家康は刀狩りに従わなかったのか|『豊臣兄弟!』第43回「刀狩りに従うつもりなどない」と史実 ─ 刀狩令はだれに出されたのか

富士山を望む秋の農村で、脇差しを差したまま稲刈りをする百姓たち
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』第43回の予告で、家康は「刀狩りに従うつもりなどない」と言い放ちます
  • 史実では、天正16年(1588)7月8日の刀狩令が、家康あてに出された記録は見当たりません。近年の研究では、家康や前田利家のような上位の大名には、そもそも刀狩令が交付されなかったとみられています
  • 刀狩令が確かに届いたのは、小早川隆景・島津・大友・立花・加藤清正など、西国の大名が中心でした
  • 徳川領(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)で刀狩が行われた記録もはっきりしません。家康は「従わなかった」というより、「求められていなかった」可能性が高いのです

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第43回「殿下の刀狩り」の予告では、家康が気だるげな表情で「刀狩りに従うつもりなどない」と反発する場面が映りました。広間には前田利家や毛利輝元ら諸大名が集められ、秀長が「皆様方が、殿下に不満を抱いていると」と問いかけます。では史実の家康は、秀吉の刀狩令に従ったのでしょうか、逆らったのでしょうか。この記事では、刀狩令がだれに出され、徳川領でどうなったのかを、近年の研究をもとに整理します。

庄屋の家の前に差し出された刀や鑓を役人が帳面につけるイメージ
庄屋の家の前に差し出された刀や鑓を役人が帳面につけるイメージ(イラスト)
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刀狩令とはどんな命令だったのか

刀狩令は、天正16年7月8日に秀吉が出した三か条の命令です。佐々成政が肥後の一揆を抑えられずに切腹させられた、その2か月後のことでした。

  1. 諸国の百姓が、刀・脇差・弓・槍・鉄砲などの武具を持つことをかたく禁じる。年貢を納めず一揆をくわだてる者は処罰する
  2. 取りあげた刀や脇差はむだにせず、京で建てている大仏の釘やかすがいにする。そうすれば百姓はこの世だけでなく、あの世まで救われる
  3. 百姓は農具だけを持って田畑を耕していれば、子孫まで長く栄える

同じ日には、海の武士たちの活動を禁じる海賊停止令も出されています(海賊停止令とは)。刀狩令の中身と目的は太閤検地と刀狩とはでもくわしく紹介しています。

刀狩令はだれに出されたのか

刀狩令は「全国に出された」と説明されることが多いのですが、実際に秀吉の朱印状が届いたことが確かめられる大名は限られています。國學院大學の研究(『國學院雑誌』)によると、刀狩令を受けとったことが確実なのは、次のような大名や寺でした。

刀狩令を受けとった 小早川隆景、島津家、大友家、立花家、加藤清正、加藤嘉明、高野山の興山寺 など
交付されていないとみられる 徳川家康、前田利家 など
別の形で命じられた 龍造寺政家(9月18日付で刀狩を命じる別の朱印状)

受けとった顔ぶれを見ると、九州や西国の大名が中心です。この研究では、刀狩令は日本中の百姓を一度に武装解除する法令というより、豊臣政権のなかの序列を示す儀礼的な意味あいの強いものだったとし、家康のように「清華成(せいがなり)」と呼ばれる高い家格を与えられた大名は、交付の対象から外れていたとみています。

徳川領で刀狩は行われたのか

家康はこのころ、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5か国を治める大大名でした。その徳川領で、秀吉の刀狩令にもとづく刀狩が行われたという記録は、はっきりしません。先の研究も、徳川領を刀狩が行われなかった地域にあげています。

家康は天正17年(1589)から翌年にかけて、自分の領国で独自の検地(五か国総検地)を進めました。徳川領は、豊臣政権の大名でありながら、自分のやり方で領国を治めることを許された、半ば独立した領域だったのです。

秀吉からの書状を前に考えこむ家康のイメージ
秀吉からの書状を前に考えこむ家康のイメージ(イラスト)

「従うつもりなどない」は本当か

こうしてみると、史実の家康は刀狩令に「逆らった」というより、そもそも刀狩令を「求められていなかった」可能性が高いことになります。ドラマの家康のせりふは、秀吉の政策に不満を持つ大名たちの気持ちを、家康の口を借りて描いたものとみられます。

一方で、家康が秀吉の命令をすべて喜んで受け入れていたわけでもありません。天正14年に上洛して臣従したあとも、家康は北条氏との縁組や同盟を保ち、東国の取りまとめ役として独自の立場を守りつづけました。2年後の小田原攻めのあと、家康は関東へ移されます。秀吉にとって家康は、いちばん頼りになり、いちばん気を抜けない大名でした(家康の野望とは)。

刀狩で百姓の武器はなくなったのか

刀狩令が出たあとも、百姓の武器がすべて消えたわけではありません。歴史学者の藤木久志さんは、刀狩は百姓を丸腰にするものではなく、刀を差すことを武士の身分のしるしとし、百姓が武器を使って争うことを封じるためのものだったと説いています。実際、江戸時代の村々にはたくさんの鉄砲が残り、獣を追い払う道具として使われていました。

刀狩りが一揆を防いだのか、かえって反発を招いたのかについては刀狩りはかえって一揆を招いたのかで、3年後に出された身分統制令については身分統制令とはで紹介しています。

よくある質問

Q. 家康は刀狩りに反対したのですか?
A. 反対したという記録は見当たりません。家康には刀狩令が交付されなかったとみる研究があり、徳川領で刀狩が行われた記録もはっきりしません。

Q. 刀狩令はいつ出されましたか?
A. 天正16年(1588)7月8日です。

Q. 刀狩令はどの大名に出されましたか?
A. 確実なのは小早川隆景・島津・大友・立花・加藤清正・加藤嘉明など、西国の大名が中心です。

Q. 刀狩で集めた刀はどうなりましたか?
A. 刀狩令では、京の大仏(方広寺)の釘やかすがいにするとされました。

家康が大仏のために献上したという富士の巨木については家康が大仏に献上したのは本当に1本のヒノキだったのかで紹介しています。

まとめ

『豊臣兄弟!』第43回の予告で家康が言う「刀狩りに従うつもりなどない」は、ドラマのせりふです。史実の刀狩令は西国の大名を中心に交付され、家康のような上位の大名には出されなかったとみる研究があります。徳川領で刀狩が行われた記録もはっきりせず、家康は刀狩令に「従わなかった」というより「求められていなかった」とみるほうが実態に近そうです。それでも、秀吉の天下のなかで独自の立場を守りつづけた家康の姿は、ドラマのせりふと重なるところがあります。

参考:「天正十六年七月八日付秀吉朱印状二種の公布状況 ─「刀狩令」「海賊停止令」の作成過程とその目的」(『國學院雑誌』122巻11号)/Wikipedia「刀狩」

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