【城名】
石川城(三芦城)
【石川城(三芦城)の説明】
石川城(三芦城)は福島県石川郡石川町にあった城です。
平安時代後期に「石川有光」が白川郡に藤田城を築いたのが始まりとされ、その後水利を活かせるこの地に館を築いたのが石川城(三芦城)始まりと伝えられています。

石川氏は戦国時代に入ると街道七家の一つとして栄え、隣国との抗争を繰り返していました。しかし、徐々に領土を削られ、「伊達晴宗」の4男を養子に迎え入れ伊達家の後ろ盾を得ることに成功します。
豊臣秀吉が関東の北条攻めを開始すると、当時の当主「石川昭光」はこの戦に参陣しなかったことにより石川氏は改易にされてしまう。この時、石川城も廃城とされました。

昭光は伊達政宗の叔父にあたることから改易後は伊達家重臣として迎え入れられました。そして、伊達領から伊具郡「角田城」2万1千石を与えられ、伊達家の一門筆頭ととして江戸時代を過ごすことになります。


五百年続いた陸奥石川氏の本拠
石川城は、三つの川が集まる高台に築かれた城で、別名を三芦城(みよしじょう)といいます。平安時代の末に石川有光がこの地に入って以来、五百年近くにわたって石川氏の本拠でした。阿武隈川の支流が三方を巡り、水が天然の堀の役目を果たしています。城の造りは石垣を持たない中世の山城で、曲輪と空堀の跡が残ります。堀や曲輪の見方は城の基本用語にまとめました。
伊達から来た養子が、最後の当主になった
戦国末期の石川氏は、南の佐竹氏と北の伊達氏に挟まれていました。当主の石川晴光に子がなく、伊達晴宗の四男を養子に迎えます。これが石川昭光で、伊達政宗にとっては叔父にあたる人です。ところが政宗が当主になると、昭光は当初これと敵対しました。血のつながりより、家をどう残すかが先に立つ時代でした。
天正十七年(一五八九)の摺上原の戦いで伊達方が芦名氏を破ると、昭光は伊達に従います。会津の争いのその後は会津若松城でも書いています。
小田原に行かなかった、その一事で
天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉が小田原へ大軍を動かしたとき、昭光は参陣しませんでした。そのため奥州仕置で所領を取り上げられ、石川氏は大名の座を失います。五百年の歴史が、参陣したかどうかという一点で終わったことになります。小田原征伐で何が問われたのかは、この仕置とあわせて読むと分かりやすいでしょう。
昭光はその後、甥の政宗のもとで家臣となり、やがて角田城を与えられて一万石を領しました。石川の家は伊達家中の一門として続き、角田に廟所が残っています。政宗が生まれた城は米沢城です。
現地はいま
城跡は石川町の中心にあり、本丸跡には石都々古和気神社(いわつつこわけじんじゃ)が建っています。参道の石段を上ると、曲輪や堀切の跡をたどれます。山そのものが巨石の多い場所で、奇岩のあいだを抜ける道は、城というより磐座(いわくら)を歩いている感覚になります。
【石川城(三芦城)・場所・アクセス】
〒963-7858 福島県石川郡石川町字下泉
【石川城(三芦城)地図】

