岩本照が演じる佐助は褒美で動く? 戦国の忍びはどう雇われ、何をもらったのか|『真田十勇士』第2話 ─ 透波・乱波の身分、伊賀・甲賀の地侍、江戸の伊賀者の禄

武将が庭先にひざまずく忍びに褒美を下げ渡すようす(イラスト)
この記事のポイント
  • 戦国時代の忍びは、「透波」「乱波」「草」などと呼ばれ、大名に雇われて敵地の偵察や夜討ち、放火、城の乗っ取りなどを請け負いました。身分は低く、足軽と同じかそれ以下の扱いでした
  • 伊賀や甲賀の地侍たちは、ふだんは自分たちの土地を守りながら、近くの大名に頼まれて戦に加わることがありました。応仁の乱のあとの戦乱の中で、夜討ちや城への忍び入りを得意とする集団として知られるようになります
  • 報酬の額を書き残した史料はほとんどありませんが、手柄を立てた者には知行や褒美が与えられました。真田家に仕えた出浦盛清は、信濃の武石村で三十貫文の知行を受けています
  • 江戸時代になると、伊賀者・甲賀者は幕府の下級の役人になり、大奥の警備役の御広敷伊賀者は「三十俵二人扶持」という決まった禄で勤めました

10月30日に放送されるドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』第2話では、九度山を出る決意をした幸村(安藤政信さん)から脱出の手助けを頼まれた猿飛佐助(岩本照さん)が、敵討ちと褒美を目当てに引き受けます。主君に仕えるのではなく、条件しだいで力を貸すという佐助の姿は、実は戦国時代の忍びの実像に近いところがあります。この記事では、戦国の忍びがどのように雇われ、何をもらって働いていたのかを、伊賀・甲賀の地侍から江戸時代の伊賀者までたどります。

目次

戦国の忍びは「透波」「乱波」と呼ばれた

戦国時代、いまでいう忍者は「忍び」「忍びの者」のほか、地方によって「透波(すっぱ)」「乱波(らっぱ)」「草」「かまり」などとも呼ばれました。武田家では透波、北条家では乱波や風間(風魔)の一党、上杉家では軒猿、伊達家では黒脛巾組の名が伝わっています。

彼らの仕事は、敵地に忍びこんでの偵察や、陣のまわりの夜の見張り、敵の道をふさいで兵糧の運び入れを止めること、敵の城下への放火、そして夜のうちに城へ忍び入って乗っ取ることなど、さまざまでした。いずれも命がけの危うい仕事で、寒い夜に潜んだまま凍え死んだ忍びの話も伝わっています。

ただ、忍びは武士の中で重んじられる存在ではありませんでした。乱波や透波には、山賊や盗人まがいの荒くれ者も多く含まれていたとされ、北条家では、風間の一党が逗留する村に、もめごとが起きたときの対処をあらかじめ知らせていたほどです。忍びはあくまで、大名が必要に応じて雇い入れる下働きの者たちで、身分は足軽と同じか、それより低いものでした。

伊賀・甲賀の地侍は「雇われる」集団だった

忍びの里として名高い伊賀と近江の甲賀は、どちらも大名の力が及びにくい山あいの土地で、地侍たちが寄り合って自分たちの土地を治めていました。伊賀では地侍たちが「惣国一揆」という連合をつくり、外から攻めてくる者には力を合わせて立ち向かうと掟で取り決めていたことが知られています。

こうした地侍たちは、近くの大名に頼まれて戦に加わることもありました。長享元年(1487)、室町幕府の将軍足利義尚が近江の六角高頼を攻めた鈎の陣では、六角方についた甲賀の地侍たちが山中でのゲリラ戦や夜襲で幕府軍を悩ませたといわれ、これが「甲賀忍者」の名を高めるきっかけになったとされます。また、奈良の興福寺の僧が書いた『多聞院日記』には、天文10年(1541)に伊賀衆が笠置城に忍び入って放火したことが記されています(猿飛佐助と霧隠才蔵の得意技は?)。

伊賀の山道で家康の一行を松明を手に道案内する伊賀・甲賀の地侍たち(イラスト)
天正10年(1582)の伊賀越え。この道中を助けた伊賀・甲賀の者たちが、のちに徳川家に召し抱えられたと伝わる(イメージ)

忍びは何をもらって働いたのか

戦国時代の忍びが、一度の仕事でいくらもらったのかを書き残した史料は、ほとんどありません。忍びの働きはもともと表に出ないもので、記録に残りにくかったからです。それでも、いくつかの手がかりから、その報酬のあり方をうかがうことができます。

報酬のかたち どんなものか
扶持・給金 大名に抱えられた忍びは、足軽などと同じように米や銭で暮らしを支えられた。決まった土地を持たない者が多かった
手柄への褒美 城の乗っ取りや敵の重要な知らせをもたらしたときなど、大きな手柄には金銀や知行が与えられた
知行(領地) 忍びを率いる頭の中には、知行を与えられて武士として取り立てられた者もいた
召し抱え 働きが認められれば、一族ごと大名の家臣として抱えられることもあった

たとえば、武田家の透波を率いたと伝わる出浦盛清は、武田家が滅んだのち真田昌幸に仕え、信濃の武石村で三十貫文の知行を受けて、吾妻の奉行を務めました(真田家の忍びは実在したのか)。また、天正10年(1582)の本能寺の変のあと、堺にいた徳川家康が伊賀・甲賀の山道を越えて三河へ逃げ帰った「伊賀越え」では、道中を助けた伊賀・甲賀の者たちが、のちに徳川家に召し抱えられたと伝わります。忍びにとっては、大きな手柄を立てて主君に認められることが、身を立てるいちばんの道だったのです(柘植清弘とは/服部半蔵は1614年に生きていたのか)。

▽ よく語られる話
忍者は主君に絶対の忠誠を誓い、命じられればどんな任務でも黙ってこなす影の家臣だった。
▼ 史実ではこうです
戦国時代の忍びの多くは、必要なときに雇われる下働きの者たちでした。伊賀や甲賀の地侍も、自分たちの土地を守りながら、近くの大名に頼まれて戦に加わる立場でした。褒美や召し抱えを目当てに働くのは、むしろふつうのことだったといえます。主君に忠誠を尽くす忍者の姿は、江戸時代に伊賀者が幕府の役人になってから強まっていったものです。

江戸時代の伊賀者は「三十俵二人扶持」

戦国の世が終わると、忍びの働き場所はなくなっていきます。徳川家に抱えられた伊賀者や甲賀者は、江戸幕府の下級の役人として、江戸城の門の警備や大奥の警備、空き屋敷の番などを務めるようになりました。伊賀者が住んだ江戸城の門のあたりは、服部半蔵の名をとって半蔵門と呼ばれるようになったといわれます。

江戸時代の伊賀者の待遇は、決して高いものではありませんでした。大奥の警備役の御広敷伊賀者は「三十俵二人扶持」で、石高にするとおよそ十五石ほど。将軍にお目見えできない御家人の身分でした。かつて城を乗っ取り、夜討ちで敵を悩ませた忍びの子孫たちは、決まった禄で勤める役人として、泰平の世を生きていったのです。

ドラマ『真田十勇士』第2話と佐助の「褒美」

ドラマの佐助は、師の白雲斎(唐沢寿明さん)を殺された敵討ちと、褒美を目当てに、幸村の九度山脱出を手伝うことになります。第1話で「誰も信じない」「人に頭を下げたくない」と言い放った佐助が、主従ではなく条件つきの取り引きで手を貸すのは、戦国の忍びの雇われ方にも通じるところがあります。幸村がどんな褒美を約束し、佐助がそれをどう受け止めるのかにも注目したいところです(猿飛佐助とは/真田十勇士は誰に仕えたのか)。

九度山の幸村は、徳川方の監視のもとで暮らしに事欠く身の上でした。大坂城に入ってからは豊臣家から支度金を受け取りますが、九度山を出る前の幸村が、忍びたちにどれほどの褒美を約束できたのかは気になるところです(大坂城の浪人はどう雇われたのか/『真田十勇士』キャスト・相関図一覧)。

よくある疑問

Q. 戦国時代の忍者はどうやって雇われたのですか?
A. 大名が必要に応じて雇い入れる下働きの者が多く、伊賀や甲賀の地侍のように、近くの大名に頼まれて戦に加わる集団もありました。

Q. 忍者の報酬はいくらでしたか?
A. 一度の仕事の報酬を書いた史料はほとんどありません。手柄には金銀や知行が与えられ、真田家に仕えた出浦盛清は三十貫文の知行を受けています。江戸時代の御広敷伊賀者は「三十俵二人扶持」でした。

Q. 忍者の身分は高かったのですか?
A. 戦国時代の忍びは足軽と同じかそれ以下の扱いで、江戸時代の伊賀者も将軍にお目見えできない御家人の身分でした。

Q. 透波・乱波とは何ですか?
A. 戦国時代の忍びの呼び名で、武田家では透波、北条家では乱波などと呼ばれました。

まとめ

戦国時代の忍びは、透波や乱波と呼ばれ、大名に雇われて偵察や夜討ち、放火、城の乗っ取りといった危うい仕事を請け負いました。身分は低く、報酬の額もほとんど記録に残っていませんが、手柄を立てた者には褒美や知行が与えられ、召し抱えられて武士になる道もありました。敵討ちと褒美を目当てに幸村に力を貸すドラマの佐助は、そうした「雇われる忍び」の姿を映しているといえるでしょう。

よくある疑問

Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。

Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。

Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。

Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。

Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。

まとめ

真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。

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