刀狩令とは|秀吉の三か条の中身と「大仏の釘」、刀は本当に村から消えたのか ─ 天正16年、肥後国人一揆のあとに

庄屋の家の前に差し出された刀や鑓を、役人が帳面を手に数え、百姓たちが見守る刀狩のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 刀狩令(かたながりれい)は、天正16年(1588)7月8日に秀吉が出した、百姓から刀や鉄砲などの武器を差し出させる命令です
  • 全部で三か条あり、①百姓が武器を持つことを禁じる、②集めた刀は京に建てる大仏の釘やかすがいにするので、百姓はこの世もあの世も救われる、③百姓は農具を持って耕作に励めば子孫まで安泰、という内容でした
  • 前の年に起きた肥後国人一揆のように、武器を持った国人や百姓が一揆を起こすことを防ぐのが大きなねらいでした
  • ただし村から武器がすっかり消えたわけではなく、鉄砲などは江戸時代も村に残りました。刀狩は「武器を持つ身分」と「持たない身分」の線を引く命令だった、という見方が今は有力です

刀狩令とは、天正16年(1588)7月8日、豊臣秀吉が全国の大名に向けて出した、百姓から刀・脇差・弓・鑓・鉄砲などを取り上げる命令です。前の年の肥後国人一揆を受けて出されたもので、『豊臣兄弟!』第43回「殿下の刀狩り」の中心になりそうな出来事です。この記事では、三か条の中身、「大仏の釘」という名目、そして刀狩で本当に村から刀がなくなったのかを紹介します。検地と合わせた全体像は太閤検地と刀狩とはでまとめています。

目次

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

当サイトがデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※当サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

刀狩令の中身 ─ 三か条

刀狩令は三か条からなります。わかりやすく言いかえると、次のような内容です。原本の写しは、島津家や小早川家など、命令を受けた大名の家に伝わっています(肥後国人一揆と佐々成政の切腹)。

条 内容(要約) ねらい
第一条 諸国の百姓が刀・脇差・弓・鑓・鉄砲などの武具を持つことを固く禁じる。武具をたくわえて年貢を怠り、一揆をくわだてる者は処罰する。領主や代官は武具を集めて差し出すこと 一揆を防ぎ、年貢をきちんと納めさせる
第二条 取り上げた刀や脇差は無駄にせず、今度建てる大仏の釘やかすがいにする。そうすれば百姓はこの世はもちろん、あの世まで救われる 武器を差し出すことに、信仰の意味づけをする
第三条 百姓は農具さえ持って耕作に励めば、子々孫々まで安泰である。これは百姓をあわれむ気持ちから出た命令である 百姓は田を耕す者、という役割をはっきりさせる

第一条は取り締まり、第二条は名目、第三条は百姓の暮らし方の宣言、という組み立てです。武器を取り上げる理由を、年貢と一揆と信仰と暮らしの四つの面から説明しているところに、秀吉政権の周到さがあらわれています。

実った田のそばで、庄屋が巻物を手に村人たちへ話すイメージ(イラスト)
検地で村を訪れた役人と、それを迎える庄屋と村人たちのイメージ(イメージイラスト)

「大仏の釘に」という名目

第二条にある大仏は、秀吉がこのころ京都の東山に建てようとしていた方広寺の大仏です。奈良の東大寺の大仏よりも大きなものを、という秀吉の大事業でした。没収した刀を大仏の建立に使うから、差し出すことは仏への供養になる。そう説明することで、武器を取り上げられる百姓の反発をやわらげようとしたと考えられます(方広寺の大仏とは)。

実際に集められた刀が釘に使われたという話も伝わりますが、どれだけが大仏に回ったのかはわかっていません。大仏の造営には、熊野などから運ばれた大量の材木も使われました。その材木をめぐって起きたのが、秀長の家臣・吉川平介の事件です(熊野の木はなぜ豊臣政権に狙われたのか)。

刀狩は秀吉が最初ではなかった

武器の取り上げは、刀狩令が初めてではありません。天正4年(1576)には柴田勝家が、一向一揆を鎮めたあとの越前で「刀さらえ」を行っています。秀吉自身も天正13年(1585)、紀州攻めのあとに高野山や紀伊の百姓に武器を差し出させました(なぜ秀吉は太田城を水攻めにしたのか)。

一揆を鎮めた土地で行われてきた武器の取り上げを、天正16年の刀狩令は全国に広げたものでした。きっかけとなったのは、前の年の肥後国人一揆です。九州を平定した直後に3万を超える一揆が起き、佐々成政が責任を問われて切腹したことは、秀吉に大きな衝撃を与えました。

▽ よく語られる話
刀狩令によって、村から刀や鉄砲がすべて取り上げられ、百姓は武器を持てなくなった。
▼ 史実ではこうです
実際には、村から武器がすっかり消えたわけではありません。鉄砲は鳥や獣から田畑を守る道具として、江戸時代も村に数多く残りました。百姓が脇差を差すことも、旅や祭りなどではしばらく続いています。歴史家の藤木久志氏は、刀狩は武器をなくす命令ではなく、「だれが武器を持ってよいか」を決め、百姓が武器を使って争うことを封じるものだったと考えました。

刀は本当になくなったのか

刀狩令を受けた大名たちは、領内の村から武器を集めて差し出しました。集まった刀や脇差の数を書き上げた文書も残っています。ただ、すべての村から、すべての武器が集められたわけではありませんでした。とくに鉄砲は、猪や鹿から田畑を守るために欠かせない道具で、江戸時代には村が持つ鉄砲の数を届け出させる仕組みがつくられたほどです。

それでも刀狩には大きな意味がありました。武器を持って戦うのは武士の役目、田を耕して年貢を納めるのは百姓の役目。この区別を、政権がはっきりと示したからです。検地で百姓を土地に結びつけ、刀狩で戦う者との境目を引く。この二つを合わせて、兵農分離と呼びます(太閤検地と刀狩とは)。

同じ日に出された海賊停止令

刀狩令が出された天正16年7月8日には、海の上での海賊行為を禁じる海賊停止令も出されています。陸では百姓の武器を、海では海の武士たちの力を、同じ日に天下人の管理のもとに置こうとしたのです。惣無事令(停戦命令)とあわせて、こうした命令はまとめて「豊臣平和令」と呼ばれることがあります(九州停戦令(惣無事令)とは)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
第43回「殿下の刀狩り」は11月8日(日)放送予定です。伝えられているあらすじでは、秀吉(池松壮亮)が二度と一揆を起こさせないために刀狩りを打ち出し、秀次(山田涼介)は「かえって一揆を招く」と反対、秀長(仲野太賀)が「取り上げた刀を大仏の建立に使っては」と提案するとされます。史実の第二条にある「大仏の釘」を、ドラマが秀長の知恵として描くのか注目です。放送後にこの枠を更新します。

よくある質問

Q. 刀狩令はいつ出されましたか?
A. 天正16年(1588)7月8日です。

Q. 刀狩令の内容は?
A. 百姓が刀や鉄砲などの武具を持つことを禁じ、取り上げた刀は大仏の釘やかすがいにする、百姓は農具を持って耕作に励めば子孫まで安泰、という三か条です。

Q. 刀狩で取り上げた刀はどうなったのですか?
A. 京都の方広寺の大仏の釘やかすがいに使うとされました。実際にどれだけ使われたかはわかっていません。

Q. 刀狩で村から武器はなくなったのですか?
A. すっかりなくなったわけではなく、鉄砲などは江戸時代も村に残りました。

まとめ

刀狩令は、天正16年7月8日に秀吉が出した、百姓から武器を取り上げる三か条の命令でした。肥後国人一揆のような一揆を防ぎ、年貢を確実に納めさせることがねらいで、集めた刀は方広寺の大仏の釘にするという名目がそえられました。村から武器がすべて消えたわけではありませんが、武器を持つ者と田を耕す者の境目をはっきり示したことで、戦国の世を終わらせる大きな一歩になったのです。

参考:「天正十六年七月八日 刀狩令」(『島津家文書』『小早川家文書』)/藤木久志『刀狩り ─ 武器を封印した民衆』岩波新書/藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』東京大学出版会

  • URLをコピーしました!
目次