福山城跡:福島正則の改易のあとに水野勝成が三年で築いた城と、北側だけ鉄板を張った天守

福山城は、戦国が完全に終わったあとに築かれた、日本でも最後の時期にあたる近世城郭です。きっかけは福島正則の改易でした。安芸・備後五十万石を取り上げられた正則の跡へ、徳川譜代の水野勝成が備後十万石の領主として入り、三年をかけてこの城を構えます。十万石の大名がつくる規模をはるかに超えた城で、それは西国の外様大名をここで押さえるという幕府の意図があったからです。しかも建物のいくつかは伏見城から運ばれてきたもので、いま残る伏見櫓と筋鉄御門は国の重要文化財。城跡に立つ石碑には、この城の来歴がきちんと刻まれています。

この記事のポイント
  • 福島正則の改易を受けて、水野勝成が備後十万石で入り三年で築いた城
  • 伏見櫓と筋鉄御門は伏見城から移されたと伝わり、国の重要文化財
  • 天守の北側の壁には鉄板が張られていた。ほかに例のない造り
  • 城主は水野氏五代・松平氏一代・阿部氏十代と替わった
  • 幕末には長州軍の攻撃を受け、城の一部を失っている
目次

福島正則の改易と、水野勝成の入封

福山城跡に立つ史跡指定の石碑

城跡に立つ石碑。「史跡 福山城跡」と題し、築城の経緯から現存する建物、歴代の城主まで刻まれている。

写真の石碑にはこう刻まれています。この城は元和五年、福島正則の改易により備後十万石の領主として入封した水野勝成が、三年の歳月を費やし構築した近世の城郭である、と。福島正則は関ヶ原で東軍について安芸・備後を与えられた大名ですが、広島城を無断で修築したことを咎められて領地を失いました。武功で名を上げた者が幕府の法度によって切り捨てられていく、その象徴的な事例です。賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた男たちのその後を追うと、正則だけが例外でないことがよくわかります。代わって入った水野勝成は、家康の従兄弟にあたる譜代中の譜代で、父は刈谷城の水野忠重。若いころは父と衝突して各地を放浪したという、経歴のおもしろい人物でもあります。その勝成にこの地を任せたということ自体が、幕府が備後をどれほど重く見ていたかの表れでした。

三年で築かれた、十万石には大きすぎる城

石碑はこの城の構えについても具体的に書いています。小山を利用した平山城で、東・南・西に堀をめぐらし、北には川を通して天然の防塁とした、と。つまり四方すべてに水の備えがあったわけです。現在は内外の堀が埋められ、三之丸とともに市街地になっていますが、本丸は築城当時の姿をよく伝えていると石碑は記しています。城の縄張そのものは、十万石の大名の居城としては明らかに過大でした。天守は五重、櫓は二十を超え、門も多い。これは福山藩のための城というより、西国へ向けた幕府の城だったからです。同じころ幕府が同じ発想で築かせた篠山城とくらべると、片方は京の西の入口、片方は瀬戸内の要衝と、押さえる場所こそ違うものの、考え方はそっくりです。瀬戸内という海の道の重みは、この地で小早川隆景が三原城を築いた時代から変わっていませんでした。

伏見城から運ばれてきた櫓と門

福山城の伏見櫓を石垣の下から見上げる

石垣の上に載る白壁の櫓。下層の壁は板張りで、格子の窓が並ぶ。手前の坂道から見上げる形になる。

福山城でいちばん価値があるのは、じつは天守ではありません。石碑が重要文化財として名を挙げている伏見櫓と筋鉄御門です。この二つは、京都の伏見城から解体して運ばれてきたものと伝えられています。伏見城は秀吉が晩年を過ごし、家康が将軍宣下を受けた城でしたが、一国一城令のあとに廃されました。その建物が各地の城へ配られていったわけで、福山城はその受け取り手の一つだったことになります。つまりここには、豊臣から徳川へ天下が移る場面に実際に立っていた建物が、いまも建っている。福山城が空襲で天守を失いながら、それでも城として重い意味を持ち続けているのは、この二棟が焼けずに残ったからです。

福山城の筋鉄御門を内側から見る

門をくぐる位置から見た厚い扉。鉄の鋲が打たれ、両側は大きく切りそろえた石で固められている。

筋鉄御門は本丸の正門で、写真のとおり扉に鉄の鋲が打たれています。門の名にある「筋鉄」は、扉の板に鉄の筋金を打ちつけて補強したことから来ていて、燃やされることと破られることの両方に備えた造りです。両脇を大きな切石で固め、通路を狭くして、くぐった先ですぐ折れる。城門の設計としては完成形といっていい形が、ここでそのまま見られます。

天守の北側だけが黒かった理由

福山城の復元天守と付櫓

五重の天守と、右手に寄り添う小さな櫓。最上階には高欄がめぐらされ、朱色の欄干が見える。

福山城の天守には、ほかの城に例のない特徴がありました。北側の壁に鉄板が張られていたのです。城の南から東にかけては何段もの堀と城下町が広がっていますが、北側は山がすぐ迫っていて、堀を十分に取れなかった。つまりここが唯一の弱点で、しかも高いところから天守を直接狙われる恐れがある。その一面だけを鉄で覆ってしまったわけです。白漆喰の城が、北から見たときだけ黒い壁になっている。見た目の統一より実用を取ったこの判断は、この城が装飾のためではなく本気の備えとして建てられたことを示しています。逆に、天守そのものを必要としないと判断した城もあって、仙台六十二万石が天守を建てなかった理由と並べると、この時代の大名が天守をどう見ていたかの幅がわかります。もとの天守は戦災で焼け、いま建っているのは外観を復原したもので、石碑には天守閣・月見櫓・湯殿が昭和四十一年に、鐘櫓が昭和四十九年に復原されたと刻まれています。鉄板張りは長らく再現されていませんでしたが、近年の大がかりな改修で北面によみがえりました。

水野・松平・阿部 ― 十六代の城主

木々の向こうに見える福山城の櫓

木立の向こうに白い櫓が顔を出す。入母屋の屋根が幾重にも重なり、壁には細い窓が並ぶ。

石碑の末尾には城主が列挙されています。水野氏五代、松平氏一代、阿部氏十代。あわせて十六代がこの城の主でした。築いた水野家は五代で無嗣断絶となり(家を残せるかどうかで大名の運命がどれほど変わるかは、改易から大名に戻った仙石秀久の例が示すとおりです)、一時は幕府の直轄地となったあと松平家が短く入り、そのあと阿部家が幕末まで続きます。この阿部家から出たのが阿部正弘です。二十代の若さで老中となり、やがて老中首座としてペリー来航に向き合った人物で、諸大名に広く意見を求めるという前例のない手を打ち、幕末の政治のかたちを変えました。備後十万石の城主が、日本の開国を実務で引き受けたことになります。石高でいえば決して大きくない藩から、時代の分かれ目に立つ人物が出てくる。城主の一覧を眺めると、そういうことが起こりうるのが江戸という時代だったことに気づかされます。

幕末の福山城

譜代大名の城であるということは、幕府が倒れるときには敵として狙われるということでもありました。長州との戦いのなかで福山城は長州勢の攻撃を受け、城の一部を失っています。三年をかけて築かれ、二百四十年ものあいだ一度も戦火にさらされなかった城が、最後の最後で戦場になった。築城の目的が「西国を押さえること」だったことを思えば、皮肉な結末です。そしてその西国から来た勢力が新しい政府をつくり、城は不要なものとして多くの建物を失っていきました。それでも伏見櫓と筋鉄御門が残ったのは、幸運としか言いようがありません。関ヶ原の戦いで福島正則が得た土地が、水野に移り、阿部に移り、最後は新政府のものになる。この城の二百数十年は、そのまま江戸時代のかたちをなぞっています。

訪ね方と見どころ

所在地は広島県福山市丸之内。日本100名城の七十一番です。この城の最大の特徴は、アクセスが日本一よいこと。JR福山駅の新幹線ホームから石垣と櫓が見えていて、改札を出て歩き出せばもう城内です。新幹線の窓から城が見える駅は、ほかにありません。見る順番としては、まず駅側から石垣を見上げ、筋鉄御門をくぐって本丸へ。天守に上がって展示を見たら、忘れずに天守の北側へ回ってください。鉄板が張られた面がそこにあります。それから伏見櫓を間近で見る。四百年前の伏見城の建物がそのまま立っているのだと思って眺めると、同じ板壁が違って見えてきます。城跡は公園として開かれていて、桜の季節には人が集まります。日本100名城の一覧もあわせてどうぞ。

福山城跡・場所とアクセス

〒720-0061 広島県福山市丸之内1-8

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