茶々はなぜ淀殿と呼ばれたのか:秀長が普請した城と、五百メートル離れたもう一つの淀城

金地の屏風の前で筆を持つ絵師のイメージイラスト(狩野永徳)

茶々が淀殿と呼ばれるのは、淀城に住んだからです。鶴松を産んだからではありません。そして順序も逆で、身ごもったから城が用意されたのであって、産んだから城をもらったのではありません。その城を普請したのは、秀長でした。さらにややこしいことに、茶々がいた淀城と、いま淀城址として残っている城は、五百メートル離れた別の城です。

▶ この記事でわかること
  • 茶々がいた城と、いまの淀城址がまったく別物だということ
  • 城を建てたのが秀長だったという記録
  • 懐妊と入城と出産の、本当の順序
  • 「淀殿」も「淀君」も、本人が呼ばれていた名ではないこと
  • 鶴松の死で城が壊されたという話の真偽
目次

淀城は、ふたつある

まずここを押さえないと、何を見に行っても噛み合いません。

▶ 二つの淀城
  • 淀古城(よどこじょう) 京都市伏見区納所。室町時代からあった城で、秀長が改修し、茶々が入って鶴松を産んだのはこちら。いま残るのは妙教寺の境内に立つ石碑が一本だけ
  • 淀城 京都市伏見区淀本町。元和九年に松平定綱が築いた、まったく新しい城。本丸の石垣と天守台が残り、淀城跡公園になっている

その間、わずか五百メートル。歩いて十分かかりません。これだけ近いのに、築かれた時期は三十年以上離れています。茶々が大坂城で亡くなったのが慶長二十年、いまの淀城の着工が元和九年。茶々が死んでから八年後に建ちはじめた城なので、そもそも関わりようがないのです。

鶴松が生まれ、三歳で死んだのは、どちらも古いほうの城です。いま駅前にある石垣とは関係がありません。

「淀城は淀殿ゆかりの城」という案内を見かけたら、どちらの淀城を指しているのかを確かめたほうがよいでしょう。京都市の公式の観光案内はきちんと区別しています。

茶々の城を建てたのは、秀長だった

ここが、この話でいちばん意外なところかもしれません。

興福寺の僧が書き継いだ『多聞院日記』の天正十七年に、淀城の普請の記事が三度出てきます。正月二十三日、二月十八日、二月二十日。そこに記されているのは「大納言殿」── 当時この呼び名で記される人物は、豊臣秀長です。

秀長はこのとき大和・紀伊・和泉を預かり、郡山の城下町をつくっている最中でした。その手が、兄の子を産む女性のための城にも伸びている。普請奉行として城と町をいくつも手がけた人の仕事ぶりが、こういうところにも出ています。

ついでに言えば、この城には茶々が入る七年前にも手が入っていました。本能寺の変の直後、明智光秀が改修した記録が『兼見卿記』にあります。山崎の戦いで使われた城でもありました。

産んだから城をもらった、のではない

▽ よく語られる話
茶々は淀城で鶴松を産み、それから淀城に住むようになったので、淀殿と呼ばれた。
▼ 史実ではこうです
順序が逆です。茶々が身ごもったのは天正十六年の秋ごろ。京都の研究機関がまとめた年表では、秀吉が淀に築城を命じたのが同じ天正十六年です。そして翌天正十七年の正月から普請がはじまり、春に茶々が入り、五月二十七日に鶴松が生まれています。城は、生まれた子のためではなく、これから産む人のために用意されたのです。

この先の年表に照らすと、鶴松の誕生は小田原攻めの前年にあたります。豊臣の家にとって、跡取りが生まれるかどうかが最も切実だった時期です。

工事が終わるまでのあいだ、茶々は摂津の茨木城にいたとみられています。秀吉の書状にその気配があり、研究者はこれを「出産を正妻の管理の下に置いた」と読んでいます。

出産の記事は、公家や僧の日記にそろって残っています。『お湯殿の上の日記』『言経卿記』『鹿苑日録』『多聞院日記』。朝廷は三日後に祝いの品を届け、六月には本願寺の顕如らが淀城を訪ねて銀子と金の太刀を贈りました。一介の側室の出産に対する扱いではありません。

なぜ、城ひとつを与えたのか

秀吉にはほかにも側室がいましたが、城をあてがわれたのは茶々だけです。

近年の研究では、茶々を単なる側室ではなく、正妻に準ずる立場に置かれた「もうひとりの妻」と見る立場が出ています。背景にあるのは血筋です。茶々は浅井長政と市の娘で、母方から織田の血を引いています。信長のあとを継いだ政権にとって、その血を引く子は意味が違いました。

呼び名も、このあとずっと居場所で変わっていきます。淀の方、大坂殿、二の丸殿、西の丸殿。住んだ場所が、そのまま呼び名になる人だったわけです。だから「産んだから淀殿」ではなく「淀に住んだから淀の方」が正しい。妹の初が常高院と呼ばれるのが出家後の院号であるのとは、理屈がまるで違います。

「淀殿」も、本人は呼ばれていない

▽ よく語られる話
「淀君」は江戸時代の蔑称だから、正しくは「淀殿」と呼ぶべきだ。
▼ 史実ではこうです
半分しか当たっていません。「淀殿」も同時代の史料には出てきません。初めて現れるのは、茶々が亡くなった翌年、元和二年の『秀頼記』です。生きているあいだの記録では「淀の方」「淀の女房衆」などと書かれ、いずれも「様」付けでした。研究者のなかには、同時代に即して呼ぶなら「淀様」が正しい、とする見方もあります。

茶々が秀吉の側室になった経緯そのものが、後世にいろいろな色をつけて語られてきました。呼び名の問題も、その一部です。

本人の署名は「ちやちや」。秀吉からの手紙の宛名も同じです。茶々という名のほうが、よほど同時代に近いことになります。

では「淀君」はどこから来たのか

辞書は「江戸時代になってからの称」と書きます。ここまでは確かです。問題は、その先によく付け加えられる説明のほうです。

▽ よく語られる話
徳川の世になって、豊臣をおとしめるために「君」という遊女めいた字をあてて淀君と呼んだ。
▼ 史実ではこうです
根拠は、言われているほど強くありません。江戸時代には、摂関家から将軍家に嫁いだ正室たちも「君」付けで呼ばれています。「君」は身分の高い女性への敬称としても使われていました。しかも江戸のはじめに書かれた『太閤記』や『川角太閤記』に、悪女としての描写はありません。

では、いつ悪女になったのか。変わり目は江戸の後期です。寛政から享和にかけて出た『絵本太閤記』で、三成と組んで秀次を陥れるといった筋立てが加わり、嫉妬のあまり蛇に変じるといった超自然の描写まで出てきます。そして決定的だったのが明治の芝居でした。坪内逍遥の『桐一葉』が舞台にかかって以降、この呼び名とイメージが一般に広まります。

つまり悪女像をつくったのは、徳川の政策というより読み物と芝居です。茶々と石田三成の関係が実像以上に語られてきたのも、同じ流れのなかにあります。

鶴松が死んで城を壊した、わけではない

鶴松は天正十九年八月五日、数えで三つで亡くなりました。場所は淀城です。秀吉は髻を切って喪に服し、諸大名もこぞって剃髪しました。

この悲しみのあまり秀吉が淀城を取り壊した、という話があります。ただ、日付を並べると合いません。

▶ 淀古城が消えるまで
  • 天正十九年八月 鶴松が死去
  • 文禄元年八月 伏見城(指月)の築城がはじまる。鶴松の死の一年後
  • その間 淀城には木村重茲が十八万石で在城しており、城は機能していた
  • 文禄年間 伏見城の築城にあわせて淀古城を解体し、櫓などを移す。『駒井日記』『太閤記』
  • 文禄四年 秀次の事件で木村重茲が連座して自害。廃城となる

悲しみで壊したのではなく、秀吉の拠点が伏見へ移るのにあわせて解体された、というのが史料に素直な読み方です。天正十九年という年は秀長が死に、利休が死に、鶴松が死んだ年ですが、城の最期はもう少し後の話でした。

石は、めぐっていまの淀城へ

面白いのはここからです。淀古城の資材は伏見城へ運ばれました。その伏見城が元和九年に廃城になると、こんどはその資材が、新しく築かれる淀城へ流れ込みます。

いまの淀城の天守台と本丸の石垣を調べると、伏見城跡と同じ刻印を持つ石が確かめられています。別の城でありながら、物と物ではつながっている。もっとも、その石が淀古城から来たとまでは証明されていませんから、そこは想像の余地として置いておくのがよいでしょう。

天守にも寄り道の跡があります。廃城になった大和郡山城の天守が二条城へ移され、二条城の改修のときにそれが淀城へ移された、と伝えられています。伝承の域を出ませんが、もし本当なら、秀長が入った城の天守が、めぐりめぐって淀に立っていたことになります。その天守も宝暦六年の落雷で焼けました。

見に行くなら

▶ 淀をたずねる
  • 淀城跡公園 京阪淀駅のすぐそば。本丸の石垣、穴蔵式の天守台、水堀の一部。石碑が二本
  • 淀古城址 駅から北へ徒歩十分ほど、納所の妙教寺。境内に石碑が一本だけ。周囲の北城堀・南城堀・城之内といった地名が、城の名残
  • 注意 駅前の立派な石垣を見て「ここで鶴松が生まれた」と思いがちですが、生まれたのは北の妙教寺のあたりです

足をのばすなら、信長が安土城を描かせた屏風の話と同じで、残っていないものを想像しながら歩くことになります。地名だけが手がかりです。

なお、桂川の対岸でも室町時代の淀城の一部とみられる堀が新たに見つかっており、城の広がりはまだ確定していません。

よくある質問

淀古城の天守はあったのですか。
『駒井日記』に天守があったことが記されています。茶々が入ったのは、櫓や天守を備えた城でした。

鶴松はどこで生まれたのですか。
複数の日記が淀城と記しており、これが通説です。ただ、懐妊中に滞在していた茨木城で生まれた可能性を指摘する研究もあります。

鶴松が死んだあと、茶々はどこにいたのですか。
しばらく記録がはっきりしません。文禄二年までに大坂城の二の丸に移って二の丸殿と呼ばれ、慶長二年からは伏見城の西の丸にいました。秀長がもう十年生きていたら豊臣の跡目の話も違った形になっていたはずで、この時期の動きは大きな分かれ目です。

妙教寺には何がありますか。
石碑が一本と、南側に堀跡とされる水路。明治のころの地図には堀と土塁が描かれていましたが、いまは住宅と畑と小学校になっています。

まとめ

茶々が淀殿と呼ばれたのは、淀に住んだからです。その城は、産んだ褒美ではなく、産むために秀長が普請したものでした。「淀殿」も「淀君」も本人の生前には使われておらず、悪女の像は江戸後期の読み物と明治の芝居がつくったものです。そして現地に残る立派な石垣は、茶々の城のものではありません。

第三十九回「茶々の本心」では、秀長が茶々を兄に勧める場面が描かれる見込みです。織田の血を必要とした政権、という見方が下敷きにあるとすれば、淀城の話はその延長線上にあります。

放送と再放送
本放送は日曜 午後8時(NHK総合)、日曜 午後6時(NHK BS)、日曜 午後0時15分(BSプレミアム4K)。再放送は翌週土曜 午後1時05分(NHK総合)と、日曜 午後6時(BSプレミアム4K)です。
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