天正13年(1585)の春、秀吉と秀長の十万の軍勢が紀伊に攻め込むと、鉄砲で知られた根来寺は二日で焼け落ちました。ところが、同じ紀伊にあって僧兵を抱え、広い寺領を持っていた高野山は、一度も戦わずに生き残ります。同じ紀伊の、同じように武装した寺なのに、なぜ根来寺は焼かれ、高野山は残ったのでしょうか。そのカギを握っていたのが、木食応其(もくじきおうご)という一人の僧でした。
- 天正13年3月、秀吉の紀州攻めで根来寺と粉河寺が焼け、4月には太田城も水攻めで開城しました
- 秀吉は4月10日に高野山へ使者を送り、寺領の返上・武装の禁止・謀反人をかくまわないことを求め、従わなければ全山を焼くと迫りました
- 高野山は木食応其を使者に立て、応其は空海ゆかりの文書を携えて秀吉に会い、高野山は戦わずに残されました
- 高野山はその後に武装を解き、6月には紀伊と高野山に刀狩が命じられます。これがのちの全国の刀狩につながっていきます
- 紀伊はこの戦いのあと秀長の領国になりました。十年後、秀次が命を絶ったのは、秀吉が母のために高野山に建てた寺でした
天正13年の紀州攻めで、何が起きたのか
小牧・長久手の戦いのあいだ、紀伊の根来衆や雑賀衆は家康方について、秀吉の留守をねらって大坂に攻めかかりました。家康と和睦した秀吉は、その後始末として天正13年3月、十万ともいわれる大軍で紀伊へ向かいます。先陣は甥の秀次、副将は弟の秀長でした。
3月21日に大坂を出た軍勢は、和泉の千石堀城などの砦を三日のうちに落とし、3月23日には根来寺に入ります。根来衆の主力は和泉の砦に出ていたため、寺はほとんど抵抗できず、その夜に火が出て、大塔や大門などわずかな建物を残して焼け落ちました。同じころ粉河寺も炎上し、雑賀では内輪もめから自滅に近い形で崩れていきます。最後まで残った雑賀衆がこもった太田城は、長い堤で囲む水攻めにされ、4月22日に開城しました。

根来衆とはどんな集団だったのか、なぜ鉄砲と結びついたのかは 根来衆とは何者だったのか に、太田城の水攻めは なぜ秀吉は太田城を水攻めにしたのか にくわしく書いています。
高野山も、武装した「寺の国」だった
高野山は、弘法大師空海がひらいた真言宗の聖地です。ただし戦国時代の高野山は、祈りの山であると同時に、広い寺領を持ち、「行人(ぎょうにん)」と呼ばれる武装した僧たちを抱える勢力でもありました。紀伊の北部には、根来寺・粉河寺・高野山という大きな寺と、雑賀の門徒たちがそれぞれ力を持ち、ひとりの大名が国を治める形にはなっていなかったのです。
信長の時代にも、高野山はすでに狙われています。天正9年(1581)、信長は高野山が荒木村重の残党をかくまったとして、各地で高野聖を捕らえて殺し、高野山を攻めましたが、翌年の本能寺の変で包囲は解けました。高野山にとって、秀吉の紀州攻めは二度目の危機だったことになります。この「寺が武力を持って自分の国を治める」形は、大和の興福寺とよく似ています。大和の場合は 衆徒とは何者か を読むと、つながりが見えてきます。
秀吉が突きつけた三つの条件
根来寺が焼け落ちたあとの4月10日、秀吉は高野山に使者を送り、降伏を勧めました。条件はおおむね次の三つで、従わなければ全山を焼き討ちにする、という脅しつきでした。
- 戦国のあいだに広げた寺領の大半を返すこと
- 武器を持たないこと
- 謀反人や罪人を山にかくまわないこと(受け入れてよいのは世を捨てた者だけ)
三つめの条件には、信長の時代に荒木村重の残党をかくまったことへの警戒がにじんでいます。秀吉がねらったのは、高野山をつぶすことではなく、「武力を持たず、逃げこむ場所にもならない寺」に作り変えることでした。
木食応其は、何を持って秀吉に会ったのか
高野山が使者に立てたのが、木食応其です。応其は近江の佐々木氏の家臣だったと伝わる元武士で、主家が滅んだあとに出家して高野山に入り、穀物を断って木の実などだけで修行したことから「木食上人」と敬われていました。連歌や和歌にも通じ、身分の高い人びととも交わりのある僧でした。
4月16日、応其は高野山に伝わる嵯峨天皇の宸翰(天皇の自筆)と、空海の手形が押された文書を携えて秀吉に会いました。高野山が天皇と弘法大師によって守られてきた寺であることを示し、そのうえで秀吉の条件を受け入れて弁明したのです。秀吉はこれを聞き入れ、高野山の存続を認めました。のちに秀吉は応其について、「高野の木食と思うてはならぬ、木食の高野と思え」と語ったと伝わります。高野山が残ったのは応其のおかげだ、という意味です。
根来寺と高野山、明暗を分けたもの
同じ紀伊の武装した寺でありながら、二つの寺の運命は大きく分かれました。並べてみると、違いは信仰の格ではなく、秀吉と戦ったかどうかにあったことが分かります。
| 根来寺 | 高野山 | |
|---|---|---|
| 宗派 | 新義真言宗(覚鑁がひらく) | 真言宗(空海がひらく) |
| 武力 | 鉄砲を持つ僧兵集団。傭兵としても各地で戦う | 行人と呼ばれる武装した僧を抱える |
| 小牧・長久手のとき | 家康方について大坂を攻める | 根来・雑賀ほど目立った動きは伝わらない |
| 天正13年 | 3月23日、ほぼ無抵抗のまま炎上 | 4月、応其の交渉で降伏し存続 |
| その後 | 大塔などが残り、江戸時代に紀州徳川家のもとで再興 | 武装を解き、豊臣家から寺領を与えられる |
根来寺は、すでに秀吉の本拠を攻めた「敵」でした。高野山は、まだ敵になる前に条件をのむことができました。秀吉にとって、見せしめとして焼くべき寺と、従わせて残すべき寺があり、その線を引いたのが小牧・長久手のときの動きだったのです。焼け残った根来寺の大門は、のちに秀長の郡山城に運ばれて城門にされたと伝わります。そのいきさつは 秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか に書いています。
高野山の刀狩と、秀長の紀伊
高野山の降伏は、それだけでは終わりませんでした。太田城の開城のとき、秀吉は降伏した人びとに農具や家財は持ち帰らせ、武器だけを取り上げています。これが刀狩の始まりとされ、2か月後の天正13年6月には、紀伊と高野山に刀狩が命じられました。高野山の武装解除は10月までに終わり、行人たちは武器を手放します。三年後の天正16年(1588)に全国に出される刀狩令は、この紀伊での経験の上に作られたものです。刀狩の意味については 太閤検地と刀狩とは をご覧ください。
そして戦いのあと、紀伊一国は秀長に与えられました。秀長は藤堂高虎に和歌山城を築かせて桑山重晴を城代に置き、紀伊湊には吉川平介、粉河には藤堂高虎を置くなどして国を固めていきます。高野山は秀長の領国のなかにありながら、豊臣家が直接に寺領を与える寺として扱われました。秀長が紀伊をどう治めたのかは 和歌山城 と 豊臣秀長の家臣団とは で紹介しています。同じ年の閏8月、秀長は大和も与えられ、今度は興福寺という別の「寺の国」と向き合うことになります。
秀吉と高野山、そして秀次
降伏したあとの高野山と豊臣家は、むしろ深く結びついていきます。天正19年(1591)、高野山は一万石の寺領を認められ、応其個人にも千石が与えられました。翌天正20年に大政所(秀吉の母なか)が亡くなると、秀吉は母の菩提をとむらうために応其に命じて高野山に青巌寺を建て、さらに一万石を寄進しました。こうして高野山の寺領は二万一千石となり、江戸時代もこの石高が続きます。応其はその後も方広寺の大仏づくりなどに関わり、秀吉に重く用いられました。
ところが文禄4年(1595)7月、関白の地位を奪われた豊臣秀次は高野山に送られ、この青巌寺で命を絶ちます。秀吉が母のために建てた寺が、甥の最期の場所になったのです。青巌寺は明治時代にとなりの寺とあわさり、いまの金剛峯寺になっています。秀次事件については 秀次事件をわかりやすく解説 と 秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのか でくわしく取り上げています。
年表で見る、紀州攻めと高野山
| 天正9年(1581) | 信長が高野聖を捕らえて殺し、高野山を攻める(翌年の本能寺の変で中断) |
| 天正12年(1584) | 小牧・長久手の戦い。根来衆・雑賀衆が家康方として大坂を攻める |
| 天正13年3月21日 | 秀吉が大坂を出陣。先陣は秀次、副将は秀長 |
| 3月23日 | 根来寺が炎上。粉河寺も焼ける |
| 4月10日 | 秀吉が高野山に使者を送り、三つの条件を示す |
| 4月16日 | 木食応其が秀吉に会い、高野山の存続が認められる |
| 4月22日 | 太田城が水攻めのすえ開城。武器を取り上げる |
| 6月 | 紀伊と高野山に刀狩が命じられる |
| 閏8月 | 秀長が紀伊・和泉に大和を加えられ、郡山城へ |
| 10月 | 高野山の武装解除が終わる |
| 天正19年(1591) | 高野山に一万石、応其に千石。この年の1月に秀長が亡くなる |
| 天正20年(1592) | 大政所が亡くなり、秀吉が青巌寺を建てて一万石を寄進(計二万一千石) |
| 文禄4年(1595) | 豊臣秀次が高野山青巌寺で自害 |
よくある疑問
Q. 鉄砲の僧兵がいたのは高野山ですか?
A. 鉄砲で知られた僧兵は、同じ紀伊の根来寺の根来衆です。根来の門前にいた津田監物が種子島から鉄砲を持ち帰ったと伝わります。高野山にも武装した僧(行人)はいましたが、鉄砲集団として名を知られたのは根来でした。
Q. 高野山は秀吉に焼かれたのですか?
A. 焼かれていません。天正13年に秀吉から焼き討ちを予告されましたが、木食応其の交渉で条件をのんで降伏し、戦いにはなりませんでした。
Q. 木食応其とはどんな人ですか?
A. もとは近江の武士と伝わる高野山の僧で、穀物を断つ修行から「木食上人」と呼ばれました。秀吉との交渉で高野山を救い、その後も秀吉に重く用いられました。
Q. 秀長と高野山には関わりがありますか?
A. 秀長は紀州攻めの副将で、戦いのあと紀伊を領国にしました。高野山は豊臣家が寺領を与える特別な寺でしたが、まわりの紀伊を治めたのは秀長とその家臣たちです。
ゆかりの地をめぐる
- 和歌山城(和歌山市)… 紀州攻めのあと、秀長が築かせた城
- 太田城跡(和歌山市)… 水攻めで開城した雑賀衆最後の拠点
- 雑賀城(和歌山市)… 鉄砲で知られた雑賀衆の城
- 根来寺(和歌山県岩出市)… 焼け残った国宝の大塔に、弾の跡が残ると伝わります
- 高野山金剛峯寺(和歌山県高野町)… 秀吉が母のために建てた青巌寺が前身で、秀次が最期を迎えた場所です
まとめ
天正13年の紀州攻めで、根来寺は二日で焼け、高野山は一度も戦わずに残りました。分かれ目は信仰の格ではなく、すでに秀吉と戦っていたかどうかと、秀吉の三つの条件をどう受け止めたかで、高野山は木食応其が条件をのむ形で降伏をまとめたことで、焼く理由そのものを消しました。その後、紀伊と高野山で始まった刀狩は全国に広がり、紀伊は秀長の領国となり、高野山は豊臣家と深く結びついて、やがて秀次の最期の地にもなります。紀伊の二つの寺の明暗は、寺が武器を持つ時代の終わりと、秀長が「寺の国」大和へ向かう直前の姿を、そのまま映しているのです。
- 根来衆とは何者だったのか
鉄砲を最初に持った僧たちと、津田監物 - 秀吉はなぜ太田城を水攻めにしたのか
雑賀衆最後の籠城と、刀狩のはじまり - 和歌山城
紀州攻めのあと、秀長が虎伏山に築かせた城 - 太田城(紀州)
水攻めで開城した雑賀衆の拠点 - 雑賀城
鉄砲で知られた雑賀衆と雑賀孫一 - 秀長は寺社の国・大和をどう治めたのか
興福寺の寺領削減と、郡山に運ばれた根来寺の大門 - 太閤検地と刀狩とは
紀伊で始まった武装解除が全国へ - 豊臣秀長の家臣団とは
紀伊を任された桑山重晴・藤堂高虎・吉川平介 - 秀次事件をわかりやすく解説
高野山青巌寺で迎えた秀次の最期 - 豊臣秀長はどう出世したのか
紀伊・和泉、そして大和の百万石へ
大河ドラマの各回の解説は 『豊臣兄弟!』特集 にまとめています。
- 豊臣秀長とはどんな人物か
兄・秀吉を支えた大和大納言の生涯 - 豊臣秀長の出自
本当に秀吉と同じ父母の弟だったのか - 豊臣秀長はなぜ「長秀」から「秀長」に改めたのか
丹羽長秀と同じ名を持っていた - 豊臣秀長は賤ヶ岳で何をしていたのか
秀吉が戦場を離れられた理由 - 豊臣秀長と大坂城築城
石と材木をどう集めたのか - 豊臣秀長はなぜ四国攻めの総大将に選ばれたのか
十万の軍を率いた夏 - 豊臣秀長の四国平定・九州平定
総大将として天下統一を進めた戦 - 豊臣秀長の百万石
大和・紀伊・和泉の内訳と、大和郡山を任された理由 - 豊臣秀長の大和支配
寺社の国をどう治めたのか - 豊臣秀長の居城・大和郡山城
逆さ地蔵の石垣と、秀長のあとの城主たち - 豊臣秀長が築いた和歌山城
虎伏山に築いた紀州の城 - 豊臣秀長の家臣団
藤堂高虎・桑山重晴・吉川平介ら百万石を支えた人びと - 豊臣秀長に仕えた藤堂高虎
築城の名手になった二十年 - 豊臣秀長の家臣・吉川平介
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