真田幸村(信繁)はどうやって九度山を抜け出したのか|村人を酔わせた宴の伝承と浅野家の監視 ─ 慶長19年、安藤政信が演じる幸村が大坂城へ|ドラマ『真田十勇士』第2話

高台から、陣に囲まれた大坂城を見つめる二人の若武者(イメージイラスト)
この記事のポイント
  • 関ヶ原のあと紀伊の九度山に流されていた真田信繁(幸村)は、慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて九度山を抜け出し、大坂城に入りました。抜け出したのは10月9日ごろとされます
  • 九度山の真田家は、紀伊を治める浅野家の監視下にありました。浅野家は、信繁が大坂へ向かうおそれがあるとして、周辺の村々に見張るよう命じていたと伝わります
  • どうやって抜け出したのかについては、父・昌幸の法要を名目に周辺の村の庄屋や百姓を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の書物の逸話で、史実かどうかはわかりません
  • 九度山を発った一行には、九度山周辺の地侍や高野山ゆかりの人びとも加わり、数百人ほどになって大坂城に入ったとする見方もあります。ドラマ『真田十勇士』第2話では、この九度山脱出が描かれる見込みです

ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第1話は、真田幸村(安藤政信さん)が「ついに来た。ここを出て、家康を討とう」と決意したところで幕を閉じました。次回は、九度山からの脱出が描かれそうです。では、史実の真田信繁(幸村)は、監視の目が光る九度山をどうやって抜け出し、大坂城へたどり着いたのでしょうか。この記事では、慶長19年(1614)の九度山脱出を、伝わる話と史実に分けてたどります。大坂城で幸村が築いた出城については真田丸とはで紹介しています。

目次

九度山を抜け出すまでの流れ

時期 できごと
慶長19年(1614)夏 方広寺の鐘銘をめぐって、豊臣家と徳川家の対立が決定的になる
同年秋 豊臣秀頼の使者が九度山を訪れ、信繁に大坂城へ入るよう誘う。支度金として黄金二百枚・銀三十貫が贈られたと伝わる
同年10月9日ごろ 信繁が家族や家臣とともに九度山を抜け出したとされる
同年10月10日ごろ 九度山周辺の地侍や高野山ゆかりの人びとと合流し、大坂城に入ったとされる
同年11月〜12月 大坂冬の陣。信繁は出城「真田丸」を築いて徳川方を退ける

関ヶ原の戦いのあと、信繁は父の昌幸とともに九度山に流され、昌幸が亡くなったあとも、家族とわずかな家臣とともにこの地で暮らしていました(真田昌幸と幸村はなぜ九度山に流されたのか)。慶長19年(1614)の夏、京都の方広寺の鐘の銘文をめぐって豊臣家と徳川家の対立が決定的になると、豊臣方は全国の浪人に大坂城へ集まるよう呼びかけ、九度山の信繁のもとにも秀頼の使者がやって来ました。

九度山の位置図。高野山の北のふもと、紀の川のほとりにあり、大坂城へは紀見峠を越えて北へ向かう
九度山の位置。信繁は紀の川のほとりの九度山から、北の大坂城をめざしました(道筋は概略)

九度山は誰に見張られていたのか

九度山の真田家を見張っていたのは、紀伊国を治めていた浅野家でした。慶長19年当時の当主は浅野長晟で、徳川方の大名として、信繁の動きには目を光らせていたはずです。浅野家は、信繁が大坂城に籠もるおそれがあるとして、九度山に近い橋本のあたりの村々に、信繁一行を通さないよう見張れと触れを出していたと伝わります。高野山からも、九度山に警戒するよう申しつけがあったといいます(九度山とは ─ 幸村が14年を過ごした高野山のふもとの里)。

もっとも、九度山の真田父子は、牢屋に閉じ込められていたわけではありません。屋敷を構えて家族と暮らし、近くの人びととの行き来もありました。浅野家の監視は、ふだんはそれほど厳しいものではなかったとも考えられています。

村人を酔わせて抜け出した? ─ 伝わる話

信繁がどうやって九度山を抜け出したのかについて、よく知られているのが、江戸時代の終わりにまとめられた逸話集『名将言行録』などに見える話です。信繁は、亡き父・昌幸の法要を営むという名目で、高野山から僧を招いて七日間の法要を行うと触れ、周辺の村の庄屋や年寄、百姓たちを屋敷に招いてごちそうをふるまいました。数百人が一日じゅう酒と食事を楽しみ、すっかり酔いつぶれて眠ってしまったあいだに、信繁の一行は九度山を出発した ─ というのです。

一行は上下あわせて百人あまりで、馬に荷を積み、妻子を乗物に乗せ、鉄砲や槍、長刀を携えて堂々と通り過ぎたといいます。見張りを命じられていた百姓たちは止めることができず、浅野家の役人たちも、真田ほどの者を百姓に止めさせようとしたのがそもそも無理だった、として、それ以上は問題にしなかったと伝えられます。

▽ よく語られる話
信繁は、九度山の屋敷から大坂城まで掘った「抜け穴」を通って脱出した。
▼ 史実ではこうです
九度山の真田庵の近くに「真田の抜け穴」と呼ばれる穴がありますが、昭和28年(1953)の調査で、古墳時代の円墳の石室だったことがわかっています。信繁が地下道を通ったわけではなく、伝わる話でも、村人を宴でもてなしたあいだに、陸路で堂々と九度山を出たとされています。宴の話も後世の書物に見える逸話で、どこまで史実かはわかりません。
高野山のふもとの山里で、縁側で子どもに字を教える武士と、紐を編む家人たち(イメージイラスト)
九度山の暮らしのイメージ。信繁は家族とともに、ここから大坂へ向かいました(イラスト)

九度山から大坂城へ

九度山を発った信繁の一行には、九度山周辺の地侍や、高野山とゆかりのある人びとも加わったと伝わります。いくつかの集団が途中で合流し、全体で数百人ほどの一団になって、慶長19年10月10日ごろに大坂城へ入ったとする見方もあります。九度山から大坂へは、紀の川を渡って紀見峠を越え、河内を北上する道が考えられます。

大坂に着いた信繁は、はじめ「伝心月叟」と名乗る山伏の姿で、豊臣家の重臣・大野治長の屋敷を訪ねたという話も伝わっています。名乗らずにいた信繁の刀を若い侍たちが見せてもらうと、見事な名刀で、戻った治長が信繁だと知って大いに喜び、秀頼に知らせた ─ という逸話です。秀頼からは、支度金として黄金二百枚と銀三十貫が贈られたとされます(大坂の陣(冬・夏)をわかりやすく解説)。

高台から、陣に囲まれた大坂城を見つめる二人の若武者(イメージイラスト)
大坂の陣のイメージ。九度山を出た信繁は大坂城に入り、冬の陣で真田丸を築きます(イラスト)

ドラマ第2話の見どころ

ドラマの第1話では、徳川方の監視役・首藤景明(橋本じゅんさん)が九度山の村人を苦しめ、真田家の米を半分に減らすと言い渡していました。十勇士たちは首藤を討とうと密談し、九度山を出ようと幸村に迫りますが、幸村は「どうしてもあと一つ足りない」と動きませんでした。そして佐助(岩本照さん)が九度山に現れ、幸村は「ついに来た。ここを出て、家康を討とう」と決意します(白雲斎とは ─ 唐沢寿明が演じる佐助の師匠)。

史実の脱出は、村人を宴でもてなした隙に、という穏やかな伝承ですが、ドラマでは首藤との対決や、服部半蔵ら徳川の忍びとの戦いを交えた、忍者アクションならではの脱出劇になりそうです。九度山を出るのは容易ではない ─ 第1話の最後の言葉どおり、どんな方法で抜け出すのかが第2話の見どころです。

よくある疑問

Q. 真田幸村はいつ九度山を抜け出したのですか?
A. 慶長19年(1614)10月9日ごろとされます。翌日ごろには大坂城に入ったと考えられています。

Q. どうやって監視の目を逃れたのですか?
A. 父・昌幸の法要を名目に周辺の村人を招いて酒をふるまい、皆が酔いつぶれているあいだに出発した、という話が『名将言行録』などに伝わります。ただし後世の逸話で、史実かどうかはわかりません。

Q. 九度山の真田家を見張っていたのは誰ですか?
A. 紀伊国を治めていた浅野家です。当時の当主は浅野長晟でした。

Q. 真田の抜け穴を通って逃げたのですか?
A. いいえ。「真田の抜け穴」は昭和の調査で古墳の石室だとわかっており、信繁が使った地下道ではありません。

Q. 何人で大坂城に入ったのですか?
A. 九度山を出た一行は百人あまりとも伝わり、途中で地侍や高野山ゆかりの人びとが加わって、全体で数百人ほどになったとする見方もあります。

まとめ

真田信繁は慶長19年(1614)、豊臣秀頼の招きに応じて、浅野家の監視下にあった九度山を抜け出し、大坂城に入りました。村人を宴でもてなした隙に出発したという話は後世の逸話ですが、十四年を過ごした九度山の人びとの中には、信繁について大坂へ向かった者もいたと伝わります。ドラマの幸村たちが、どんな方法で九度山を抜け出すのか、第2話に注目です。

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