小堀家の家系:小堀正次・小堀遠州から小室藩の改易、幕末の再興、遠州流の子孫まで ── 近江の土豪が茶の湯の家になるまで

大和で検地を行う役人と庄屋のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 小堀家は近江国坂田郡小堀村(いまの滋賀県長浜市)の土豪の家で、戦国時代には浅井家に仕えていたと伝わります
  • 『豊臣兄弟!』で萩原護さんが演じる小堀正次は、秀長の検地奉行として働き、関ヶ原のあと備中松山を預かりました
  • 正次の子・小堀遠州(政一)は、作事奉行・伏見奉行として活躍し、茶人・作庭家として「きれいさび」の茶風を築きました
  • 遠州の子孫が治めた近江小室藩は天明8年(1788)に改易されましたが、家は文政11年(1828)に幕臣として再興されます
  • 遠州の茶の湯は遠州流茶道として受け継がれ、いまも小堀家の子孫が家元を務めています

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第37回で、秀長の検地を担う家臣として登場した小堀正次(萩原護)。その子が、茶人・作庭家として名高い小堀遠州です。近江の小さな村の土豪から、秀長の家臣、徳川の大名、そして茶の湯の家へ。この記事では、小堀家が戦国から江戸、幕末、そして現代までどう続いてきたのかをたどります。

目次

先祖 ── 近江の小堀村から

小堀家は、近江国坂田郡の小堀村(いまの滋賀県長浜市)を本拠とした土豪の家で、名字もこの村の名に由来します。北近江は戦国時代、浅井家が治めた土地で、小堀家もその家臣だったと伝わります。小堀正次の父も浅井家に仕えていたとされ、浅井家が滅んで北近江を秀吉が治めるようになると、小堀家は秀吉・秀長兄弟のもとへ仕えることになりました。北近江から秀吉の家臣になった人びとは多く、石田三成も同じ坂田郡の出身です。

戦国 ── 小堀正次、秀長の検地奉行

小堀正次は天文9年(1540)の生まれとされ、秀長と同い年です。秀長に仕えてからは、播磨・但馬・紀伊・大和などで田畑を測る検地奉行を務め、秀長の百万石の土台となる年貢の仕組みを整えました。ドラマの第37回で、検地のために動く正次が賊に襲われる場面が描かれたのは、この実務の役目を踏まえたものです。

秀長が亡くなり、跡を継いだ秀保も若くして亡くなると、正次は秀吉の直臣となり、秀吉の死後は徳川家康に仕えました。関ヶ原の戦いのあと、その功で備中松山城を預かり、慶長9年(1604)に亡くなっています。正次の生涯は 小堀正次とは でくわしく紹介しています。

雲海の上に姿を見せる山上の石垣と天守(イメージイラスト)
雲海に浮かぶ備中松山城のイメージ(イラスト)。関ヶ原のあと小堀正次が預かり、子の遠州も城の修築にかかわりました。

江戸 ── 小堀遠州、城と茶と庭の人

正次の子・政一は天正7年(1579)に小堀村で生まれ、父とともに秀長の大和郡山に移り、秀長・秀保・秀吉に仕えました。この若いころに、千利休の弟子で大名茶人の古田織部に茶の湯を学んでいます。父の死後に家を継ぐと、徳川家のもとで駿府城や名古屋城天守、御所の造営などを取り仕切る作事奉行として働き、慶長14年(1609)に遠江守となりました。「遠州」という呼び名はこの官名から来ています。

元和5年(1619)には近江の小室(いまの長浜市)に移って小室藩の大名となり、元和9年からは伏見奉行として、長く京・伏見にとどまりました。茶人としては、わびの中に明るさと品のよさを加えた「きれいさび」と呼ばれる茶風を築き、三代将軍家光の茶の湯の指南役も務めます。大徳寺の孤篷庵や、南禅寺金地院の庭など、かかわった建物や庭園も多く、正保4年(1647)に六十九歳で亡くなりました。千利休から古田織部、小堀遠州へと続く茶の湯の流れは 千利休の弟子たちはどうなったのか と わび茶の美意識はどう変わったのか で取り上げています。

遠州は、父・正次の主君だった秀長の家臣団のなかで育った人でもあります。妻は、同じく秀長に仕えた藤堂高虎の養女でした。築城の名手だった高虎と、作事奉行として城や御所を手がけた遠州は、秀長の家中から生まれた「つくる人」の系譜ともいえます。高虎については 藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのか をご覧ください。

改易 ── 天明8年、小室藩の取りつぶし

遠州のあと、小室藩は政之・政恒・政房・政峯と受け継がれましたが、七代目の政方のときに大きな転機が訪れます。政方は伏見奉行を務めていましたが、在職中に伏見の町人たちが奉行の不正を訴え出る事件が起き、その結果、天明8年(1788)に改易されて小室藩はなくなりました。ちょうど田沼意次が失脚し、松平定信が老中となって政治が大きく入れ替わる時期で、その流れのなかで処分されたとも言われます。政方は小田原藩の大久保家に預けられ、大名としての小堀家はここで途絶えました。

幕末 ── 幕臣としての再興

大名の地位は失いましたが、小堀家は茶の湯の家として続いていました。遠州から数えて八代目にあたる宗中(政優)は、遠州ゆかりの大徳寺孤篷庵で育ったと伝わり、家の再興を願い続けます。そして文政11年(1828)、旧家の由緒が認められて幕府に召し出され、禄米三百俵の幕臣として家が再び立てられました。こうして小堀家は、幕末を幕府の家臣として迎えることになります。

子孫 ── 遠州流茶道の家元として

明治維新で武士の身分がなくなったあとも、小堀家は遠州の茶の湯を伝える家として続きました。遠州流茶道の宗家は代々小堀家が継ぎ、平成13年(2001)からは十三代の小堀宗実さんが家元を務めています。大河ドラマで小堀正次の登場が決まったときには、遠州流茶道が「流祖小堀遠州の父」の出演として紹介しました。近江の土豪から始まった小堀家は、四百年以上たったいまも、茶の湯の家として続いているのです。

戦国 近江小堀村の土豪。浅井家に仕える
天正〜慶長 小堀正次が秀長の検地奉行に。のち秀吉・家康に仕え、備中松山を預かる
元和5年(1619) 小堀遠州が近江小室藩の大名に。作事奉行・伏見奉行、将軍家の茶の指南
天明8年(1788) 七代・政方が改易され、小室藩が廃藩
文政11年(1828) 幕臣として再興(禄米三百俵)
明治〜現代 遠州流茶道の宗家として続き、いまは十三代・小堀宗実さんが家元

よくある疑問

Q. 小堀正次と小堀遠州の関係は?
A. 正次が父、遠州(政一)が子です。

Q. 『豊臣兄弟!』で小堀正次を演じているのは誰ですか?
A. 萩原護さんです。第37回「秀長の国」から登場しています。

Q. 小堀家の子孫はいまもいますか?
A. はい。遠州流茶道の宗家として続き、十三代の小堀宗実さんが家元を務めています。

Q. 遠州と同じ時代の茶人の武将には誰がいますか?
A. 同じ古田織部の弟子に、丹羽家に仕えた武将で茶人の上田宗箇がいます。

まとめ

小堀家は、近江の小堀村の土豪から始まり、浅井家、秀長、秀吉、そして徳川家へと主を替えながら生き抜いてきた家です。小堀正次が秀長の検地で家の土台を築き、子の遠州が城と茶と庭で名を残しました。天明の改易で大名の地位は失ったものの、文政の再興を経て、遠州流茶道の家として現代まで続いています。ドラマで検地に奔走する小堀正次の姿の先には、四百年続く家の歴史が広がっているのです。

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