- 松井友閑(まつい ゆうかん)は、織田信長の側近として文書を扱った右筆(ゆうひつ)で、堺の代官(堺政所)も務めた人物です。宮内卿法印とも呼ばれました
- 茶の湯に通じ、信長が名物の茶道具を集めた「名物狩り」では、交渉役として働いています
- 本能寺の変が起きた天正10年(1582)6月2日、堺で徳川家康をもてなしていたのが友閑でした
- 本能寺のあとも秀吉のもとで堺を任されましたが、天正14年(1586)に代官を外されます。信長に重用された人が、秀吉の代に退いていった一例です
松井友閑は、信長の右筆で、堺の代官も務めた側近です。合戦で名を上げた武将ではありませんが、信長の文書と茶の湯、そして堺の町を預かった、政権の裏方の中心人物でした。今井宗久・津田宗及・千利休ら堺の茶人とも深くかかわっています。『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」の前に、信長の時代の堺を支えた友閑を紹介します(天下三宗匠とは)。
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信長の右筆、そして堺の代官
友閑の生まれや若いころのことは、よくわかっていません。信長に仕えてからは、書状の作成や取次を担当する右筆として働き、信長の名で出される文書の多くにかかわりました。のちに宮内卿法印という位も得ています。
信長は堺の町を直接おさえるため、代官を置きました。その役を長く務めたのが友閑です。堺は鉄砲や火薬、海外の品が集まる、当時日本でもっとも豊かな町の一つでした。その町と、会合衆と呼ばれる豪商たちとの間に立ったのが友閑だったのです(戦国の商人はどうやって成功したのか)。
名物狩りと茶の湯
信長は、名物と呼ばれる茶道具を各地の持ち主から買い上げました。のちに「名物狩り」と呼ばれる動きです。友閑は丹羽長秀らとともに、この交渉役を務めています。集めた名物は、手柄を立てた家臣に与えたり、茶会を開く許しと合わせて使ったりして、家臣をまとめる道具になりました(秀吉はなぜ千利休を切腹させたのか)。
友閑自身も茶の湯に通じ、堺の茶人たちと茶会を重ねています。今井宗久や津田宗及が信長に近づき、茶頭として重んじられていったのも、堺の代官である友閑と行き来があってのことでした。
本能寺の変の日、友閑は家康をもてなしていた
天正10年(1582)5月、徳川家康は安土で信長にもてなされたあと、京から堺へ向かいました。堺で家康の案内役を務めたのが友閑で、6月1日には友閑の屋敷などで茶会が開かれたと伝わります。その翌朝、京の本能寺で信長が明智光秀に討たれました。
知らせを受けた家康は、わずかな供回りで伊賀を越えて三河へ逃げ帰ります。いわゆる「伊賀越え」です。友閑は、信長の最期の日に、堺で信長の大切な客をもてなしていたことになります(本能寺の変:なぜ明智光秀は天下を取れなかったのか)。
秀吉のもとで、そして罷免
本能寺の変のあと、友閑は秀吉に従い、引き続き堺の代官を務めました。しかし天正14年(1586)、友閑は代官を外されます。不正があったためといわれますが、確かな理由はわかっていません。その後の友閑の消息もはっきりせず、いつ亡くなったのかも伝わっていません。
同じころ、秀吉の茶頭の序列でも、信長のころ先頭だった今井宗久が三番手に下がり、利休が筆頭になっていました。信長に重く用いられた堺の人びとが、秀吉の代になって一歩ずつ退いていく。友閑の罷免は、その流れの中で起きた出来事でした。北野大茶湯が開かれるのは、その翌年のことです(北野大茶湯とは)。
よくある質問
Q. 松井友閑とはどんな人ですか?
A. 織田信長の右筆で、堺の代官も務めた側近です。茶の湯にも通じていました。
Q. 松井友閑の読み方は?
A. 「まつい ゆうかん」です。宮内卿法印とも呼ばれました。
Q. 本能寺の変のとき松井友閑はどこにいましたか?
A. 堺で徳川家康をもてなしていたと伝わります。
Q. 松井友閑はなぜ堺の代官を外されたのですか?
A. 天正14年に罷免されました。不正があったためといわれますが、確かな理由はわかっていません。
まとめ
松井友閑は、信長の右筆として文書を扱い、堺の代官として豪商たちと向き合った、信長政権の裏方でした。名物狩りの交渉役を務め、本能寺の変の日には堺で家康をもてなしています。秀吉の代になっても堺を任されましたが、天正14年に代官を外され、その後の消息は伝わっていません。信長に重用された人びとが入れ替わっていく中で、北野大茶湯の時代がやってきます。
参考:太田牛一『信長公記』/『宇野主水日記』/谷口克広『信長の側近たち』(中公新書)

