磐覚(ばんかく)は今後も出てくるのか:坂口涼太郎が演じる一乗院の坊官と、興福寺のその後

興福寺一乗院の坊官・盤覚(イメージ)

磐覚(ばんかく)は、NHKが発表しているかぎり第三十七回と第三十八回の人物です。第三十九回以降の登場は、いまのところ発表されていません。しかも磐覚は史料に名の見えない人物なので、「史実ではこのあとこうなった」とたどることもできません。ただし、彼が属した一乗院と、坊官という立場がその後どうなったのかは、はっきり追えます。しかも一乗院の建物は、いまも奈良に残っています。

目次

発表されているのは、第三十八回まで

磐覚を演じるのは坂口涼太郎さん。NHKの発表では、興福寺一乗院の坊官という役どころで、第三十七回「秀長の国」と第三十八回「和を以て、大和をなす」に登場する人物として紹介されました。同じ発表で名前が出たのが、庄屋の石川清兵衛(伊藤健太郎さん)、筆屋の才蔵(間宮祥太朗さん)、絵師の狩野永徳(片岡鶴太郎さん)です。

つまり「大和郡山編の四人」としてまとめて発表されたのであって、磐覚だけが二回で終わりと決まったわけではありません。第三十九回以降について、NHKは今のところ何も言っていない、というのが正確なところです。磐覚の地位はどれくらいだったのかも、あわせてどうぞ。

興福寺の中金堂。朱塗りの柱と金色の鴟尾

興福寺の中金堂。磐覚が仕えた一乗院は、この境内の一角にありました

磐覚という僧は、史料にはいない

ここが、この先を考えるときのいちばん大事な点です。

磐覚という名の僧は、史料で確認できません。興福寺の記録にも、『多聞院日記』にも出てきません。ドラマのために作られた人物とみるのが自然です。磐覚(ばんかく/盤覚)とはでも同じ結論を書きました。

実在しないということは、「史実では天正十六年に亡くなった」というような答えが存在しないということです。だから彼の行方は、史実からは決められません。決められるのは脚本だけです。

なお表記は、NHKの発表では「盤覚」と書かれる場合もあります。当サイトでは「磐覚」で統一していますが、検索するときはどちらでも同じ人物です。

同じ発表で出た三人は、どうなったか

手がかりになるのは、一緒に発表された三人です。石川清兵衛のその後と才蔵とはでも触れましたが、彼らも磐覚と同じく、第三十七回・第三十八回の人物として紹介されました。

大河ドラマでは、こうした「その土地の人びと」が一度退場したあとに、回想や後日談の形で戻ってくることがあります。前半で退場した蜂須賀正勝が、その後も回想として出ると語られているのが好例です。ただしこれは前例の話であって、磐覚がそうなるという情報ではありません。

一乗院とは、どういう寺だったのか

磐覚が仕える一乗院は、興福寺のなかの門跡寺院です。天禄元年(970)、興福寺の別当だった定昭が建てました。法華一乗の教えに傾倒していたことから、この名がついたと伝わります。

興福寺にはもうひとつ、大乗院という門跡がありました。寛治元年(1087)に隆禅が一乗院の東に建てたものです。この二つが交互に興福寺の別当を出し、ときに主導権を争いました。南北朝のときには、一乗院が宮方、大乗院が武家方に分かれて戦っています。

入るのは摂関家の子弟で、一乗院はおもに近衛家、大乗院は九条流が本所でした。江戸時代になると一乗院には皇族が入り、「南都一乗院宮」と呼ばれます。還俗する前の足利義昭が一乗院の門主だったことでも知られます。

そういう院の事務方が坊官です。坊官とは、どういう立場だったのかに詳しく書きました。

秀長は、興福寺の寺領をどこまで削ったのか

天正十三年(1585)閏八月、大和に入った秀長は、寺社に指出(さしだし)を命じます。自己申告で所領を書き出させる方式です。

ここで興福寺が出した数字が、信長の時代の申告より増えていました。一万八千二百九石が二万五千六百九十三石に、大乗院は九百十九石が千七百四十七石に。秀長側はこれを過少申告の逆、つまり実態とのずれとみて、大きく削ります。

ただし削減後の数字は、資料によってかなり揺れます。一万五千石に定めて七千二百石を没収したとするもの、まず一万石を落とし翌年さらに七千二百五十石の差を没収して入国前の五分の一になったとするもの、二万六千石から一万千二百五石へ、のちに一万五千石で確定としたもの。どれも『多聞院日記』を下敷きにしていますが、途中経過の読み方が違います。

当サイトでは秀長は寺社の国・大和をどう治めたのかで「五分の一」の線を採りましたが、確定した一本の数字があるわけではない、というのが正直なところです。

「秀長は死の床で寺領を返すと決めた」は本当か

▽ よく語られる話
秀長は寺社から取り上げた所領を気にしており、死の床でそれを返すと決めた。寺と和解して息を引き取った。
▼ 史実ではこうです
この話の典拠が確認できません。『多聞院日記』にあるとされますが、同書から引かれるのは、秀長の死を記した英俊の一文「米銭金銀充満、盛者必衰ノ金口無疑、国之様如何可成行哉、心細事也」のほうです。寺の側が書き残したのは、郡山城に積まれた金銀の量への驚きと、これから国はどうなるのかという不安でした。返還を決めたという記述には行き当たりませんでした。

ここは「そう語られることがあるが、裏づけは取れない」と書くのが正確です。多聞院日記とはで、この日記がどういう性格の記録なのかを説明しています。

文禄四年、二万一千余石で落ち着いた

では、寺領はどこで落ち着いたのか。

興福寺の公式の説明によれば、文禄四年(1595)の検地で、春日社と興福寺あわせて二万一千余石と定められました。そしてこの知行は徳川の世になっても維持されます。寺はここで面目を保った、という書き方をしています。

注意したいのは、これが春日社と興福寺を合わせた数字だということです。藤原氏の氏神である春日社と、氏寺である興福寺は、もともと切り離せない関係にありました。興福寺の別当とはで書いたとおり、大和を動かしていたのはこの一体の仕組みです。

院ごとの朱印地としては、一乗院が千四百九十二石、大乗院が九百五十余石と伝わります。

郡山の主は、増田長盛に代わる

秀長が亡くなったのは天正十九年(1591)正月二十二日。跡を継いだ養子の秀保も、文禄四年四月十六日に十七歳で急死します。大和豊臣家はここで絶えました。

同じ年の六月、郡山に入ったのが増田長盛です。二十万石。五奉行の一人で、検地を担ってきた実務型の武将でした。郡山に入ると検地を行い、外堀の普請を完成させたと伝わります。

つまり、磐覚たちが向き合った相手は、秀長のあと十年もしないうちに入れ替わっています。箱本十三町のような秀長の仕組みは残りましたが、それを運用する人は代わりました。

坊官たちは、最後にどうなったのか

一乗院も大乗院も、江戸時代を通じて続きます。終わりが来るのは明治でした。

神仏分離です。興福寺の説明によれば、一乗院・大乗院をはじめ院家が次々と復飾(還俗)して春日大社の社司となり、ほかの諸坊も新しい神職として春日社に勤めることになりました。奈良県立図書情報館の資料は、慶応四年(1868)三月末から四月にかけて「両門跡以下、院家・学侶から仕丁にいたるまで」が復飾願を出したと書いています。仕丁にいたるまで、です。坊官もこの流れの中にいたとみてよいでしょう。

明治三年から四年にかけての布告で、境内地以外はすべて取り上げられます。明治五年には仏具の処分が進み、県は一山すべてを廃寺にせよという指令まで受け取りました。興福寺が寺号を取り戻すのは明治十四年です。

一乗院の最後の門主・応昭は還俗して水谷川の家名を賜り、春日大社の宮司になったと伝わります。坊官という職は、ここで消えました。春日大社が、いまも奈良の一等地に広い森を持っているのは、この歴史の延長線上です。

なお、五重塔が売りに出されたという有名な話は、興福寺自身が「伝承の域を出ない」と否定しています。

一乗院の建物は、いまも奈良にある

ここが、この記事でいちばんお伝えしたいことです。

一乗院の宸殿は、取り壊されませんでした。明治のあと奈良県庁として使われ、次に奈良地方裁判所の庁舎になり、昭和三十九年に唐招提寺へ移築されて「御影堂」になりました。国の重要文化財です。鑑真和上坐像を安置しています。

そして一乗院があった場所には、いま奈良地方裁判所が建っています。裁判所の公式サイトが、自分のところの由来としてこのことを説明しています。奈良文化財研究所の発掘では、一乗院特有の牡丹文の軒丸瓦も出ました。

磐覚は作られた人物です。けれど彼が仕えたとされる院の建物は、場所を変えて今も立っています。大和郡山城の石垣に寺の石が積まれているのと同じで、奈良には、そういう「移された痕跡」がたくさん残っています。

ゆかりの地をたどる

▶ 磐覚と一乗院をめぐる場所
  • 一乗院跡 ── 奈良市登大路町。いまは奈良地方裁判所。遺構そのものは見られないが、公式サイトが由来を説明している
  • 唐招提寺 御影堂 ── 奈良市五条町。旧一乗院宸殿を移築した重要文化財。鑑真和上坐像は通常非公開で、開山忌前後の特別開扉のみ。訪ねる前に公開時期の確認を
  • 興福寺 ── 奈良市登大路町。中金堂と東金堂は拝観できる。五重塔は保存修理中、北円堂と三重塔は通常非公開
  • 名勝 旧大乗院庭園・大乗院庭園文化館 ── 奈良市高畑町。室町の作庭家・善阿弥が整えた庭が現存する
  • 春日大社 ── 奈良市春日野町。興福寺と一体で大和を動かした、もう一方の軸
  • 大和郡山城跡 ── 大和郡山市。寺の石が石垣に積まれている。逆さ地蔵が有名

一乗院跡から興福寺の境内までは歩いてすぐです。裁判所の前に立って、ここに門跡の御殿があったと思いながら登大路を歩くと、奈良の見え方が少し変わります。

▷ 大河ドラマではこう描かれています
磐覚を演じるのは坂口涼太郎さん。NHKの発表では興福寺一乗院の坊官という役どころで、第三十七回・第三十八回の登場人物として、石川清兵衛(伊藤健太郎さん)・才蔵(間宮祥太朗さん)・狩野永徳(片岡鶴太郎さん)とともに紹介されました。第三十九回以降については、現時点で発表はありません。

まとめ

磐覚がこの先も出てくるかどうかは、史実からは答えが出ません。実在しない人物だからです。NHKが発表しているのは第三十八回までで、それ以上のことは分かりません。

ただ、彼が背負っている立場のほうは、最後まで追えます。一乗院は江戸時代を通じて親王が入る門跡として続き、明治の神仏分離で門主も坊官も還俗して春日社の神職になりました。寺領は文禄四年に春日社と合わせて二万一千余石と定まり、徳川の世でも維持されました。そして院の建物は、県庁になり、裁判所になり、いまは唐招提寺の御影堂として立っています。

磐覚(ばんかく/盤覚)とは、坊官とは、磐覚の地位はどれくらい?もあわせてどうぞ。

※寺領の数字は資料によって幅があります。本記事では出典ごとの違いをそのまま示しました。「死の床で寺領の返還を決めた」とする話は、典拠を確認できなかったため、確定した事実としては扱っていません。

同じ大和郡山編に出る片岡鶴太郎さんの役歴は、片岡鶴太郎が演じた歴史上の人物にまとめています。

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