石川数正の生涯|家康に仕えた少年期から出奔、豊臣大名として松本城を築くまで ─ 迫田孝也が演じる西三河の旗頭

大坂城の大広間で秀吉に頭を下げる家康と、居並ぶ大名の後ろから見つめる石川数正のイメージ(イラスト)

石川数正は、家康が今川の人質だった少年期から仕え、清洲同盟をまとめ、西三河の旗頭として徳川家の半分を預かった人です。それが天正13年11月13日、突然徳川を離れて秀吉のもとへ走ります。豊臣では河内で8万石、のちに信濃松本へ移って松本城を築きました。徳川では裏切り者と呼ばれ、十六神将にも入れてもらえなかった人物の、はじめから終わりまでをたどります。

※この記事の絵は、いずれも当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。

この記事のポイント
  • 天文2年に三河で生まれ、家康より10歳ほど年上。家康が駿府で今川の人質だった時代から近侍として仕えました
  • 桶狭間のあと今川氏真と交渉し、駿府に残されていた信康と築山殿を取り戻しています
  • 永禄5年、信長と交渉して清洲同盟の成立に大きく貢献しました
  • 永禄6年の三河一向一揆では、父が家康に背いたとみられるなか、数正は浄土宗に改宗して家康に尽くし、戦後に家老となります
  • 永禄12年に西三河の旗頭、天正7年の信康切腹のあと岡崎城代。姉川・三方ヶ原・長篠にも出陣しました
  • 天正12年の小牧・長久手のあと、秀吉との交渉を一手に担い、和睦を提言します
  • 天正13年11月13日に出奔。秀吉から河内で8万石を得て、のちに信濃松本へ移り松本城を築きました
  • 没年は文禄2年10月23日に京都で死去とする説と、文禄元年12月14日に葬礼が行われているためそれ以前とする説があります
冬の夜、灯明の下で巻物や帳面を前に評定する武将と家臣たちのイメージ(イラスト)
冬の夜の評定のイメージ(イメージイラスト)
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生まれと家 ─ 三河石川氏の一門

数正は天文2年、三河に生まれました。父は石川康正とされ、祖父は石川清兼、叔父に石川家成、従弟に石川康通がいます。三河石川氏は松平家の譜代で、一門から複数の重臣を出した家でした。家康が生まれるのは天文11年ですから、数正は主君より10歳ほど年上です(徳川家康は秀吉・秀長と何歳ちがうのか)。

家康が今川義元の人質として駿府に送られていた少年期、数正は近侍として側に付いていました。つまり二人は、家康がまだ松平竹千代と呼ばれていたころからの付き合いです。家臣というより、育ちをともにした同伴者に近い立場から始まっています。

若き日の功 ─ 信康と築山殿を取り戻し、清洲同盟をまとめる

永禄3年の桶狭間で今川義元が討たれ、家康は岡崎へ帰ります。ただし駿府には、妻の築山殿と長男の信康が残されていました。これを今川氏真と交渉して取り戻したのが数正です。人質を取り返す交渉は、徳川家の独立に直結する仕事でした。

続く永禄4年、織田との境目で起きた石ヶ瀬の紛争では先鋒を務めています。そして永禄5年、信長と交渉して清洲同盟の成立に大きく貢献しました。西の織田と結び、東の今川と手を切る。徳川家の進む方向を決めた同盟です。数正はその交渉役でした。この人の持ち味が戦場の武功より交渉だったことが、ここでもう見えています。

三河一向一揆 ─ 父が背き、子が残った

永禄6年から翌年にかけて、徳川家は三河一向一揆で割れます。家臣団が信仰と主君のあいだで引き裂かれた内乱でした。このとき数正の父・康正は家康を裏切ったとみられています。いっぽう数正は浄土宗に改宗して家康のもとに残りました。信仰を捨てて主君を選んだわけです。

結果として石川宗家の家督は叔父の家成が継ぎ、数正は本家から外れた立場になります。それでも乱のあと、数正は家老に任じられました。父が背いた家の子が、むしろ引き上げられた。家康が数正をどう見ていたかが、この一事に出ています。

ちなみに一向一揆で背いたあと帰参した者が徳川十六神将に入っているのに、数正は入っていません。最後に出て行ったかどうかで評価が分かれたわけです(徳川十六神将とは、本多正信はなぜ家康の右腕になれたのか)。

西三河の旗頭、そして岡崎城代へ

永禄12年、叔父の家成が掛川へ転出したことで、数正は西三河の旗頭となります。徳川家臣団は東三河と西三河に分かれ、東を酒井忠次、西を数正が率いる形になりました(酒井忠次とは)。合戦では元亀元年の姉川、元亀3年の三方ヶ原、天正3年の長篠に出陣しています。

数正はまた、信康が元服するとその後見人になりました。ところが天正7年、信康は切腹させられます。後見していた若君を失ったあと、数正は岡崎城代となりました。岡崎は家康の生まれた城で、本国三河の要です。家康が遠江や駿河へ出ているあいだ、本国をまるごと預かる立場になったことになります(石川数正の地位と石高はどれくらいだったのか)。

秀吉との交渉役 ─ そして孤立

天正10年の本能寺の変のあと、情勢は一気に動きます。家康は秀吉と向き合うことになり、その交渉を担ったのが数正でした。天正12年の小牧・長久手では戦場に出ながら、家康に秀吉との和睦を提言しています。戦っても勝ち切れないと見ていたわけです。

そして天正13年10月、浜松の評定で秀吉の人質要求が議題になります。受け入れるべきだと説いたのは数正ただ一人で、本多作左衛門をはじめ家臣団はこぞって拒みました。交渉役として相手の実力を知っている者ほど、強硬派の中で浮いてしまう。数正はここで完全に孤立します(秀吉の人質要求と浜松評定)。

なおこの直前、天正13年3月までに数正は「康輝」と改名し、短い期間その名で文書を出しています。

岡崎城:松平家(徳川家)代々の由緒あるお城
数正が城代を務めた岡崎城。松平家(徳川家)代々の城です(岡崎城)

出奔 ─ 天正13年11月13日

浜松評定の翌月、天正13年11月13日、数正は徳川を離れて秀吉のもとへ走りました。家族を連れての出奔です。岡崎城代が消えたため、家康は本多作左衛門を新しい城代に据えて本国の守りを立て直します(石川数正が去った岡崎城は誰が守ったのか)。

打撃は人数ではなく中身でした。数正は徳川の軍法、城の構え、家臣の内情まで知り尽くしていました。それがそのまま豊臣へ渡ったことになります。だから家康は、数正の出奔のあと旧武田家臣から武田流の軍法を取り入れ、軍制そのものを作り替えました(家康はなぜ軍法を「武田流」に改めたのか)。知られた軍法を捨てて別のものに差し替えたわけです。

出奔の理由については、はっきりした記録が残っていません。豊臣との和睦派として孤立したという説、秀吉に説得されたという説、信康切腹との関わり、家中の権力の移り変わり、父の失脚、さらには家康と示し合わせた投降だったという説まで並びます。数正が残したとされる書き置きの真偽は石川数正の「書き置き」は史実かで、家族を連れて出られた事情は石川数正はなぜ家族を連れて出奔できたのかで扱っています。

浜松城 石垣の下から天守を見上げる
浜松城。石垣の下から天守を見上げる(浜松城)

豊臣大名として ─ 河内8万石から信濃松本へ

秀吉のもとで、数正は河内国内に8万石を与えられました。名も改めており、出雲守と称し、秀吉から偏諱を受けて吉輝と名乗ったと伝わります。

そして天正18年、小田原攻めのあと家康が関東へ移ると、数正は信濃松本へ加増移封されます。筑摩・安曇の2郡で10万石。ただし松本の石高は8万石説と10万石説があります。この松本で数正は城の普請と城下町の建設を進め、天守の造営にも力を注ぎました。いま国宝として残る松本城の天守は、この時期に形づくられたものです(石川数正のその後)。

松本城:貴重な国宝天守 徳川家重臣だった石川数正築城の日本四大国宝 松本城
数正が築いた松本城。国宝天守として残ります(松本城(深志城))

徳川を出た男が、出た先で国宝になる城を残した。数正の名が今日まで伝わっているのは、裏切り者としてよりも、この天守のおかげかもしれません。なお、同じころ数正とともに徳川を離れた小笠原貞慶が、深志を「松本」と改めた人です(小笠原貞慶とは)。

最期と、石川家のその後

数正の没年には2つの説があります。文禄2年10月23日に京都で死去したという説と、文禄元年12月14日に京都の七条河原で葬礼が行われているため、それ以前に亡くなっていたという説です。どちらにしても、出奔から7年ほどで世を去ったことになります。家康が関ヶ原を戦い、天下を取っていく姿は見ていません。

家督は長男の康長が継ぎ、遺領10万石は3人の子で分けられました。康長が8万石、次男の康勝が1万5,000石、三男の康次が5,000石です。しかし石川家は子の代で改易となり、大名としては消えます。くわしい経緯は石川数正の最後と石川数正のその後にまとめています。

そして徳川家の側から見ると、数正の名は功臣の列から外されました。一向一揆で背いて帰参した者が徳川十六神将に数えられているのに、数正は入っていません。11か月後、家康が大坂城で秀吉に頭を下げた日、豊臣の家臣となった数正がその場にいたのかという問いは石川数正は家康の謁見の場にいたのかで考えました。

よくある疑問

Q. 石川数正は家康より年上ですか。
A. 天文2年生まれとされ、天文11年生まれの家康より10歳ほど年上です。

Q. いつ徳川を離れたのですか。
A. 天正13年11月13日です。家族を連れて秀吉のもとへ移りました。

Q. 徳川時代の石高はどれくらいでしたか。
A. 西三河の旗頭で岡崎城代という立場でした。石高については石川数正の地位と石高はどれくらいだったのかで検討しています。

Q. 豊臣でどれくらいもらったのですか。
A. まず河内国内で8万石、天正18年に信濃松本へ移って10万石とされます。松本の石高には8万石説もあります。

Q. 松本城を建てたのは数正ですか。
A. 現存する国宝天守は、数正と子の康長の代に造営されたものとされます。数正は城の普請と城下町の建設を進めました。

Q. 名前がいくつもあるのはなぜですか。
A. 徳川時代の末期に「康輝」と改め、豊臣に移ってからは出雲守と称し、秀吉から偏諱を受けて「吉輝」と名乗ったと伝わります。

まとめ

石川数正の生涯は、交渉で始まり交渉で終わりました。駿府から信康と築山殿を取り戻し、信長と清洲同盟をまとめ、秀吉との和睦を担う。徳川家が外と向き合うとき、前に出るのはいつもこの人でした。そして相手の実力を正確に知っていたからこそ、強硬派だらけの浜松評定で孤立し、ひとり出て行くことになります。

徳川に残れば十六神将に数えられたかもしれません。出たことで裏切り者と呼ばれ、いっぽうで国宝の天守を残しました。出奔の理由は本人が語っておらず、7つもの説が並んだままです。ただ、残された事実を順に並べていくと、裏切りという一語では片づかない人だったことは見えてきます。出奔が徳川に何をもたらしたかは石川数正が去っても、家康はなぜ秀吉と戦おうとしたのかをご覧ください。

▷ 大河ドラマ『豊臣兄弟!』では
石川数正は迫田孝也さんが演じています。第39回「茶々の本心」で徳川を去り、第40回「あさひの輿入れ」では屋敷に置手紙を残して出奔したことが描かれました。その手紙の末尾に「爪を噛むのはおやめくだされ」と書き添えられており、回の終わりで家康が噛むのをやめる場面に対応しています。放送内容と史実のちがいは第39回「茶々の本心」の史実と第40回「あさひの輿入れ」史実解説にまとめています。
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