岡崎城(おかざきじょう)は、徳川家康が生まれた城です。松平氏が三河を押さえるなかで本拠とし、家康は桶狭間の戦いののちにこの城へ戻って独立を果たしました。ただし家康が岡崎を本拠としたのは十年ほどで、その後は浜松へ移ります。江戸時代には「神君出生の城」として敬われ、譜代大名が城主をつとめました。今の天守は後年に建てられたものです。
- 矢作川と菅生川が合う地にあり、東海道と川の道を押さえる城
- 松平清康が城を奪って拡張し、三河の中心とした
- 家康が本拠としたのは桶狭間のあとの十年ほどで、のち浜松へ移る
- 江戸期は五万石前後の譜代の城で、格式と規模は別だった

石垣の上に建つ三層の天守。最上階に高欄をめぐらせ、下の層は白壁と黒い板壁を組み合わせている。手前に幟が並ぶ。
川が合わさる場所に置かれた城
岡崎は、矢作川と菅生川(乙川)が合わさるあたりに開けた町です。東海道がここを通り、川をさかのぼれば山あいの村々へ、下れば三河湾へ出られます。人と物の通り道が十字に交わる場所で、三河を治めるならここを押さえるのが理にかないます。
城は菅生川の北岸の高台に築かれました。川を天然の堀とし、台地の縁を削って曲輪を並べます。もとは西郷氏が築いた城で、これを松平清康が手に入れて大きく作り変えました。清康は家康の祖父にあたります。
松平清康と、三河の統一
清康は安祥城から岡崎へ本拠を移し、三河の国人衆をまとめあげました。武勇で知られ、若くして三河をほぼ手中に収めています。ところが尾張へ出兵した陣中で家臣に斬られ、二十五歳で世を去りました。守山崩れと呼ばれるこの事件で、松平氏は一気に力を失います。
跡を継いだ広忠は、西の織田、東の今川にはさまれて苦しい立場に置かれました。広忠も若くして世を去り、その子の竹千代は今川氏のもとへ人質に出されます。岡崎城には今川の城代が置かれ、松平の家臣たちは自分の主が城にいない年月を過ごしました。
竹千代の帰還
永禄三年(一五六〇)、今川義元が尾張へ向かうとき、松平元康(のちの家康)は先鋒として大高城へ兵糧を入れました。その直後、桶狭間で義元が討たれます。元康は岡崎へ引き上げ、今川の城代が去ったあとの城に入りました。人質として過ごした年月を終え、自分の城に戻った瞬間です。
翌年から元康は今川と手を切り、清洲城の織田信長と結びます。名も家康と改め、松平から徳川へと姓を変えました。ただし三河の平定は簡単ではありません。三河一向一揆では家臣団が二つに割れ、譜代の家臣が敵味方に分かれて戦いました。家康にとって、この内乱を乗り切ったことが三河支配の土台になります。

桜の枝ごしに見る石垣と白壁。反りをつけて積まれた石垣の上に、白壁の建物が載る。
浜松へ移り、岡崎は嫡男の城に
元亀元年(一五七〇)、家康は本拠を遠江の浜松城へ移しました。武田氏と向き合うため、前線に近い場所を選んだのです。岡崎城は嫡男の信康に任されます。しかし天正七年(一五七九)、信康は自害を命じられました。信長の命によるとする話が知られていますが、徳川家中の事情を重く見る説もあり、経緯には諸説があります。
その後、家康が関東へ移されると、岡崎には豊臣系の大名である田中吉政が入りました。吉政は城と城下町を大きく作り変え、東海道を城下に引きこむ「二十七曲がり」の道筋を整えます。今の岡崎の町割りは、この時期に骨格が固まりました。
「神君出生の城」という格

松の枝のあいだから天守を見上げる。今の天守は後年に建てられたもので、江戸期の天守は明治に取り払われた。
岡崎城跡の訪ね方
城跡は岡崎公園として整備され、名鉄の東岡崎駅から歩いて十五分ほどです。天守のなかは展示施設になっており、隣接する三河武士のやかた家康館では、松平氏と家康について学べます。石垣と堀は各所に残り、とくに菅生川に面した側では、川を背にした城の構えがよくわかります。
家康の足どりをたどるなら、安祥城から岡崎、浜松城、そして駿府城とつなぐのが筋道です。城を移すたびに、家康が何と向き合っていたかが変わっていきます。
所在地:〒444-0052 愛知県岡崎市康生町561
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天正13年(1585)、岡崎城代の石川数正が出奔すると、家康は岡崎の守りを急いで固めました(石川数正が去っても、家康はなぜ秀吉と戦おうとしたのか)。翌年には大政所が人質としてこの城に入っています。
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