大和郡山城:石垣に積まれた逆さ地蔵と、秀長の五年・柳沢家の百五十年

大和郡山城/アクセス・地図・場所 豊臣秀長の大和・紀伊・和泉100万石の居城 郡山城
この記事のポイント
  • 郡山城は筒井順慶が本拠に定め、豊臣秀長が大和・紀伊・和泉百万石の居城として大改修した城
  • 石が乏しい国だったため、寺の石塔や石仏まで石垣に積まれました。天守台には逆さまの地蔵が残る
  • 秀長がいたのは五年ほどで、城主はその後も替わり続けた
  • いま歩ける郡山城の姿は、百五十年続いた柳沢家の時代に整ったもの
▶ 大河『豊臣兄弟!』第37回「秀長の国」の舞台は、この大和郡山城です

大和郡山城(奈良県大和郡山市)は、豊臣秀長が百万石の居城とした城です。ただし秀長がここにいたのは五年ほどで、城主はそのあとも替わり続けました。いま堀端に立つ櫓も、城下の名物も、じつは百五十年続いた柳沢家の時代に整っています。同じ場所に、秀長の五年と柳沢の百五十年が重なって残っているのがこの城跡です。

▽ よく語られる話
石垣に地蔵まで積んだのは、秀長が寺社を軽んじ、乱暴に城を造ったからです。
▼ 史実ではこうです
大和は城づくりに使える石材に乏しい国で、石塔や石仏を積む転用石は他の城でも見られます。ただ郡山では、その石が寺社の境内から出ています。石を差し出させること自体が、国のなかで寺社が持っていた力を城のほうへ移す手続きでもありました。乱暴さの話というより、国の作りかえの話です。
目次

秀長が入る前 ─ 筒井順慶が選んだ城

郡山の地には、もともと郡山衆と呼ばれる在地の武士がいました。戦国期の城主・郡山辰巳ははじめ筒井順慶に従い、松永久秀が大和で力を伸ばすとそちらへ移っています。順慶が織田信長の後押しを得てこの城を攻め取り、郡山辰巳を討ったのが天正八年のことです。

順慶の本拠はそれまで筒井城でした。平地に構えた城で拡張を続けていたが、立地の条件から本拠には向かないと判断し、郡山へ移して城下町を整えていきます。このとき信長は大和に一国破城の命を出し、大和の城は郡山城だけが残されました。久秀が築いた多門山城も、このときにはすでに役目を終えています。

順慶は天正十二年に世を去り、養子の定次が跡を継ぎました。そして翌年、定次は伊賀上野へ移されます。入れ替わりに郡山へ入ったのが秀長でした。

五年で、城の骨格ができた

秀長が大和・紀伊・和泉の三か国を与えられたのは、四国攻めが片づいた年です。同じ年に兄は関白になっており、その経緯と合わせて見ると、豊臣の体制がかたちを持ちはじめた時期にあたります。

秀長は入城するとすぐ城を広げにかかりました。堀をめぐらせ、石垣を積み、城下を整えます。なぜ大和だったのかという問いは別の記事にまとめたが、城の側から見ると、彼がやったのは「寺社が持っていた国に、武家の拠点をひとつ打ち立てる」ことでした。いま郡山城跡を歩いて目に入る堀と石垣の骨格は、この五年ほどの間に決まっています。

郡山城跡の野面積みの石垣と石段

郡山城跡の石垣と石段。大小の石を不揃いのまま積む野面積みで、形のそろわない石材をかき集めて積み上げた様子がわかる

石垣に、地蔵が逆さに積まれている

郡山城の石垣でよく知られているのが転用石です。寺社の石塔、五輪塔、礎石、そして石仏までが石材として積まれています。なかでも天守台の石垣には、地蔵が頭を下にした向きで積まれた箇所があり、逆さ地蔵と呼ばれて今も見ることができます。

郡山城天守台の石垣に積まれた「さかさ地蔵」の案内板

天守台の北面石垣に積まれた「さかさ地蔵」と案内板(撮影:佐藤秀信)

転用石そのものは珍しくありません。急いで城を築くときに近くの石造物を使う例は各地にあります。ただ大和の場合、事情がもう一段あります。この国には城の石垣に向く大きな石材が乏しく、まとまった量を集めようとすれば、石造物を持っている場所—つまり寺社から出してもらうほかありませんでした。

そして寺社にとって、石を出すことは土地と権威を差し出すことに近いものでした。大和は興福寺や春日社が広い土地を持ち、年貢を取り、僧兵を抱えていた国です。秀長の仕事は、その仕組みを武家の側へ移し替えていくことでした。検地がその表の手続きだとすれば、石垣に積まれた地蔵は、同じことの裏側に残った跡です。検地と刀狩が何を変えたのかは別の記事にまとめています。

天守はあったのか ─ 天守台の調査でわかったこと

郡山城に天守が建っていたかどうかは長く決め手を欠いていました。絵図や記録に書かれた姿もまちまちで、そもそも天守台だけで終わったという見方もありました。

近年の石垣解体調査で、天守台の上から礎石の並びが見つかっています。建物が載っていたことを示す痕跡で、天守にあたる建物が実際にあった可能性が高くなりました。ただし何階建てでどんな外観だったかは、現状では絵図と発掘の両方から推し量るほかありません。天守台は展望施設として整えられ、上に立つと奈良盆地と若草山まで見渡せます。

展望施設として整備された郡山城の天守台

展望施設として整えられた天守台(撮影:佐藤秀信)

城の建物そのものは一棟も残っていません。いま堀端に建つ追手門と櫓は、いずれも近代以降に復元されたものです。

堀越しに見る郡山城の追手向櫓と追手門

堀越しに見る追手向櫓と追手門(撮影:佐藤秀信)

郡山城跡の堀に映る石垣と紅葉

郡山城跡の堀。水際から立ち上がる石垣が水面に映ります。この堀と石垣のめぐらせ方が、秀長の五年でほぼ決まった

秀長のあと、城主が替わり続けた

秀長は天正十九年に没します。その年に何が起きたかはこちらの記事にまとめたが、豊臣家にとって重い一年でした。跡を継いだ養子の秀保も数年で急死し、郡山には増田長盛が二十二万三千石で入ります。

関ヶ原で豊臣方についた長盛は高野山へ追われ、城は筒井一族の定慶・順斎の兄弟に一万二千石で与えられました。ところが大坂の陣で大坂方が攻め寄せたとき、大軍だという知らせを真に受けた筒井勢は城を出てしまい、定慶は興福寺へ落ち延びています。大和で最も長く続いた家が、こうして郡山から消えました。

そのあとも水野家、松平家、本多家と城主が入れ替わります。百万石の城が、そのたびに身の丈を変えながら使われ続けました。

郡山城跡に復元された櫓と多門、堀端の眺め

堀端から見た郡山城跡の復元建物。横に長く延びる多門と櫓が連なります。建物はいずれも後年の復元で、城主が替わり続けた年月のあとに建てられたものである

百五十年続いた柳沢家と、いまの郡山

享保のなかごろ、甲府から柳沢吉里が郡山へ移ってきます。この柳沢家が幕末まで、およそ百五十年にわたって郡山を治めました。豊臣秀長の五年より、はるかに長い時間です。

郡山の名物である金魚も、この時代に始まったと伝えられます。武士の内職として飼われたものが根づき、やがて町の産業になりました。城跡の桜、城下の町割り、そして金魚—観光で郡山を訪ねたときに目に入るものの多くは、柳沢家の百五十年のほうに属しています。

それでも、この城が百万石の城として広げられたことは、堀の幅と石垣の高さに残っています。秀長という人がどれだけの仕事を任されていたかは、城の大きさのほうが先に教えてくれます。

現地はいま ─ 見どころとアクセス

城跡は公園として整備され、天守台、堀、石垣、復元された追手門と櫓を歩いて回れます。転用石は石垣のあちこちで見つかるが、逆さ地蔵は天守台の北側にあり、覗きこむ位置にあるので見落としやすいので注意してください。春は堀の周囲が桜で埋まります。

郡山城跡の朱塗りの極楽橋と石垣

郡山城跡の極楽橋(撮影:佐藤秀信)

郡山城跡へは近鉄橿原線の近鉄郡山駅から歩いて十分ほど。JR大和路線の郡山駅からでも歩ける距離です。奈良市内からも近いので、豊臣兄弟ゆかりの城めぐりの一日に組みこみやすい場所です。

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〒639-1011 奈良県大和郡山市城内町2

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よくある疑問

Q. 逆さ地蔵はどこで見られますか。
天守台の北側の石垣に積まれています。覗きこむ位置にあるため、天守台を一周しないと気づかないことがあります。転用石そのものは石垣のあちこちにあり、五輪塔や礎石も探せます。

Q. 天守はあったのですか。
近年の石垣解体調査で天守台の上から礎石の並びが見つかり、建物が載っていたことが確かめられました。ただし外観までは分かっていません。

Q. 秀長は何年くらいここにいたのですか。
五年ほどです。入城から没するまでがその期間で、四国攻めの総大将をつとめ、九州へも出ています。大和にずっと腰を据えていたわけではありません。

Q. 筒井城と郡山城は別の城ですか。
別の城です。どちらも大和郡山市内にありますが、筒井順慶は筒井城から郡山城へ本拠を移しました。

郡山城の石垣には、松永久秀の多聞山城から筒井城を経て運ばれた石も含まれるとみられます。久秀と寺の石の話は松永久秀は仏罰を恐れなかったのかで書いています。

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まとめ

大和郡山城は、寺社が土地を持っていた国のまんなかに、武家の拠点として据え直された城です。石が足りずに寺の石塔や地蔵まで積み上げたという話は、乱暴さの逸話であると同時に、国のしくみが移り替わるときの手ざわりでもあります。秀長の五年で骨格ができ、そのあと百五十年をかけて柳沢家が城下を整えました。いま歩ける郡山城跡には、その二つの時間が重なって残っています。

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