野田城:今川家や武田信玄に攻められ2度の降伏をした菅沼定盈の野田城【日本の歴史 お城特集】

野田城/アクセス・場所・地図 今川家や武田信玄に攻められ2度の降伏をした菅沼定盈の野田城【日本の歴史 お城特集】

【城名】
野田城

【城の説明】
野田城は愛知県新城市にあり戦国時代初期に菅沼氏によって築かれた。
本丸、二の丸、三の丸があり、天然の要害として知られていた。

もともと今川氏に従っていた「菅沼定盈」は桶狭間の戦い後に離反するが、同時に今川軍に攻められてしまい城を退去する。その後、定盈は夜襲によって野田城を奪い返している。

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三河を松平元康(徳川家康)が統治するとこれに従った。元亀2年(1571年)、武田信玄が京都へ攻めのぼる姿勢を示し、三河へ進行してくると野田城には「山県昌景」の別働隊が押し寄せた。

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水の手を断たれた定盈は降伏・開城し家康の本拠浜松城へ退去した。主君である家康が関東へ移封されるとこれに従い、のちにこの地の城主となった「池田輝政」により野田城は廃城となり取り壊された。

なお、武田信玄が野田城を攻めた際に、城から聞こえる笛の音を聞きに出てきた信玄を狙撃したという話があるが、菅沼家の史料にも陣中が騒がしくなったとは書かれているが命中したとは書かれておらず、その真相はわかっていない。

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【野田城・場所・アクセス】
〒441-1345 愛知県新城市豊島本城






【野田城地図】



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