松野主馬(松野重元)とは:小早川秀秋の寝返りに従わず、戦わずに関ヶ原を去った男

松尾山を下りて関ヶ原の戦場を離れる松野主馬のイメージ(イラスト)

松野主馬(まつの しゅめ)は、小早川秀秋の家臣です。関ヶ原で秀秋が東軍へ寝返ったとき、主馬はこれに従いませんでした。かといって西軍として戦うこともせず、自分の手勢を率いて戦場を離れています。裏切りにも加わらず、戦いもしない。この第三の選択で主家を失いますが、のちに田中吉政に一万二千石で迎えられ、八十三歳まで生きました。

📺 BS日テレ「磯田道史の歴史をゆく」2時間SP「関ケ原の戦いの真実」は2026年9月23日(水)よる8時から9時54分まで放送。黒田長政、小早川秀秋、可児才蔵とともに、松野主馬の行動も取り上げられます。
この記事のポイント
  • 秀吉が小早川家に付けた鉄砲頭。譜代の家臣ではなく、外から入れられた重臣でした
  • 関ヶ原では秀秋の寝返りに従わず、戦わないまま戦場を離れました
  • その身の処し方が評価され、戦後は田中吉政に一万二千石で召し抱えられます
  • 筑後では治水に力を発揮し、手を入れた川は「主馬殿川」と呼ばれました
  • 田中家と徳川忠長の改易で二度浪人し、八十三歳で世を去りました
目次

松野主馬とは誰か ── 秀吉が小早川家に付けた男

名は重元、通称は平八、のちに主馬助を称しました。松野家はもともと織田に縁のある家で、伯父の平介は信長の馬廻をつとめ、本能寺の変のあとに自害しています。父の平八は秀吉に仕え、天正十五年(1587年)の九州攻めで戦死しました。

主馬が小早川家に入ったのは文禄四年(1595年)です。小早川隆景の養子となっていた秀俊、のちの秀秋が、丹波亀山から筑前名島城へ移ることになり、そのとき秀吉が「小早川の重臣として付ける」という形で送り込みました。役目は鉄砲頭です。

ここが大事なところです。主馬は小早川の譜代ではありません。豊臣から送られてきた人間です。若い当主を支えるためでもあり、同時に豊臣が小早川家を見張るためでもありました。主家への忠義と、豊臣への恩と、その両方を背負って関ヶ原を迎えることになります。

松尾山で何が起きたか

慶長五年(1600年)九月十五日、小早川勢は松尾山に陣を構えていました。ここから西へ下れば大谷吉継の陣、北へ出れば西軍の本隊です。関ヶ原の布陣のなかで、最も重いひと押しを握っていたのがこの山でした。

昼近く、秀秋は山を下りて大谷勢へ襲いかかります。西軍から東軍への寝返りです。このとき松野主馬は動きませんでした。軍記物には「返り忠の軍法はない」という趣旨の言葉で主君を諫めたと伝えられますが、これは後世に書かれたものなので、そのままの言葉があったと断じることはできません。確かなのは、主馬が寝返りに加わらず、手勢を率いて戦線を離れたということです。

秀秋がなぜ裏切ったのかについては別の記事で詳しく書きました。家康側の調略は戦の前から積み上げられており、黒田長政が取り次ぎ役として動いています。秀秋一人の気まぐれではなく、何か月もかけて準備された寝返りでした。その準備の外側に、主馬は立っていたことになります。

寝返りを進めた家老たち ── 稲葉正成と平岡頼勝

主馬の立場をはっきりさせるには、同じ小早川家のなかで正反対に動いた人たちを見るのがいちばんです。稲葉正成と平岡頼勝。ともに秀秋の家老で、二人とも主馬と同じように外から付けられた重臣でした。

この二人は、戦の前から家康方と連絡を取り合っていたとされます。黒田長政が取り次ぎ役をつとめ、秀秋が東軍に付いた場合の恩賞まで話が進んでいました。寝返りは山の上での気まぐれではなく、家老たちが積み上げた段取りだったわけです。

おもしろいのは、同じ「豊臣から付けられた重臣」という立場から、まったく違う結論が出たことです。稲葉と平岡は、主家を残すには東軍に付くしかないと判断しました。主馬は、主家を残すためでも裏切りには加われないと判断しました。どちらも小早川家のためを思っていたのに、出た答えが正反対だった。関ヶ原という戦のややこしさが、この一家のなかに縮図のように詰まっています。

結末も皮肉です。寝返りによって秀秋は備前・美作五十一万石を得ますが、二年後に二十一歳で急死し、跡継ぎがないまま小早川家は消えました。家を残すための判断が、家を残しませんでした。稲葉正成の妻はのちに春日局として三代将軍の乳母となり、別の形で名を残します。

関ヶ原の布陣を俯瞰したイメージ(イラスト)

関ヶ原の布陣のイメージ(イラスト)。霧の残る盆地をはさんで、東西の旗指物が向かい合う。手前の尾根に並ぶのが山の上に陣取った部隊。

なぜ「戦わない」を選んだのか

主馬の選択は、よく考えると珍しいものです。寝返りが嫌なら、西軍として大谷勢と並んで戦うという道もありました。しかし主馬はそれもしていません。

理由は、彼の立場にあったと考えられます。主君の秀秋は豊臣の一門で、秀吉に育てられた人です。主馬自身も秀吉に付けられた身です。その主君に弓を引くことはできない。かといって、主君が豊臣を裏切る側に回るのに付き従うこともできない。どちらにも加われないなら、その場を去るしかありません。

▽ よく語られる話
小早川の家臣たちは、みな秀秋の裏切りに従った。
▼ 史実ではこうです
従わなかった者がいました。松野主馬は寝返りに加わらず、戦わずに戦場を離れています。ただし、主君を諫めたという名台詞は軍記物に出てくるもので、当時の記録で裏づけられているわけではありません。確かなのは、彼が戦場を離れたという行動と、戦後に大名から破格の待遇で迎えられたという結果のほうです。行動と結果から、当時の人がこれをどう見ていたかが逆算できます。

結果として、主馬は主家を離れました。石田三成の側にも徳川の側にも立たなかった人物が、この戦のなかにいたというだけで、関ヶ原の見え方は少し変わります。

戦場を去った男のその後 ── 一万二千石と「主馬殿川」

浪人となった主馬を召し抱えたのは、三河出身の大名・田中吉政でした。関ヶ原のあと筑後柳川三十二万石を与えられた人です。主馬は松延城の城番家老として、一万二千石ほどを与えられました。浪人あがりの待遇としては破格です。裏切りに加わらなかったという身の処し方が、そのまま評価されたということでしょう。

筑後での主馬は、戦ではなく治水で名を残しました。筑後川の流域は水との戦いが続く土地です。堤を築き、流れを付け替える仕事に力を発揮し、手を入れた川はのちに「主馬殿川」と呼ばれるようになりました。鉄砲頭として送り込まれた男が、最後は土木の人として地元に名を残したわけです。

ただ、その後も落ち着きませんでした。元和六年(1620年)に田中家が跡継ぎなく改易されると、主馬は徳川忠長に仕えます。ところが寛永十年(1633年)、その忠長も改易され自害に追い込まれ、主馬はふたたび浪人となりました。晩年は本多家に預けられて百人扶持を受け、明暦元年(1655年)に八十三歳で世を去っています。京都で没して妙心寺に葬られたという説と、本多家の移った陸奥白河で没したという説があり、はっきりしません。

関ヶ原で戦わなかった男が、その後五十五年を生きました。可児才蔵のように戦場での働きで名を残した者とは、まるで違う形の生き残り方です。

まとめ ── 三つ目の選択肢

関ヶ原を語るとき、私たちはたいてい東軍か西軍かで人を分けます。しかし実際の戦場には、どちらでもない選択をした人がいました。

松野主馬の行動は、勝敗には影響していません。彼が動かなかったことで戦の結果が変わったわけでもない。それでも、この人の名が四百年後まで伝わっているのは、当時の武士たちが「加わらない」という選択にも意味を認めていたからでしょう。戦後に一万二千石で迎えられたという事実が、何より雄弁です。

今夜の番組でこの名前を聞いたら、松尾山の一角で動かなかった一隊のことを思い出してください。関ヶ原の戦い全体の流れとあわせて読むと、あの半日の見え方が少し変わります。

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