篠山城は、関ヶ原の戦いが終わったあとに徳川家康が命じて築かせた城です。目的ははっきりしていて、大坂城にまだ健在だった豊臣家と、西国の外様大名を押さえこむこと。縄張は築城の名手・藤堂高虎が引き、工事は西国二十家ほどの大名に自腹でやらせる天下普請で、着工からわずか六か月で完成しました。石垣も堀も馬出も一級品ですが、天守だけは最後まで建てられていません。堅固すぎる城をつくることを、命じた側がためらったとも伝えられます。合戦を一度も経験しないまま明治を迎えた城でありながら、いま残る石垣と堀は、当時の幕府が何を恐れていたかを正確に写しています。
- 大坂の豊臣家と西国大名を押さえるために、家康が築かせた城
- 縄張は藤堂高虎。西国二十家ほどによる天下普請で、六か月で完成
- 天守台は築かれたのに、天守は建てられなかった
- 三方に馬出を備えた、防御の教科書のような縄張
- 松井松平・藤井松平・形原松平・青山と城主が替わり、明治を迎えた
なぜ篠山に城を築いたのか

堀端から見上げた高石垣。右手に城内へ上がる石段が続いている。
篠山盆地は、京都から山陰へ抜ける道と、大坂から丹波を経て日本海側へ向かう道が交わる場所にあります。西国の大名が大坂や京へ兵を出すとしたら、通り道の一つが必ずここになる。逆にいえば、ここに城を置いて番をさせれば、西からの動きを早い段階で止められるということです。家康はこの土地の重みをよく理解していて、常陸の笠間城にいた松平康重をわざわざ丹波へ呼び寄せ、まず波多野氏の居城だった八上城に入れました。ところが八上城は高い山の上にある中世の山城で、街道と城下をまとめて押さえるには向いていません。そこで盆地の真ん中にある小さな丘、笹山に新しい城を築けと命じたのです。山の上の城から平地の城へ移る。これは篠山にかぎらず、この時代の日本中で起きた変化でした。
天下普請とは何だったのか

石垣の隅。長い石を交互に組んで角を固める算木積みで、隅の一本一本が驚くほど大きい。
天下普請というのは、幕府が自分の城を築くにあたって、資材も人足も費用もすべて大名たちに出させるやり方です。篠山城では西国を中心に二十家ほどが動員され、普請の総奉行は池田輝政がつとめたと伝わります。石を切り出し、船と修羅で運び、積み上げる。その費用はすべて動員された側の負担です。狙いは城を得ることだけではありません。大名の財力を削り、同時に幕府の命令にどれだけ素直に従うかを試す。従わなければそれが口実になるし、従えば懐が痛む。どちらに転んでも幕府が得をする仕掛けでした。同じ方法は豊臣政権もすでに使っていて、大坂城の築城で石と材木をどう集めたかを見ると、家康のやり方が秀吉の踏襲であることがよくわかります。写真の石垣の隅を見てください。角に使われている石の大きさが、ほかの部分とまるで違う。この一本を切り出して運ぶだけでどれほどの人手がかかったか、想像するとこの工事の重さが伝わってきます。
藤堂高虎の縄張 ― 三方に構えた馬出

水をたたえた堀と、その向こうに四角く張り出した区画。土手の上は生け垣で縁どられている。
篠山城の縄張を引いたのは藤堂高虎です。本丸と二の丸を内堀が囲み、その外側を三の丸と外堀が囲む。単純な形ですが、高虎が仕込んだのは出入口の造りでした。城門の外側に、堀で囲んだ四角い区画をもう一つ張り出させる。これを馬出(うまだし)といいます。攻める側は城門にたどり着く前に、この狭い区画へ入らなければならず、入った途端に三方から矢と鉄砲を浴びることになる。守る側から見れば、ここは兵を溜めて外へ討って出るための足場にもなります。篠山城は東・南・北の三方にこの馬出を備えていて、そのうちのいくつかが今も地形として残っています。高虎がどうやってこうした引き出しを手に入れたのかは、藤堂高虎はなぜ築城の名手になったのかにまとめました。同じ馬出でも、土で築いた山中城のそれとくらべると、石と水で固めた篠山の馬出がどれだけ新しい世代のものかがわかります。
なぜ天守は建てられなかったのか

石垣に囲まれた平坦地。奥に石段があり、縁は柵で仕切られている。建物はなく、地面に礎石らしい石が点々と残る。
天守がなくても城の機能は困りません。藩の政務は二の丸の御殿でおこなわれ、物見は櫓で足ります。むしろ幕末に近づくほど、天守は維持費ばかりかかる飾りになっていきました。仙台六十二万石が天守を建てなかった理由や、御三家でありながら石垣も天守も持たなかった水戸城と並べてみると、天守の有無が城の格とは別の話だということがよくわかります。
大書院 ― 城の中にあった巨大な御殿

石垣の下から見上げた大書院。深い軒と板張りの妻壁、白い障子が並ぶ。
篠山城でもう一つ見逃せないのが、二の丸に建つ大書院です。城主が公式の対面や儀式に使った建物で、城郭の中の書院としては全国でも指折りの大きさを誇ります。廃城のとき城内の建物はほとんど取り壊されましたが、この大書院だけは残され、学校や公会堂として使われ続けました。ところが昭和の戦中に火災で焼失してしまいます。いま建っているのは、残されていた図面と写真をもとに木造で復元されたもの。鉄筋コンクリートで外形だけをまねた復元天守とは違い、内部の梁や柱の組み方まで当時の工法に戻してあるので、入ってみると江戸時代の建物の中に立っている感覚が得られます。
歴代の城主 ― 四つの家が入れ替わった篠山藩
最初の城主は松平康重で、家康の命でこの城を預かりました。康重の家は松井松平家と呼ばれる系統です。そのあと藤井松平家、形原松平家と、いずれも徳川一門に連なる家が順に入り、最後に青山家が六万石で腰を落ち着けて明治維新まで続きました。城主が次々に替わっているのは篠山藩が不安定だったからではなく、むしろ逆で、幕府にとってこの城が重要だったからです。西国の押さえという役目を持つ城には、譜代か一門しか置けない。そして働きの良い家は別のもっと大きな役目へ動かされ、また次の家が入る。城主の交代そのものが、幕府がこの城をどう位置づけていたかの証拠になっています。同じことは、康重が篠山へ来る前にいた常陸の笠間城でも起きていました。
合戦を知らないまま終わった城
これだけの備えを持ちながら、篠山城は一度も攻められませんでした。大坂の陣では後方の拠点として機能しましたが、城そのものが戦場になることはなく、以後二百五十年あまり、ただ静かに丹波の街道を見張り続けます。明治になると多くの城と同じように建物は取り壊され、堀と石垣、そして大書院だけが残りました。皮肉なようですが、戦わなかったからこそ焼けず、崩されず、高虎が引いた縄張がそのままの形で今日まで届いたともいえます。八上城のように激しい籠城戦を経験した城が土塁と削平地だけの姿になっているのとくらべると、篠山城の石垣の残り方は際立っています。
訪ね方と見どころ
所在地は兵庫県丹波篠山市北新町。日本100名城の五十七番に選ばれていて、スタンプは大書院の受付にあります。見るべき順番としては、まず堀の外側を一周して馬出の張り出しを地形として体に入れ、それから表門をくぐるのがおすすめです。城内に入ってしまうと、この城の主役である馬出が見えなくなってしまうからです。二の丸では大書院に上がり、その奥へ進むと天守台。石垣の上に立って、ここに天守が乗るはずだったのだと考えながら盆地を見わたすと、この城が何を睨んでいたのかが実感できます。石垣では隅の算木積みと、石の表面に残る刻印を探してみてください。刻印は普請を割り当てられた大名が「ここは自分の分担だ」と示したしるしで、天下普請の痕跡がそのまま石に残っています。城を出たら、東へ少し歩くと妻入の商家が並ぶ古い町並みがあり、こちらも合わせて歩く価値があります。日本100名城の一覧もどうぞ。
篠山藩/青山家6万石:青山忠敏 藩論が佐幕・尊皇に割れたが西園寺公望引きいる新政府軍が城下に迫ると恭順した篠山藩
篠山城の地を治めた篠山藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。
篠山城跡・場所とアクセス
〒669-2332 兵庫県丹波篠山市北新町2-3
城の基本用語:曲輪・堀・土塁・虎口・馬出をイラストで読み解く
案内板に出てくる言葉を、断面図と配置図でまとめました。
