- 秀吉と秀長は、生涯を通じて仲のよい兄弟だったと伝わります。ただ、天正16年(1588)の吉川平介の事件のあと、秀長は翌年正月に秀吉への拝謁を許されず、兄弟の間に目に見える距離が生まれました
- これは秀長個人への怒りというより、天下人として身内にも示しをつける、という政治的な意味が大きかったと考えられます
- その後、秀長は病に倒れ、天正18年の小田原攻めにも出陣できませんでした。秀吉は寺社に秀長の回復を祈らせています
- 天正19年(1591)1月、秀長は52歳で亡くなりました。兄弟の関係は、最後まで断ち切られることはなかったと見るのが自然です
『豊臣兄弟!』第44回「ある家臣の死」では、家臣・吉川平助の死罪をめぐって秀長と秀吉が口論になり、秀吉が秀長との面会を禁じる場面があるようです。では史実の兄弟は、このころ仲たがいしたのでしょうか。結論からいうと、距離が見えた時期はあっても、関係が壊れたとまでは言えません。この記事では、平介の事件から秀長の死までの兄弟の関係を、史料に残る出来事からたどります(第44回「ある家臣の死」あらすじ予想と史実)。
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仲のよい兄弟と言われてきた理由
秀長は、兄の秀吉が織田家の家臣として出世していく道のりを、早くから支えてきました。長浜城主のころから兄の留守を預かり、四国攻めでは総大将を、九州攻めでは日向方面の大将を務めます。天正14年(1586)に大坂城を訪ねた大友宗麟は、「内々のことは利休に、公儀のことは宰相(秀長)に」と聞かされました。秀長は、豊臣政権の表の仕事を任される、兄の右腕だったのです(大友宗麟の大坂城訪問、豊臣秀長は実際に何をしていたのか)。
吉川平介の事件と、正月の拝謁拒否
天正16年、秀長の家臣・吉川平介が、熊野の材木の代金を着服したとして、12月5日に大和の西大寺で処刑されました。この一件で秀長は「天下の面目を失った」とされ、翌天正17年の正月、年頭のあいさつで秀吉に会うことを許されませんでした(吉川平介とは)。
正月の拝謁は、豊臣家の序列を目に見える形で確かめる場です。そこに弟が出られないことは、だれの目にもはっきりわかる処分でした。兄弟の間に距離が生まれたことは、確かだったといえます。
病に倒れた秀長
天正17年ごろから、秀長は病がちになったようです。天正18年(1590)の小田原攻めには出陣できず、大和の郡山で療養を続けました。この間、秀吉は寺社に秀長の回復を祈らせています。天下統一の最後の戦いに、もっとも頼りにしてきた弟の姿はありませんでした(天正十九年に何が起きたのか)。
天正19年、秀長の死
天正19年(1591)1月22日、秀長は郡山城で52歳の生涯を閉じました。その翌月には千利休が切腹を命じられ、8月には秀吉の跡継ぎの鶴松が3歳で亡くなります。秀吉に直言できた弟と茶頭を相次いで失ったあと、秀吉は朝鮮出兵へと突き進んでいきました(豊臣秀長とは、もし豊臣秀長があと十年生きていたら)。
平介の事件は、仲のよい兄弟の間に、天下人と家臣という関係が割りこんできた出来事でした。それでも最後まで、秀吉にとって秀長は替えのきかない弟だったのでしょう。秀長の死が豊臣家に残した穴の大きさが、それを物語っています。
よくある質問
Q. 秀吉と秀長は仲が悪かったのですか?
A. 生涯を通じて仲のよい兄弟だったと伝わります。ただ吉川平介の事件のあと、秀長が正月の拝謁を許されなかったことがありました。
Q. 秀長が秀吉に会えなかったのはいつですか?
A. 天正17年(1589)の正月です。前年の吉川平介の事件の責めを負ったものとされます。
Q. 秀長は小田原攻めに参加しましたか?
A. 病のため出陣できず、郡山で療養していました。
Q. 秀長はいつ亡くなりましたか?
A. 天正19年(1591)1月22日、郡山城で52歳で亡くなりました。
まとめ
秀吉と秀長は仲のよい兄弟と伝わりますが、天正16年の吉川平介の事件のあと、秀長は正月の拝謁を許されず、兄弟の間に目に見える距離が生まれました。それは天下人として身内にも示しをつける処分だったと考えられ、その後秀吉は病の弟の回復を祈らせています。秀長が天正19年に亡くなると、豊臣政権は大きく揺らいでいきました。第44回は、その転機を兄弟の目線で描く回になりそうです。
参考:『多聞院日記』/黒田基樹『羽柴秀長の生涯』平凡社新書/柴裕之『羽柴秀長』角川選書

