豊臣秀長が大和に入った天正13年(1585)、松永久秀が築いた多聞山城も信貴山城も、すでにこの世にありませんでした。多聞山城は信長の命で壊され、信貴山城は久秀の最期とともに焼け落ちていたのです。さらに天正8年、信長は大和の城を郡山城ひとつに絞らせ、筒井順慶はそれまでの本拠・筒井城から郡山城へ移っていました。つまり秀長は、新しく本拠を選んだのではなく、筒井氏の最後の本拠だった郡山城を引き継いで、百万石の大名にふさわしい城と城下町に造り替えたのです。この記事では、大和の本拠が多聞山・信貴山・筒井から郡山へ移っていった流れと、その理由をたどります。
- 多聞山城は天正4年から5年ごろ信長の命で壊され、信貴山城は天正5年の久秀の自害で焼け落ちた
- 天正8年、信長は大和の城を郡山城ひとつに絞らせ、筒井順慶は筒井城から郡山城へ本拠を移した
- 天正13年に大和へ入った秀長は、筒井の郡山城を引き継ぎ、石垣と天守を持つ城と城下町に造り替えた
- 郡山は奈良盆地の真ん中にあり、大坂・京・奈良、紀伊・和泉へ通じる道の要だった
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秀長が入る前の大和の本拠 ─ 一覧
戦国時代の大和には守護がおらず、興福寺の勢力、筒井氏、松永久秀などが争ってきました。その流れは大和の戦国時代とはでまとめています。主な城を並べると次のとおりです。
| 城 | 城主 | 秀長が入ったころ |
|---|---|---|
| 多聞山城(奈良市) | 松永久秀 | 天正4〜5年ごろ、信長の命で壊されていた |
| 信貴山城(平群町) | 松永久秀 | 天正5年、久秀の自害とともに焼け落ち、廃城 |
| 筒井城(大和郡山市) | 筒井氏 | 天正8年、信長の命で廃城 |
| 郡山城(大和郡山市) | 筒井順慶・定次 | 大和でただ一つ残された城。秀長が引き継ぐ |
多聞山城 ─ 奈良の町を見おろした城は、信長が壊させた
多聞山城は、松永久秀が奈良の町の北の丘に築いた城です。白壁の櫓や瓦ぶきの建物を備え、のちに「多聞櫓」という言葉が残るほど先進的な城でした。しかし久秀が信長に背いたり許されたりをくり返すなかで、城は信長の手に渡り、天正4年から5年ごろにかけて壊されました。建物や石材はほかの城に運ばれたといわれます。くわしくは多聞山城跡をどうぞ。

多聞山は奈良の町と東大寺・興福寺のすぐそばにあります。寺社をにらむには都合のよい場所でしたが、逆に言えば、寺社の勢力のまっただ中でもありました。秀長が入ったころにはもう城はなく、この地をわざわざ一から築き直す理由はなかったのです。
信貴山城 ─ 久秀の最期とともに焼け落ちた山城
信貴山城は、大和と河内の境の信貴山に築かれた大和最大の山城です。天正5年、信長に二度目の謀反を起こした久秀は、織田方の大軍に囲まれ、城とともに自害しました(松永久秀は仏罰を恐れなかったのか)。城は焼け落ち、そのまま廃城となります。くわしくは信貴山城跡をどうぞ。

仮に城が残っていたとしても、信貴山のような険しい山城は、戦の時代の守りの城です。百万石の領国を治め、家臣を住まわせ、商人を集める本拠にはむいていませんでした。
筒井氏は筒井城から郡山城へ ─ 信長の「一国一城」
筒井順慶の家は、代々筒井城を本拠としてきました。「元の木阿弥」の話でも知られる平城です(筒井城跡)。ところが天正8年、信長は大和の城をことごとく壊させ、郡山城だけを残すよう命じました。大和一国を任された順慶は、筒井城を離れて郡山城に移り、城を整えていきます。

順慶が天正12年に亡くなると、養子の定次が跡を継ぎました。しかし翌天正13年、定次は伊賀へ移され、大和には秀長が入ります(筒井定次はなぜ大和を出されたのか)。秀長が受け取ったのは、信長が大和の要として残し、順慶が整えた郡山城でした。
なぜ郡山だったのか ─ 4つの理由
では、なぜ信長も秀長も郡山を選んだのでしょうか。
| 理由 | 中身 |
|---|---|
| 奈良盆地の真ん中 | 盆地の西寄りの中央にあり、大和の国中を見渡して治めやすい |
| 道の要 | 大坂・京・奈良を結ぶ道、紀伊・伊賀へ向かう道が集まる |
| 寺社から少し離れている | 興福寺・東大寺のある奈良の町から離れ、寺社の力に縛られずに新しい町を作れる |
| 城下町を作れる広さ | 平地に近い丘で、家臣の屋敷と商人の町を広げられる |
秀長は大和だけでなく、紀伊・和泉もあわせた百万石を治めました。郡山は、兄の秀吉がいる大坂とも、紀伊の山々とも結びやすい位置です。秀長は奈良の商いを郡山に集め、郡山の城下町を大和の商業の中心にしようとしました。そのいきさつはなぜ秀長は大和郡山に百万石を与えられたのかと第38回「和を以て、大和をなす」史実解説で書いています。
秀長は郡山城をどう造り替えたのか
秀長は郡山城に天守を建て、石垣を大きく広げました。大和は石の少ない国だったため、寺の礎石や墓石、地蔵まで石垣に使ったことが知られています。いまも郡山城跡には「逆さ地蔵」が残ります(大和郡山城)。家臣たちは国内の要所の城に城代として置かれ、郡山城を中心に三か国を治める仕組みが作られました(城代とは何か)。
多聞山や信貴山をそのまま使えばよかったのに、と思いたくなりますが、秀長が入ったときにはどちらも失われていました。そして秀長は、実は前の領主・筒井氏の本拠をそのまま踏襲しています。ただ、筒井の城を大名の城へ、軍事の拠点を政治と商いの中心へと、その中身を大きく変えました。筆者は、寺社のまち奈良から少し離れた郡山を選び直さずに引き継いだことにこそ、寺社の国を新しい形で治めようとした秀長の考えが表れていると見ています(秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか)。
『豊臣兄弟!』では第37回・第38回の「大和郡山編」で、秀長が郡山に入り、寺社や商人と向き合う姿が描かれました。多聞山城と信貴山城は、竹中直人さんが演じた松永久秀の城です。ドラマを振り返りながら城跡を訪ねると、秀長が受け継いだ大和の重みがよりよくわかります。
よくある質問
Q. 筒井順慶の本拠は筒井城ですか、郡山城ですか?
A. もともとは筒井城でしたが、天正8年に信長が大和の城を郡山城ひとつに絞らせたため、順慶は郡山城へ本拠を移しました。
Q. 多聞山城はいつなくなったのですか?
A. 天正4年から5年ごろ、信長の命で壊されました。建物や石材はほかの城に運ばれたといわれます。
Q. 秀長はなぜ郡山を本拠にしたのですか?
A. 信長の時代から大和の城は郡山城ひとつに絞られていたうえ、郡山は奈良盆地の中央で道の要にあり、寺社の町・奈良から離れて城下町を作れる場所だったからです。
まとめ
秀長が大和に入ったとき、多聞山城は信長の命で壊され、信貴山城は松永久秀の最期とともに焼け落ちていました。大和の城は天正8年に郡山城ひとつに絞られ、筒井順慶も筒井城から郡山城へ移っていました。秀長はこの筒井の郡山城を引き継ぎ、天守と石垣を持つ城と、奈良の商いを集めた城下町に造り替えます。秀長は前の本拠を踏襲しながら、その中身を百万石の大名の都へと変えたのです。
参考:『多聞院日記』、大和郡山市・奈良市・平群町の史跡解説

