葛尾城跡(坂城町):信玄を二度破った村上義清が、それでも城を捨てた理由

葛尾城:武田信玄を2度も破った北信最大の戦国大名村上義清の居城 葛尾城

葛尾城は千曲川を見下ろす標高八百メートルの山上にあり、北信濃で最大の勢力を誇った村上義清の居城でした。義清は上田原と砥石で武田晴信を二度も打ち破っています。それでも最後には城を捨てて越後へ落ち、上杉謙信を頼りました。負けたのは戦ではなく、足もとを切り崩されたからです。この経緯が、川中島の戦いを呼び込むことになります。

この記事のポイント
  • 北信濃の村上義清が本拠とした標高八百メートルの山城
  • 上田原と砥石で武田晴信を二度破っている
  • 落城の原因は合戦ではなく、国衆の離反だった
  • 義清が越後へ落ちたことが川中島の戦いにつながった
目次

葛尾城とは:千曲川を見下ろす山の城

葛尾城があるのは長野県埴科郡坂城町、千曲川の右岸にそびえる葛尾山です。標高は八百五メートル、麓との差は五百メートルを超えます。山頂に主郭を置き、尾根に沿って曲輪を連ね、要所を堀切で断ち切る典型的な信濃の山城でした。

麓には村上氏の居館があり、いまは満泉寺が建っています。平時は館で暮らし、戦いとなれば山へ登るという、要害山城などと同じ二段構えです。周囲には姫城、狐落城、荒砥城といった支城が置かれ、千曲川の谷を押さえる網がつくられていました。

葛尾城跡の主郭

山頂の主郭跡。石塔と東屋が置かれ、木の間から千曲川の谷を見下ろせる。

村上義清と、二度の勝利

村上氏は信濃でも古い家柄で、義清の代には北信濃の大半を押さえていました。南から攻め上がってきたのが、甲斐を統一したばかりの武田晴信です。

天文十七年(一五四八年)の上田原の戦いで、義清は武田勢を正面から迎え撃ち、板垣信方と甘利虎泰という躑躅ヶ崎館以来の宿老を討ち取りました。晴信自身も傷を負ったと伝えられます。さらに天文十九年、砥石城を攻めた武田勢は逆に崩れ、多くの兵を失いました。砥石崩れと呼ばれるこの敗戦は、晴信の生涯でも屈指の失敗として知られます。

それでも城が落ちた理由

二度勝った義清が、その数年後には城を捨てています。何が起きたのでしょうか。

▽ よく語られる話

村上義清は二度は勝ったものの、結局は武田の兵力に押し切られて城を落とされた。

▼ 史実ではこうです

葛尾城は攻め落とされたのではありません。砥石城は真田幸隆の調略によって内側から開き、周辺の国衆が次々に武田方へ寝返っていきました。義清は戦う前に味方を失い、城に籠もる意味がなくなって越後へ落ちています。北信濃の国衆は村上氏の家臣ではなく、それぞれ自分の判断で動く独立した領主でした。晴信が学んだのは、この地方は力ではなく人を切り崩して取るものだ、ということです。

坂城町の史跡案内板

麓に立つ史跡の案内板。葛尾城跡のほか、姫城跡、村上氏居館跡、義清の墓所などの位置が示されている。

川中島へ続く道

越後へ落ちた義清は、春日山城の長尾景虎、のちの上杉謙信に助けを求めました。北信濃の国衆が信濃を追われて越後へ流れ込んだことが、謙信に出兵の理由を与えます。ここから十年以上にわたって、両者は川中島で五度ぶつかることになりました。

義清は一度は葛尾城を奪い返しますが、保ちきれずに再び越後へ戻ります。以後は上杉方の武将として川中島で戦い、越後で生涯を終えました。武田氏が滅んだあと、北信濃は上杉から徳川へ、そして真田氏の上田城を含む勢力図のなかへ組み込まれていきます。

葛尾城跡への道標

登山道に立つ道標。標高八百五メートル、麓からの登りは一時間ほどかかる。

葛尾城跡・場所とアクセス

長野県埴科郡坂城町大字坂城。しなの鉄道の坂城駅から歩いて登山口へ向かい、主郭までは一時間ほどの登りです。道は整備されていますが急な箇所があるので、歩きやすい靴が要ります。麓の満泉寺は村上氏の居館跡で、近くに義清の墓所もあります。砥石城や荒砥城、上田城とあわせれば、北信濃をめぐる争いの地形が頭に入ります。

北信濃と武田をめぐる城
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