの嫡男信忠率いる五万の兵の進攻に、怖れをなした伊那谷の諸将は、城を捨て逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。」
刃に血を塗らずして——つまり一度も戦わずに、伊那谷を通り抜けたということである。
城を捨てて逃げた者がいる。降伏した者がいる。そして降伏した者は、織田軍の道案内までした。
この一文を読むと、大島城で武田逍遥軒信廉が戦わずに退いたことも、飯田城が落ちたことも、ひとつの流れとして見えてくる。武田はもう、内側から崩れていた。

「高遠城の戦い(古戦場跡)」の案内板。戦いの経過が詳しく記されている
五万対三千 — 盛信の返答
そして高遠城である。
案内板によれば、織田軍は降伏勧告の使者として僧を送った。ここからの盛信の対応が、すさまじい。
「時の城主、仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか三千の手兵をもって敢然とこの大軍を迎え撃った。」
使者の耳を切り落として送り返した。交渉の余地はない、という最も明確な意思表示である。
兵力差を確認しておきたい。織田軍五万に対し、高遠城は三千。十六倍以上である。
そして案内板は、古来の言葉を引く。「古来『要害は必ず兵禍を被る』と言われるが、この城も盛信以下将兵決死の奮戦にもかかわらず、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、三千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。」
要害は必ず兵禍を被る。守りが堅い城ほど、激しい戦いの場になるという意味である。三千が全滅した。

本丸を囲む堀。三千の兵は、この地形を頼りに五万を迎えた
腸を壁に投げつけて果てた
そして城主自身の最期を、案内板はこう伝えている。
「城主盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。」
切腹という言葉では足りない。自分の腸を掴み出して壁に叩きつけたというのである。
これが事実そのままかどうかは、古書の記述である以上わからない。だが、そういう死に方をしたと語り継がれたこと自体が重い。
戦わずに逃げた者が並ぶなかで、ひとりだけが極限まで戦った。その落差が、この描写を生んだのだと思う。
そして案内板は最後をこう締める。
「この後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となったのである。」
武田氏の最後を飾る戦い。高遠城の落城から、新府城の炎上、そして天目山までは、ひと月もない。
天正十年、仁科盛信だけが戦った
本丸跡の案内板(伊那市)に、この城の核心が刻まれている。
「天正十年(一五八二)城主仁科五郎盛信が織田軍に敗れ壮烈な戦死を遂げた後」——と。
仁科盛信は、武田信玄の五男である。つまり新府城にいた勝頼の弟にあたる。
織田信忠の軍が伊那谷を北上したとき、武田方の城は次々に開城した。
飯田城が落ち、大島城では信玄の弟・武田逍遥軒信廉が戦わずに退いている。木曽義昌は寝返り、穴山梅雪は徳川に付いた。
そのなかで、高遠城だけが戦った。
盛信は降伏勧告を拒み、圧倒的な兵力差のなか城に籠もって戦い、そして死んだ。案内板の「壮烈な戦死」という四文字が、そのすべてである。
この一戦のあと、武田家は一か月ももたずに滅びる。勝頼は新府城に火を放ち、天目山で自刃した。

本丸跡の案内板。「壮烈な戦死を遂げた」と記されている
段丘の突端に置かれた本丸
案内板は、城の構造もはっきり説明している。
「高遠城は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、さらに、その外側に東から北にかけて三ノ丸を廻らした城郭三段の構えをもっていた。」
三峰川と藤沢川に挟まれた河岸段丘。その突端を本丸にすれば、二方向は崖である。攻める側は限られた方向からしか取り付けない。
実際に歩くと、この地形がよくわかる。曲輪と曲輪の間には深い空堀が刻まれ、橋を渡らなければ次へ進めない。

本丸を囲む空堀。深さがあり、下りると容易には上がれない
本丸に天守はなかった
案内板に、意外な一行がある。
「本丸には城主の権威の象徴たる天守閣はなく、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがあった。」
日本100名城でありながら、天守がない。
これは高遠城に限った話ではない。仙台城に天守がなかったのと同じで、天守は必ずしも城の必需品ではなかった。山城・平山城では、地形そのものが権威であり防御だった。
そして案内板はこう続く。「今では明治八年(一八七五)頃に移植された桜の古木が毎年美しい花を咲かせ、幾多の武士が眠るこの地に散華となって降り注いでいる。」
桜は、城が終わったあとに植えられたものである。廃城で失われた城跡を、旧藩士たちが桜を植えて公園にした。いま「天下第一の桜」と呼ばれる名所は、城を失った人々の手で始まっている。
保科正之を育てた城
そしてもうひとつ、この城には大きな物語がある。
保科正之。二代将軍・徳川秀忠の子で、のちに会津藩の祖となり、四代将軍・家綱を支えて幕政を武断政治から文治政治へ転換させた人物である。
その正之が幼少期を過ごしたのが、この高遠城だった。
南曲輪の案内板にこうある。「本丸の南に位置する曲輪で、名君保科正之公が幼少の頃、母お静の方と居住したところと言われている。」

南曲輪の案内板。正之が母と暮らした場所と伝わる
顕彰碑が語る、母お静の物語
城址の一角に、黒い石碑が立っている。「保科正之公 生母お静(志津)」。伊那市観光協会が平成二十一年に建立したものだ。
この碑文が、じつに詳しい。要点を追う。
- お静は天正十二年(1584)小田原の神尾家の二女として生まれた
- 成人して二十五歳のとき、二代将軍徳川秀忠の乳母付侍女として江戸城に奉公した
- 秀忠の寵愛を得て子を身籠り、慶長十六年(1611)に幸松(のちの正之)を出産した
- しかし秀忠の正室・お江与の方は大変嫉妬深く、危険を避けるため江戸城内の比丘尼屋敷で暮らした
- 元和三年(1617)、幸松七歳のときに高遠城主・保科正光の養子となり、母子ともに高遠へ迎えられた
ここが胸を打つ。将軍の子でありながら、正室の嫉妬を避けて隠れて育ち、七歳で信州の山あいへ送られた。
だが碑文は続ける。「正之公は知将の武士たちから教えを受け、同時に四季折々に展開する大自然と人々の営みからも多くを学び、鋭い感性を研き清貧な人格を身につけていった。」
江戸を追われたことが、この人を育てた。

「保科正之公 生母お静(志津)」の顕彰碑。全文が読める
異母弟だと知られていなかった
碑文には、さらに驚く一行がある。
「正之公は二十一歳で高遠城主となり二十五歳の時 お静は五十二歳の生涯を高遠の地で終えました。」
そして「江戸の目黒にある成就院は三代将軍家光公が正之公を異母弟だと知られされた逸話のある寺です。」
三代将軍・家光は、正之が自分の弟だと知らなかった。
母が隠れて産み、七歳で信州へ出された子である。江戸城内でも、その存在は伏せられていた。
そして家光が弟の存在を知ったあと、二人の関係は変わる。碑文はこう結ぶ。「四代将軍家綱公を助けて武断政治から文治政治へ転換を図りました この間二十年間 幕政と藩政を両立させながら江戸幕府二百六十五年の基礎を築き上げました。」
正室の嫉妬から隠された子が、幕府の屋台骨になった。

保科正之公の像(右)と生母お静の像(左)。中央は「お静地蔵」と呼ばれる三体の地蔵
像の中央に並ぶ三体の地蔵は金剛願・金剛幢・金剛宝の各地蔵菩薩。碑文によれば、お静が正之公の大願成就を願って奉納した金剛宝・金剛幢・金剛願の地蔵で、地元では「お静地蔵」と呼ばれている。
盛信を祀る社が、城内にある
城址の一角に、小さな社がある。新城(盛信)神社・藤原神社である。
案内板は傷んで読みにくくなっているが、要点は追える。
天保二年(一八三一)、七代藩主・内藤頼寧が、家臣・中村元恒の建議により、当城において織田の大軍を引き受け壮烈な最期を遂げた仁科五郎盛信の霊を五郎山より迎え、「新城神」と称して祀った——とある。
時系列を確認したい。盛信が死んだのは天正十年(1582)。祀られたのは天保二年(1831)。およそ二百五十年後である。
負けた側の武将を、その二百五十年後に、城の主が神として迎えた。
内藤家は盛信とは何の血縁もない。それでも「この城で死んだ人」を祀った。高遠という土地が、盛信をどう記憶してきたかが、この一事に出ている。
のちに藤原鎌足を勧請した「藤原社」と合祀され、明治十二年(一八七九)に今日の形になったという。

新城藤原神社。仁科盛信の霊を祀る社である
時を告げつづけた太鼓櫓
城址には、黒い板張りの太鼓櫓(たいこやぐら)が立っている。案内板の来歴が面白い。
江戸時代、この城では時を知らせるのに太鼓を打っていた。鼓楼は搦手門の傍らにあり、楼上に三つの太鼓を備え、常に番人を置いていた。
打ち方も決まっていた。「時刻がくると、予備の刻み打ちを繰り返した後、時の数だけ太鼓を打って時を知らせていた。」
そして廃城のあとが、この櫓のいいところである。
案内板によれば、廃城の際に有志によって対岸の白山に鼓楼が新設され、時を報じていた。城がなくなっても、時を知らせる仕事は続いた。
明治十年(一八七七)頃に現在地へ移り、旧制どおり朝六時から夕六時まで偶数時を打つことが昭和十八年(一九四三)まで続いた。
戦後は三ノ丸にあった高遠高等学校で、授業の開始と終了を知らせていたという。太鼓は現在、高遠町歴史博物館に展示されている。
城の時計が、学校のチャイムになった。三百年以上、この土地の時間を刻みつづけた道具である。

太鼓櫓。江戸時代から昭和十八年まで、この土地に時を告げていた
城下から移された門と、橋の名前
この城址には、来歴のある構造物が残っている。
問屋門は、案内板によれば「高遠城下、本町の問屋役所にあった問屋門」である。江戸時代、街道の宿駅で荷物の継ぎ送りや旅人の宿泊を扱った役所の門だ。
昭和二十年代に取り壊しの話が出て他所へ売却されていたが、「高遠から失われることを惜しんだ町の有志が買い戻し、募金を集めて現在地に移築した」という。

問屋門。城の門ではなく、城下の役所の門である
そして門の手前に架かるのが桜雲橋(おううんきょう)。問屋門とセットで、いまや城跡の景観シンボルになっている。

桜雲橋。空堀を渡って問屋門へ続く
もうひとつ、白兎橋(はくときょう)という橋がある。この名前の由来が面白い。
案内板によれば、文政の頃に高遠で酒造業を営んだ廣瀬治郎左衛門という人物がいた。号を「白兎」といい、謡曲・俳諧・和歌を嗜む風流人だった。
そして文政の百姓一揆の際には、自家の米蔵を開放して押し寄せた百姓らに与え、大事に至らせずにすんだと伝わる。
その曾孫が法幢院曲輪を買い上げて公園として寄付し、橋を自費で造った。「曾祖父の俳号にちなんで『白兎橋』と名づけた」——というわけである。

白兎橋。一揆を米蔵の開放で収めた酒造家の号にちなむ
法幢院曲輪からの眺め
城の南端にある法幢院曲輪は、案内板によれば「幅六メートル、長さ百七十メートルの馬場が続いていた」場所である。
かつてここには法幢院という寺があったが、高遠城落城の際に城中という立地的制約があったため、一般の人も参詣できるようにと城の東、月蔵山のふもとの龍ケ澤に移り桂泉院と改名した。
そして案内板はこう締めくくる。「この曲輪からは、西に中央アルプス、東に南アルプスが望め、桜の時は残雪が、紅葉のときは新雪が目にも清かに映る。」
高遠城の現地写真

高遠城址公園案内図。本丸・二ノ丸・三ノ丸・南曲輪・法幢院曲輪・勘助曲輪が並ぶ

木彫りの案内図。「日本百名城 高遠城」の認定板が添えられている

問屋門の案内板。買い戻しと移築の経緯が書かれている

白兎橋の案内板。廣瀬治郎左衛門と一揆の話が記されている

法幢院曲輪の案内板。馬場の寸法と眺望が説明されている

白兎門。奥に白兎橋が続く

太鼓櫓の案内板。時の知らせ方が細かく記されている

新城藤原神社の案内板。傷んでいるが、盛信を祀った経緯が読める
訪ねるときに
城址公園は歩きやすく整備されているが、曲輪と曲輪の高低差は大きい。空堀を見下ろすと、城としての本来の姿がよくわかる。
見どころを挙げるなら、まず本丸周囲の空堀。次に桜雲橋と問屋門。そして法幢院曲輪からの眺望である。案内板によれば西に中央アルプス、東に南アルプスが望める。
桜の季節は大変な人出になる。遺構をじっくり見るなら、むしろ緑や紅葉の時期のほうが向いている。
| 配布・販売場所 | 伊那市立高遠町歴史博物館(〒396-0213 長野県伊那市高遠町東高遠457/0265-94-4444) |
|---|---|
| 休館日は | 高遠町観光案内所(伊那市高遠町西高遠1687-1/0265-94-1745/9:00〜17:00) 高遠城の御城印は全種そろい、市内各所の御城印も扱っています |
| そのほか | 伊那市民俗資料館(伊那市高遠町東高遠2074/0265-94-4044)でも通常版を販売。火・水・木は休館 |
| 100名城スタンプ | 歴史博物館の玄関外に設置。休館日・時間外でも押せます |
高遠城・場所・アクセス
〒396-0213 長野県伊那市高遠町東高遠
JRバス「高遠駅」から徒歩約15分/中央自動車道「伊那IC」から車で約25分、「諏訪IC」から約45分。
高遠城址公園に駐車場あり(桜まつり期間は有料・混雑)。
高遠城ゆかりの城
- 新府城(山梨県韮崎市)… 兄・武田勝頼の城。高遠落城の直後に自ら焼いた
- 大島城(長野県松川町)… 武田逍遥軒信廉が守り、戦わずに開城した城
- 飯田城(長野県飯田市)… 甲州征伐で織田軍が北上した伊那谷の城
- 会津若松城(福島県会津若松市)… 保科正之が藩祖となった会津の城
- 安土城(滋賀県近江八幡市)… 甲州征伐を命じた織田信長の城
- 苗木城(岐阜県中津川市)… 巨岩にまたがる天守が建っていた城
- 岩村城(岐阜県恵那市)… 日本三大山城。標高717メートルの本丸
- 馬籠宿(岐阜県中津川市)… 中山道の宿場町。木曽路が開いて武田は滅んだ
武田家がどう崩れたかは新府城の記事で、天守を建てない城の考え方は伊達政宗はなぜ仙台城に天守を建てなかったのかで詳しく書いています。
