小諸城跡(懐古園):城下町より低い「穴城」と、千曲川の断崖が守った縄張

小諸城:国の重要文化財 懐古園の入り口三の門 小諸城

小諸城は、城下町より低いところに本丸がある城です。城は見下ろすもの、という常識がここでは逆になっていて、大手門をくぐって城内へ入ると、道はどんどん下っていきます。だから穴城と呼ばれてきました。低いということは攻められやすいはずですが、この城は西側が千曲川の断崖で切れていて、そこから登ってくることは不可能でした。武田信玄の信州経営のために縄張が引かれ、滝川一益、仙石秀久と持ち主が替わり、最後は牧野家が二百年治めた城です。いまは懐古園として整備され、入口の三の門と、線路の向こうに残る大手門が、ともに国の重要文化財になっています。

この記事のポイント
  • 城下町より低い位置に本丸がある「穴城」。全国でもほとんど例がない
  • 低さを補ったのは、西を切り落とす千曲川の断崖
  • 縄張は山本勘助が引いたと伝わるが、実際の関わりははっきりしない
  • 仙石秀久が城と城下町を整え、子の代に上田へ移った
  • 三の門と大手門が現存し、どちらも国の重要文化財
目次

穴城 ― 城下より低いところにある城

小諸城跡の空堀に架かる木の橋

深く切れこんだ堀に木の橋が架かる。橋の下は石垣と草に覆われた谷底で、向こう岸へ渡る人の姿が見える。

この土地は、浅間山の噴火が積もらせた地層を川と雨が長い年月かけて削ってできています。だから地面のあちこちに深い谷が走っていて、掘らなくても堀がある。小諸城はその谷をそのまま曲輪の区切りに使いました。写真の橋の下も、人の手で掘ったのではなく、もとからあった谷です。ただし城全体としては、大手のあたりがいちばん高く、本丸へ向かって下っていく形になっている。ふつうは逆です。攻め手が高いところから見下ろせてしまうのですから、常識的には不利でしょう。それでもこの縄張が成り立ったのは、西側が千曲川の断崖で完全に切れていたからです。三方は谷、西は絶壁。低くても、そもそも取りつける場所がほとんどない。地形をどう読むかで守り方は変わるという点では、尼ヶ淵の崖を背にした上田城と考え方が近い城です。

縄張をしたのは山本勘助なのか

▽ よく語られる話

小諸城の縄張は、武田信玄の軍師として知られる山本勘助が定めた。

▼ 史実ではこうです

山本勘助という人物は、長らく江戸初期に成立した軍記物『甲陽軍鑑』にしか登場せず、実在そのものが疑われてきました。のちに山本菅助の名が記された古文書が見つかり、実在を裏づける材料が出てきています。ただ、軍師としてどう働いたのか、小諸城の縄張に具体的にどこまで関わったのかは、いまもはっきりしません。武田の城に「勘助が縄張した」という伝承が付くのは全国的によくあることで、それ自体が武田家の軍略の評判の高さを物語っているとも言えます。

武田から滝川、そして仙石秀久へ

小諸城跡に残る苔むした野面積みの石垣

横から見た石垣。自然石をほとんど加工せずに積み上げてあり、表面はびっしりと苔と地衣類に覆われている。

小諸は東信濃の要で、上野へ抜ける道と、佐久から甲斐へ向かう道が交わる場所にあります。武田信玄が信濃を押さえるにあたって、ここを固めないという選択はありませんでした。武田家が滅ぶと、織田信長は滝川一益に上野と信濃の一部を与え、小諸城もその手に入ります。ところが本能寺の変が起きると、一益は関東で北条氏政と神流川で戦って敗れ、伊勢へ落ちていきました。次に城主となったのが仙石秀久です。秀久は城を改修し、城下町の町割りを整えました。いまの小諸の町の骨格は、このときにできたものです。写真の石垣も、自然石を積み上げた古い形で、戦国から江戸初期にかけての工法をそのまま残しています。秀久がどういう経緯で小諸に来たのかは、仙石秀久はなぜ改易され、なぜ大名に戻れたのかにまとめました。九州で全軍を失って領地を取り上げられた男が、四年後にこの城の主として復帰しています。

仙石家が去り、牧野家が二百年

関ヶ原で東軍についた秀久は、あらためて小諸五万石を安堵されました。ところが仙石家の小諸支配は二代で終わります。子の忠政が上田へ移されたからです。忠政はそこで真田氏が去ったあとの上田城を築き直す仕事に取りかかりますが、工事の途中で世を去りました。小諸にはそのあと何家かが入れ替わり、最後に牧野康重が入って、牧野家が明治維新まで治めます。目立った事件のないまま二百年が過ぎたわけですが、城が戦火に遭わなかったということでもあり、そのおかげで三の門も大手門も焼けずに残りました。

三の門と大手門 ― 線路で切られた城

小諸城跡の三の門と「懐古園」の扁額

どっしりとした二階建ての門。中央に「懐古園」と大書された扁額が掲げられ、両脇は白壁と石垣で固められている。

写真の三の門が、いまの懐古園の入口です。創建は江戸初期とされますが、一度この門は流されています。大洪水のためです。のちに再建されたものが現在まで受け継がれ、国の重要文化財に指定されました。掲げられている「懐古園」の額は、徳川宗家を継いだ徳川家達の筆と伝わります。将軍家の家を継いだ人物の字が、信州の城跡の入口に掛かっている。明治という時代の空気が、この一枚の板から伝わってきます。もうひとつの重要文化財が大手門です。こちらは三の門よりさらに古く、仙石秀久の時代の建物とされています。ただし場所が離れていて、いまは鉄道の線路を挟んだ反対側に建っている。城のまん中を線路が通ってしまったため、大手門だけが市街地に取り残された形です。佐倉城が陸軍の連隊に使われて建物を失ったように、明治以降に城跡が何に使われたかで、残るものは決まりました。小諸の場合は、分断されながらも二棟が残った。

戌の満水 ― 城を流した水

三の門を流した洪水は、この地方で「戌の満水」と呼ばれています。千曲川が大きく氾濫し、流域に甚大な被害を出した災害です。城の防御を担っていた千曲川が、同時に城をこわす側にもなる。断崖が守りになるということは、その下に暴れる川があるということでもありました。小諸に限らず、川を要害にした城はどこも同じ矛盾を抱えています。肱川に臨む大洲城も、水運の恩恵と水害の危険を同時に引き受けてきました。三の門が二度目に建てられて以降、今日まで流されずに立っているのは、幸運の部分も小さくありません。

懐古園という名の城跡

小諸城跡の本丸跡に立つ標識と石碑、懐古神社

本丸跡の標識と大きな石碑が立ち、その奥に社殿と鳥居の柱が見える。木立に囲まれた静かな一角。

明治になって城が不要とされたとき、小諸では旧藩士たちが土地を買い受け、本丸跡に神社を建てて城跡を公園として開きました。それが懐古園で、名の由来もそこにあります。壊すのではなく、古いものを懐かしむ場として残す。この判断が、城跡の姿をいまに伝えました。園内には島崎藤村ゆかりの記念館もあります。藤村は小諸で教師として数年を過ごし、千曲川を望むこの土地を舞台にした詩を残しました。古城のほとりに立って旅の心を詠んだその作品は、小諸という地名を全国に知らせることになります。城跡が文学の場所としても記憶されているのは、日本の城跡のなかでは珍しいことです。写真の本丸跡には、天守台の石垣も残っています。三重の天守が建っていたと伝わりますが、落雷で焼けて以後は再建されませんでした。

訪ね方と見どころ

所在地は長野県小諸市丁。日本100名城の二十八番で、しなの鉄道と JR の小諸駅から歩いてすぐです。まず三の門をくぐって園内へ入り、道が下っていくことを足で確かめてください。城なのに下るという感覚が、穴城という呼び名を一度で納得させてくれます。二の丸、南の丸と進んで本丸跡へ。天守台に上がったら、西へ回って千曲川を見下ろす断崖の上に立ってみてください。ここが守りの本体です。眼下に川と対岸の山が広がり、なぜ低い城でよかったのかがわかります。園内には藤村記念館のほか、動物園や遊園地も同居していて、城跡というより町の公園として使われているのも小諸らしいところ。桜の時期は園内一面が花になります。帰りは線路を渡って大手門まで足を伸ばしてください。三の門より古い建物が、住宅と店に囲まれて静かに立っています。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

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