浜松城:曳馬から名を変えた家康の城と、いまの天守より大きい天守台

浜松城:三方ヶ原の戦いはここから出撃 駿河国配領前の徳川家康の本城 浜松城

【城名】
浜松城

【浜松城の説明】
浜松城は静岡県浜松市にあった平山城です。
元々は今川義元の家臣「飯尾氏」が城主をつとめており、この時は「曳馬城」と呼ばれていました。

今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にすると跡を継いだ「今川氏真」に仕えるが思わぬ離反の疑惑をもたれ飯尾家当主の連竜は謀略により討たれてしまいます。
その後、徳川家康の攻略が開始され、城内には徳川派と今川派に分裂しました。

浜松城:三方ヶ原の戦いはここから出撃 駿河国配領前の徳川家康の本城 浜松城【お城特集 日本の歴史】

この分裂を利用し、家康は楽々と浜松城の攻略に成功します。
以後、東に目を向けた家康の本拠地となり城は大改修され名前も浜松城となります。

元亀3年(1572年)、武田信玄の西上作戦が開始されると遠江の国の家康方の城は次々と陥落します。
信玄は家康の本城の浜松城を攻めるそぶりを見せず、これを無視して通過しようとし、これに激怒した家康は野外決戦を覚悟し、城を出て打って出ました。

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しかし、これは信玄が家康を城からおびき出す巧妙な作戦で家康はまんまとその罠にはまったことになります。
ついに武田軍と徳川軍は激突し(三方ヶ原の戦い)家康は善戦するも徐々に兵力の差が表面化し、徳川軍は総崩れに陥りました。

家康自身も数名の家臣と浜松城に逃げ帰るという散々な敗北でした。
浜松城を包囲し攻撃するとみられた武田軍はそれをせず、軍をそのまま西へと進めたがその途中に信玄は病に倒れその生涯を閉じることとなります。

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信玄の死後、家康は失った城や領地を回復しそのまま遠江の支配を確立していくこととになります。
浜松城は明治維新後に廃城となり破壊されるが1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート製の復興天守が再建され、1959年には浜松市の史跡として指定されました。

目次

野面積みの石垣 — 出世城の素顔

浜松城を歩いて誰もが息をのむのが、天守台を支える石垣です。自然石をほとんど加工せず、大小の石を組み合わせて積み上げた「野面積み」で、表面はごつごつと荒々しく見えます。整った切込接の石垣を見慣れた目には、粗野にすら映ります。だがこれこそ、家康がこの城にいた時代の空気を伝えるものです。技術の洗練より、早く堅固に積むことが求められた戦国の城の石垣です。

浜松城 天守と野面積みの石垣

天守台の野面積み。自然石をほとんど加工せずに積み上げた古い技法

家康はこの城に二十九歳から十七年間を過ごしました。三方ヶ原の敗戦も、長篠の勝利も、この城から出て迎えたものです。後にこの城の城主が次々と幕府の要職に就いたことから、浜松城は「出世城」と呼ばれるようになりました。

浜松城 若き日の徳川家康公の像

本丸跡に立つ「若き日の徳川家康公」像

天守門は平成二十六年(2014)に復元されたもので、櫓門の下をくぐって天守曲輪へ入る構えがよみがえりました。天守そのものは昭和三十三年(1958)の復興天守で、絵図の残らないこの城の姿を推定して建てられています。

浜松城 天守門と野面積みの石垣

平成二十六年(2014)に復元された天守門

浜松城の復興天守

昭和三十三年(1958)に再建された復興天守

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浜松城の現地写真

ここからは現地で撮影した写真です。石垣や櫓門の呼び名は城の基本用語の記事で図解しています。

曳馬から浜松へ ─ 名を変えた城

この城はもともと曳馬城(ひくまじょう)と呼ばれていました。家康が入って大改修したとき、城の名も町の名も浜松に改めます。

理由としてよく語られるのが、「曳馬」が「馬を引く」、つまり退くに通じて縁起が悪いというものです。そこで、この地にあった荘園の名である浜松荘から取って浜松城としたと伝えられます。武田と向き合う最前線の城の名が「退く」では具合が悪い、というわけです。

城の位置も動きました。曳馬城は台地のはずれの小さな城で、いまの浜松城公園の東側、東照宮のあたりにあたります。家康は本体を西の高いところへ移し、城域を大きく広げました。古い城の跡は出丸のような形で城内に取り込まれています。浜松城公園を歩くときは、この二つの城が重なっていることを頭に入れておくと、地形の起伏が読みやすくなります。家康が次に本拠とした駿府城も、今川の古い城を作り替えたものでした。

家康はなぜ城を出て三方ヶ原へ向かったのか

三方ヶ原の敗戦は、家康の生涯で最も苦い負け戦です。なぜ籠城せず、わざわざ城を出たのか。血気にはやったからだ、とよく言われますが、それだけではありません。

三方ヶ原古戦場の碑

三方ヶ原古戦場(浜松市)

三方ヶ原古戦場

三方ヶ原古戦場

信玄は二俣城を落としたあと、浜松城には目もくれず西へ進もうとしました。これを放っておくと、遠江の国衆に「徳川は武田に無視される程度の相手だ」と見せることになります。国衆は強いほうに付くものです。城に籠もって安全を選べば、領国そのものが崩れかねませんでした。

それでも結果は惨敗でした。家康は数名の供とともに城へ逃げ帰り、城門を開け放って篝火を焚かせたという空城の計の逸話が残ります。ただしこの話は後世の軍記に出てくるもので、そのまま史実とするには慎重さが要ります。確かなのは、この敗戦のあとも家康が浜松を離れなかったことです。やがて長篠で武田を破り、遠江を取り戻していきます。

家康がこの城にいたのは二十九歳からの十七年間。負けと立て直しの両方をここで経験しました。

天守台は、いまの天守より大きい

浜松城を見に来た人が意外に思うのが、天守と天守台のちぐはぐさです。石垣の上に建つ天守が、土台に対して明らかに小さいのです。

天守台は一辺およそ二十一メートルの、少しいびつな四角形です。西側には八幡台と呼ばれる張り出しが付きます。この大きさから推すと、本来ここに建っていた天守は四重五階ほどの望楼型だったと考えられています。いまの天守は昭和三十三年に建てられた復興天守で、当時の姿を示す絵図がないため推定でつくられたものです。天守台より小さいのは、そうした事情によります。

では、その天守を建てたのは誰か。家康が関東へ移ったあと、この城には堀尾吉晴が入りました。天守が建てられたのは、この堀尾の時代ではないかと見られています。吉晴はのちに松江城を築く人物で、石垣と天守の扱いに長けた武将でした。ただし十七世紀の絵図にはすでに天守が描かれておらず、江戸のごく早い時期に失われたようです。

石垣そのものは見応えがあります。自然石をほとんど加工せずに積んだ野面積みで、隅の部分だけは長方形の石を交互に組んで強度を出しています。整いすぎていないからこそ、一つひとつの石をどう噛み合わせたかが目で追えます。

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駐車場と所要時間

うれしいことに、浜松城公園の駐車場は無料です。大型バスも予約すればとめられます。城のすぐそばなので、車で行くなら迷うことはありません。

入場料も安く、大人二百円で天守閣と天守門の両方に入れます。中学生以下は無料です。開館は午前八時半から午後四時半まで。休みは年末の十二月二十九日から三十一日だけです。公園そのものは自由に歩けます。

JR浜松駅からはバスで「市役所前」下車、そこから歩いて六分ほど。タクシーなら五分ほどの距離です。歩いても二十分ほどで、駅から城までの道には案内が出ています。

所要時間の目安は、天守閣と天守門を見て四十分ほど。天守台の石垣を下から回り、曳馬城跡の東照宮まで足をのばすなら一時間半。公園の日本庭園まで含めると二時間ほどみておくとゆっくりできます。駿府城や掛川城と組み合わせて、家康の東海道の城をたどる一日にする人も多い場所です。

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見学順 ─ 石垣を下から見てから、天守門をくぐる

駐車場から歩き出したら、いきなり天守へ向かわず、まず天守台の石垣を下から見上げてください。浜松城でいちばんの見どころはここです。角の積み方、石の大きさのばらつき、苔の付き方。近づいて触れられる距離にあるのがこの城の良さです。

次に天守門へ。平成二十六年に復元された櫓門で、門の下をくぐって天守曲輪に入る構えがよみがえりました。門の脇には鏡石と呼ばれる大きな石が据えられています。入る者を威圧するための石で、櫓門と組み合わせて「ここから先は特別な区域だ」と示す仕掛けです。

天守曲輪に入ったら天守へ。内部は資料館で、最上階が展望台です。浜松の市街地と、その向こうに遠州灘が見えます。三方ヶ原の台地がどちらの方角かを確かめておくと、次の見学が楽になります。

下りたら本丸跡の若き日の家康像を見て、東へ。公園の東側、東照宮のあたりが曳馬城の跡です。小さな社ですが、ここが家康の前にこの土地を治めていた人たちの城でした。城の名が変わり、位置が動き、規模が広がった。その順番を足でたどると、浜松城が「作り替えられた城」であることがよく分かります。

【浜松城・場所・アクセス】
〒430-0946 静岡県浜松市中区元城町100-2

【浜松城地図】

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