豊臣兄弟!第39回「茶々の本心」の史実|「勝って殿下の妻になる」茶々の決断と、石川数正の出奔 ─ ドラマと史実のちがい

小谷城跡からの眺め
この記事のポイント
  • 第39回で秀長が茶々を勧めたこと、寧々との弓の勝負、「勝って殿下の妻になる」という言葉はドラマの創作です。ただし、織田の血を引く跡継ぎを失った秀吉が、のちに茶々の子に家を託す大きな流れは史実に沿っています
  • 茶々が秀吉のもとにいたことが史料ではっきり見えるのは天正14年(1586)秋ごろ、側室になったのは天正16年(1588)ごろです。秀長と茶々の確かな接点は、天正17年(1589)に茶々の産所・淀城の普請に関わったことです
  • 病に倒れた秀勝は、信長の四男で秀吉の養子になった於次秀勝です。史実では天正13年(1585)12月10日に丹波亀山城で18歳で亡くなり、秀吉のまわりから織田の血を引く跡継ぎが消えました
  • 石川数正は天正13年(1585)11月13日に妻子と家臣を連れて岡崎城を出ましたが、出奔の理由は史料からわかりません。ドラマで数正が模型を見せられた聚楽第の着工は天正14年(1586)2月で、出奔より後のことです

『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」は、跡継ぎをめぐる豊臣家の話と、徳川との駆け引きの話が並んで進む回でした。秀長(仲野太賀)が秀吉(池松壮亮)に「茶々しかいない」と迫り、茶々(井上和)は寧々(浜辺美波)との弓の勝負のすえに、自分の意思で秀吉の妻になると決めます。そしてラストには、石川数正(迫田孝也)が徳川を捨てて秀長の前にあらわれました。この記事では、第39回の主な場面を順に追いながら、史実ではどうだったのかを解説します。

寧々の側から見た「なぜ茶々の側室入りを認めたのか」は、寧々はなぜ茶々の側室入りを認めたのかで考えています。

第39回の寧々と茶々の弓の勝負については、寧々と茶々の弓の勝負は実話? ─ 寧々はなぜわざと外したのかでくわしく解説しています。

大阪城
大阪城。第39回の舞台は、秀吉が関白となったばかりの大坂城でした
目次

第39回「茶々の本心」のあらすじ

関白となり、帝から新しい氏を得た秀吉のもとへ、大和を治める秀長がやってきます。秀吉の目下の課題は、態度をはっきりさせない徳川家康(松下洸平)でした。秀吉は徳川の重臣・石川数正を大坂城に呼び、信濃で争う真田と和睦するよう家康に伝えてほしいと頼み、京都に建てる聚楽第の模型や、金の詰まった箱を見せて豊臣の力を示します。秀長も数正に「いざとなれば私が浜松へ出向き、じかに頭を下げる」と打ち明け、数正は必ず家康を説き伏せると約束しました。

秀吉がこれほどの金銀を持てた理由は、豊臣家はなぜあれほど金銀を持てたのかで解説しています。

聚楽第については、聚楽第とは ─ 秀吉が天皇を迎え、そして自分で消した城でくわしく紹介しています。

一方、秀吉の養子で羽柴家の跡取りとされていた秀勝が重い病に倒れ、秀吉は「つくづく子に恵まれぬ定め」と嘆きます。秀長は三成と同じく、秀吉に実子が必要だと考え、相手は「織田の血を引く茶々しかいない」と秀吉に迫りました。秀吉は「お市の娘だぞ、わしが討ったのだ」「寧々がどれほど傷つくか」と怒りますが、寧々は「お家のため、殿下のためなら」と受け入れます。茶々は秀長の説得を「母に合わせる顔がない」と断りますが、寧々との弓の勝負に勝ったあと、自分の意思で秀吉の妻になると決めました。浜松では家康が真田との和睦を拒み、家臣団は戦へと傾いていきます。そしてラスト、数正が「徳川を捨て、出奔してきた」と秀長の前にあらわれます。

加藤清正・福島正則と三成の対立については、清正・正則と三成はなぜ不仲だったのかでくわしく解説しています。

「出奔」という言葉の意味や、ほかに出奔した戦国武将については、出奔(しゅっぽん)とは ─ 意味と読み方、寝返りとのちがいで紹介しています。

秀長は本当に「茶々しかいない」と勧めたのか

この回の軸は、秀長が秀吉に茶々を勧める場面でした。秀長は「羽柴・織田・浅井の血が入った子をつくるのだ」と言い、茶々には「その子が、織田もお市も浅井もかなえられなかった天下人になる」と説きます。仇の娘を妻にすることで、滅ぼした家の血まで豊臣家に取りこむという、筋の通った政略の理屈です。

ただし、史実で秀長が茶々を勧めたことを示す記録は見当たりません。確かなのは、茶々が秀吉の子・鶴松を身ごもった天正17年(1589)、秀長が茶々の産所となる淀城の普請に関わっていたことです(『多聞院日記』)。第39回の最後の語りでも、淀城の普請は秀長が担当したと紹介されました。ドラマはこの史実の接点をふくらませて、秀長を「茶々を勧めた人」として描いたと考えられます。くわしくは秀長は本当に秀吉に茶々を勧めたのかで解説しています。

「織田の血」という言葉の背景には、この回で病に倒れた秀勝がいます。この秀勝は信長の四男で、秀吉の養子になった於次秀勝です。史実では天正13年(1585)12月10日に、丹波亀山城で18歳で亡くなりました。秀吉のまわりから織田の血を引く跡継ぎが消えたことが、のちに信長の姪である茶々の子に期待がかかる下地になります。羽柴秀勝(於次秀勝)とはもあわせてどうぞ。

▽ ドラマではこう描かれました
秀長が「茶々しかいない」と秀吉に迫り、茶々本人も説得する。天正13年(1585)の秋ごろ、秀勝の病と同じ時期のこととして描かれました。
▼ 史実ではこうです
茶々が秀吉のもとにいたことが史料ではっきり見えるのは天正14年(1586)秋ごろで、側室になったのは天正16年(1588)ごろとされています。秀長が勧めた記録はなく、ドラマは数年分の流れを一つの回にまとめ、秀長を「勧めた人」として描いたといえます。

「勝って、殿下の妻になる」 ─ 茶々はなぜ秀吉の側室になったのか

茶々は最初、「関白になろうと豊臣になろうと、母を討った」「母に合わせる顔がない」と断りました。父の浅井長政は小谷城で、母のお市の方は再婚相手の柴田勝家とともに北ノ庄城で、どちらも秀吉が関わった戦で亡くなっています。茶々が秀吉を仇と見るのは当然でした。

ドラマはそこに、弓の勝負という仕掛けを入れました。寧々は「もとは織田家の弓衆の娘」として茶々と勝負し、わざと真ん中を外して茶々を勝たせます。勝った茶々は好きにしてよい立場になり、そのうえで「父と母の夢のため、豊臣のため、殿下の妻になりとうございます」と、自分で答えを選びました。お市が北ノ庄城で、娘たちを城から出し自分は残ると決めた「生まれて初めて己で決めたこと」と、茶々の決断が重ねて描かれています。

史実の茶々がなぜ側室になったのかを、本人が書き残したものはありません。浅井三姉妹の後ろ盾が秀吉しかいなかったこと、妹たちの嫁ぎ先も秀吉が世話していたことなど、まわりの事情から推し量るしかないのです。茶々(淀殿)はなぜ仇・豊臣秀吉の側室になったのかでくわしく考えています。なお、寧々が弓衆の家の娘というのは史実に沿った設定で、寧々の養父・浅野長勝は信長の弓衆だったとされています。茶々が弓を得意とした記録はなく、茶々は弓が得意だったのかで史料を確かめています。

三姉妹の像
北ノ庄城址の浅井三姉妹の像(茶々・初・江)。茶々は母お市の決断を回想しながら、自分の道を選びました

語りでは、秀吉の実の子の母となった茶々が、秀吉の死後に豊臣家を背負い、46歳で大坂城で自害したことにも触れられました。茶々(淀殿)が亡くなったのは慶長20年(1615)5月8日、大坂夏の陣で大坂城が落ちた翌日で、子の秀頼とともに自害したと伝わります。生まれを永禄12年(1569)とすると、満年齢で46歳(数え年で47歳)でした。生涯は茶々(淀殿)の生涯でまとめています。

放送の最後の紀行では、京都・東山の養源院が紹介されました。養源院は文禄3年(1594)、茶々が父・浅井長政の菩提を弔うために秀吉に願って建てた寺で、長政の法名「養源院」が寺の名になっています。いったん焼失したあと、茶々の妹の江が徳川秀忠に頼んで再建しました。浅井家ゆかりの位牌が伝わり、伏見城の遺構と伝わる「血天井」でも知られます。

茶々が父のために建てた京都の養源院については、養源院とは ─ 茶々が父・浅井長政のために建てた寺で紹介しています。

寧々は茶々をどう迎えたのか

秀吉は「寧々に言えぬ」と悩み、茶々との年の差も気にしていましたが、寧々は「お家のため、殿下のためなら、わたしは認める」と受け入れ、「茶々が傷つくようなことだけはしないように」と秀長に釘を刺しました。茶々が決心すると「これからはともにこの家を支えておくれ」と迎え入れます。そのうえで「心の底では、殿下の妻にはならないと言ってくれることも、少しは思っていた」と本音ももらしました。

寧々と茶々(淀殿)は対立していた、という話はよく語られますが、近年の研究では見直されています。寧々は茶々の産んだ鶴松や秀頼を豊臣家の跡取りとして大切にしたとされ、ドラマもその見方に立っているようです。浜辺美波が演じる寧々(ねね・北政所)とは、秀吉の側室は何人いたのかもあわせてどうぞ。

石川数正の出奔 ─ 「徳川を捨て、出奔してきた」

数正は秀吉に頼まれた真田との和睦を家康に伝えますが、家康は「今さら真田と和睦などできぬ」と拒みました。上田攻めで痛手を受けたうえ、真田の領地を北条と分けあう取り決めがあり、和睦すれば北条との盟約にもひびが入るからです。数正は「秀吉には良き世継ぎがいない。秀吉と秀長が亡くなるのを待つべき」と説きますが、家臣団は戦へと傾きます。そしてラストで数正は、秀長の前に「徳川を捨て、出奔してきた」とあらわれました。

史実の数正は、天正13年(1585)11月13日、妻子と家臣を連れて岡崎城を出て、秀吉のもとへ走りました。その半月ほど前の10月28日には、浜松で秀吉への人質を出すかどうかの評議があり、家臣たちが拒んだと伝わります。数正自身が出奔の理由を書き残したものはなく、秀吉の引き抜き、家中での孤立、信康事件のわだかまり、石川家の中での傍流扱い、家康の密命という五つの説が語られてきました。ドラマは、和睦を説いて家中で浮いていく数正を描いており、孤立説に近い描き方です。くわしくは石川数正はなぜ出奔したのか ─ 裏切り・寝返りの理由で解説しています。

岡崎城
岡崎城。数正は天正13年11月13日、この城から妻子とともに秀吉のもとへ出奔しました
▽ ドラマではこう描かれました
数正は大坂城で聚楽第の模型と金を見せられて豊臣の力を知り、和睦を説いて徳川家中で孤立したすえに出奔する。
▼ 史実ではこうです
数正が出奔したのは確かですが、理由は史料からわかりません。聚楽第の着工は天正14年(1586)2月で、出奔より後です。ドラマは豊臣の財力を見せるために、聚楽第の構想を少し先取りして描いたと見られます。秀吉が財力を見せて人を従わせたことは、黄金の茶室の記事でも紹介しています。

ほかの場面の史実 ─ 真田との和睦、秀次の縁組

秀吉が数正に頼んだ真田との和睦は、天正13年(1585)閏8月の第一次上田合戦で徳川軍が真田昌幸に敗れたあとのことです。昌幸は上杉景勝を通じて秀吉に近づいており、家康が「真田の領地を北条と分けあう取り決め」と言ったのは、上野の沼田をめぐる問題を指しています。徳川と真田は何でもめていたのか、第一次・第二次上田合戦でくわしく解説しています。

秀吉が秀次(山田涼介)に縁談をもちかけ、すでに池田恒興の娘をめとっていたと知る場面もありました。秀次の正室は池田恒興の娘(若御前)とされ、恒興は秀次が総大将をつとめた小牧・長久手の戦いで討ち死にしています。秀次は天正13年閏8月に近江で四十三万石を与えられ、八幡山城を築きました。秀次が「いつの日か殿下の跡を継ぎたい」と語ったのは、天正19年(1591)に関白を継ぐことの前ぶれでしょう。秀吉の養子たち ─ 後継ぎ候補は、なぜ、秀次事件をわかりやすく解説もどうぞ。また、秀吉が茶々を秀次に嫁がせようと考えていたという筋は、ドラマのオリジナルと見られます。茶々は本当は誰に嫁ぐはずだったのかもあわせて読むと、茶々の縁談の候補がよくわかります。

『豊臣兄弟!』第39回で秀長が言い切った「秀次には殿下の器はない」については、なぜ秀長は「秀次には殿下の器はない」と言ったのかで考えています。

次回 第40回「あさひの輿入れ」

次回の予告では、秀吉の妹・あさひ(倉沢杏菜)を夫と別れさせ、家康の妻にする話が描かれるようです。史実では、旭姫は天正14年(1586)5月に浜松の家康のもとへ嫁ぎ、のちに母の大政所も人質として岡崎へ向かいます。こうした人質外交の結果、家康は同じ年の10月に上洛して秀吉に臣従しました。予想は第40回、筆者が勝手に予想する見どころ7つにまとめています。

よくある疑問

Q. 第39回で茶々が言った「勝って殿下の妻になる」は史実ですか?
A. ドラマの創作です。茶々が側室になった理由を本人が書き残したものはなく、弓の勝負も史料には見えません。

Q. 秀長が茶々を勧めたのは本当ですか?
A. 記録は見当たりません。秀長が茶々の産所の淀城の普請に関わったことは『多聞院日記』からわかります。

Q. 石川数正が出奔したのはいつですか?
A. 天正13年(1585)11月13日です。妻子と家臣を連れて岡崎城を出て、秀吉のもとへ走りました。

Q. 第39回で病に倒れた秀勝は誰ですか?
A. 信長の四男で秀吉の養子になった於次秀勝です。史実では天正13年12月10日に18歳で亡くなりました。

まとめ

第39回「茶々の本心」は、跡継ぎをめぐる豊臣家の決断と、石川数正の出奔という徳川側の大事件を一つの回で描きました。秀長が茶々を勧めたこと、弓の勝負、「勝って殿下の妻になる」という茶々の言葉はドラマの創作ですが、織田の血を引く跡継ぎを失った秀吉が、のちに信長の姪である茶々の子に家を託すという大きな流れは史実に沿っています。数正の出奔の理由は史料からはわからず、ドラマは和睦を説いて孤立した重臣として描きました。次回はあさひの輿入れで、秀吉と家康の駆け引きがさらに進みます。

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