- 座(ざ)とは、中世の商人や職人がつくった同業者の組合で、寺社や公家に座役(ざやく)を納めるかわりに、売り買いの独占を認めてもらう仕組みでした
- 座を守っていたのは商人だけではありません。座役を受け取る寺社や公家もまた、同じ既得権益の持ち主でした
- 奈良は興福寺・春日社の門前町で、符坂油座のように寺に守られた座がいくつもありました
- 信長の楽市楽座や、秀長が郡山につくった城下町は、この寺社と座の結びつきを外から崩していく政策でした
- 座そのものは消えても、独占と上納の仕組みは江戸時代の株仲間へと形を変えて続きます
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第38回「和を以て、大和をなす」では、郡山の城下町を盛り立てようとする秀長に対して、「既得権益を守りたい奈良の豪商たち」が郡山への移転を拒みます。では、奈良の商人たちが守ろうとした既得権益とは、具体的に何だったのでしょうか。その正体が「座」です。この記事では、座とはどんな仕組みだったのか、なぜ商人も寺社も手放したがらなかったのかを、秀長が治めた奈良を例にたどります。
座とは ── お金を納めて「独占」を手に入れる仕組み
座とは、同じ品物を扱う商人や職人が集まってつくった組合のことです。座の仲間は、寺社や公家といった有力者を「本所(ほんじょ)」と仰ぎ、毎年「座役」と呼ばれるお金や品物を納めました。そのかわりに本所から、いくつかの特権を認めてもらいます。
特権の中身は、おおむね次の三つです。一つ目は、その品物を仕入れ、つくり、売る権利の独占です。座に入っていない者は、同じ品物を勝手に売ることができません。二つ目は、関所や港で取られる通行料(関銭・津料)の免除です。三つ目は、よそから入ってくる新しい商人を締め出す力で、座の仲間は本所の権威をたてに、新参者の商売をやめさせることができました。いまの言葉でいえば、お金を払って市場の独占権を買い、競争相手が入ってこられないようにする仕組みです。
| 座 | 本所(保護者) | 持っていた特権 |
|---|---|---|
| 大山崎の油座 | 石清水八幡宮 | 油の原料・荏胡麻の買い付けと油の販売、畿内の港の通行料免除 |
| 京都の麹座 | 北野社(北野天満宮) | 京都での麹の製造・販売の独占 |
| 奈良の符坂油座 | 興福寺大乗院 | 大和や河内・紀伊の油の原料の仕入れと、灯油の製造・販売の独占 |
なぜ寺社や公家が「本所」だったのか ── 寺社もまた既得権益の持ち主
座の保護者に寺社が多かったのには理由があります。もともと座の商人の多くは、寺社に仕える「神人(じにん)」や「寄人(よりうど)」という身分を持ち、神仏に供える油や灯明、酒などを納める役目を担っていました。その見返りとして、寺社の名のもとに商売をすることが許されたのです。神仏の権威をまとった商人に手を出せば、寺社を敵に回すことになります。武力も持つ大寺社の後ろ盾は、何よりの安全保障でした。
そして寺社の側から見れば、座役は大切な収入源です。座の商人が独占でもうけるほど、寺社に入るお金も増えます。つまり座の既得権益は、商人だけのものではありませんでした。商人は独占を守り、寺社は上納金を守る。両者が同じ仕組みの上に立っていたからこそ、座は強く、そして簡単には崩れなかったのです。
既得権益を守るためなら、ここまでした
座の仲間は、自分たちの独占が脅かされると、本所や幕府に訴えて新参者を排除しました。大山崎の油座は、永和4年(1378)に将軍足利義満から、座に入らずに油を売る者の商売を止め、その油しぼりの道具を壊してよいという命令まで得ています。新しく商売を始めようとする者にとって、座の壁は非常に高いものでした。
独占をめぐる争いが、大きな騒動になることもありました。文安元年(1444)、京都の麹の独占をめぐって、北野社の麹座と、自分で麹をつくりたい酒屋やその背後にいた比叡山延暦寺とが激しく対立します。「文安の麹騒動」と呼ばれるこの事件では、麹座の神人が北野社に立てこもり、幕府の軍勢との戦いで社殿の大半が焼けて、麹座の独占も崩れました。既得権益を守ることが、ときに寺社を焼くほどの争いにまで発展したのです。
奈良は「座」の町だった
秀長が治めることになる奈良は、興福寺と春日社の門前町として栄えた町です。寺社に参る人びとが集まり、寺社そのものも大量の油や酒、紙、筆や墨を必要としました。こうした品を扱う商人や職人の多くは、興福寺やその門跡寺院を本所とする座に属していました。

その代表が、興福寺大乗院に守られた符坂油座です。符坂(いまの奈良市油阪町のあたり)を拠点に、大和一円や河内・紀伊で採れる油の原料を仕入れる権利と、灯油をつくり売る権利を独占していました。鎌倉時代にはすでに特権を認められ、ほかの油座と原料の買い付けをめぐって争ったことも記録に残っています。奈良の町で店を構える豪商たちは、多かれ少なかれ、こうした寺との結びつきの上で商売を続けてきた家でした。興福寺が大和でどれほどの力を持っていたかは 興福寺の別当とは で、奈良のもうひとつの名産については 奈良墨とは で紹介しています。
楽市楽座は、何を壊したのか
戦国時代になると、大名たちは座とは逆の方向の政策を打ち出します。それが「楽市(らくいち)」「楽座(らくざ)」です。記録に残る最も古い楽市は、天文18年(1549)に近江の六角氏が観音寺城の城下の石寺新市に出したものですが、このときは座の仲間以外の商売を禁じるという条件付きでした。織田信長は永禄10年(1567)に美濃の加納に楽市の制札を出し、天正5年(1577)には安土の城下に、商人の税や負担を免除して町に人を集めるための掟を出しています。六角氏の城については 観音寺城跡、信長の城については 安土城跡 で紹介しています。
ただし、楽座は「座をすべて廃止した」という意味ではなかった、というのが近年の見方です。楽座とは主に、座役を納めなくてもよい、つまり本所への上納をやめさせることを指していたと考えられています。大名が狙ったのは、自分の城下町に商人を呼び込み、寺社や公家に流れていたお金と人を、大名のもとへ引き寄せることでした。座を支えていた「寺社への上納と、その見返りの独占」という結びつきを、城下町の側から断ち切ろうとしたわけです。

秀長の郡山と、奈良の商人が守ろうとしたもの
天正13年(1585)に大和の国主となった秀長も、同じ方向の政策をとりました。郡山城の城下に商人を集めるため、奈良での商売を禁じ、郡山で商いをするよう命じたと伝えられています。郡山に移った商人には、地子(土地にかかる税)の免除などの特権が与えられ、町ごとに当番を回して自治を担う箱本十三町が生まれました。
奈良の豪商にとって、これは二重の意味で既得権益を失うことでした。一つは、寺社を本所として守られてきた独占が、郡山では通用しないことです。郡山の特権は秀長が与えるもので、寺の後ろ盾から国主の許しへと乗り換えなければなりません。もう一つは、本所である興福寺そのものの力が、秀長によって削られていたことです。秀長は寺領を減らし、年貢の流れを寺から国主へと切り替えていました。後ろ盾の寺が弱れば、寺に守られた独占も弱くなります。豪商たちが郡山へ移るのを渋ったのは、慣れ親しんだ町を離れたくないというだけでなく、何代もかけて築いた商売の土台そのものが揺らいでいたからでした。秀長の大和の治め方は 秀長の大和支配とは で、郡山の町のしくみは 箱本十三町とは で詳しく書いています。
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座はなくなったのか ── 江戸の株仲間へ
楽市楽座や城下町づくりによって、寺社を本所とする中世の座はしだいに力を失いました。大山崎の油座は、菜種油の広まりもあって衰え、天正12年(1584)を最後に文書から姿を消します。けれども、同業者が集まって独占を守るという仕組みそのものは、消えたわけではありませんでした。奈良の符坂油座は、江戸時代の慶長年間に同業者の仲間として再び組織されています。
江戸時代には、同業の商人が集まる「株仲間」が生まれます。幕府ははじめこれを禁じていましたが、享保の改革のころから公認に転じ、冥加金(みょうがきん)という上納金を納めさせるかわりに、販売の独占を認めるようになりました。本所が寺社から幕府に替わっただけで、上納と独占を交換するという形は、中世の座とよく似ています。株仲間は天保12年(1841)に水野忠邦によっていったん解散させられますが、流通が混乱して嘉永4年(1851)に再興され、最終的に廃止されたのは明治5年(1872)でした。寺社の座から幕府公認の株仲間へ、既得権益は形を変えながら明治まで生き延びたことになります。
よくある疑問
Q. 座とは、簡単に言うと何ですか?
A. 中世の商人や職人の同業者組合です。寺社や公家に座役を納めるかわりに、その品物を売る独占権などの特権を認めてもらっていました。
Q. 本所(ほんじょ)とは何ですか?
A. 座を保護した寺社や公家のことです。座から座役を受け取り、その見返りに座の特権を保証しました。
Q. 座と株仲間の違いは?
A. 座は中世の組合で、主に寺社や公家が保護しました。株仲間は江戸時代の組合で、幕府や藩が冥加金を受け取って公認しました。上納と独占を交換するという点はよく似ています。
Q. 『豊臣兄弟!』の奈良の豪商の「既得権益」とは何ですか?
A. 興福寺などの寺社を本所として守られてきた、奈良での商売の独占のことと考えられます。郡山に移れば、その特権を手放すことになりました。
まとめ
座とは、寺社や公家に上納するかわりに、商売の独占を認めてもらう仕組みでした。その既得権益は商人と寺社の両方のもので、だからこそ強く、ときには寺社を焼く争いにまで発展しました。興福寺の門前町・奈良はまさに座の町で、秀長が郡山に城下町をつくり、寺の力を削っていったことは、奈良の商人にとって商売の土台そのものが揺らぐ出来事でした。第38回で郡山への移転を拒む豪商たちの姿は、中世から続いてきた「寺社と座」の仕組みが終わっていく場面でもあるのです。第38回の見どころは 第38回「和を以て、大和をなす」あらすじ予想と史実 に、奈良から郡山へ移る筆屋については 才蔵とは にまとめています。

