竹中半兵衛はなぜ信長の命に背いて松寿丸を守ったのか|官兵衛と半兵衛の立場、二人の子、関ヶ原で並んだ黒田長政と竹中重門

山城の御殿で碁を打つ竹中半兵衛のイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 天正6年(1578)、有岡城へ荒木村重の説得に向かった黒田官兵衛が戻らず、信長は官兵衛が寝返ったと考えて、人質の松寿丸(のちの黒田長政)を殺すよう命じたと伝わります
  • 竹中半兵衛はこの命令に背き、松寿丸を美濃の自分の領地にかくまって命を救いました。半兵衛は秀吉の与力、官兵衛は播磨の小寺家の家老で、ともに秀吉のもとで中国攻めを支える立場でした
  • 半兵衛は翌年、三木城を囲む陣中で36歳で亡くなり、官兵衛が救い出されたとき、すでにこの世にいませんでした。半兵衛の子・重門は当時まだ7歳でした
  • この恩から黒田家と竹中家の縁は続き、関ヶ原では東軍に転じた竹中重門が、幼なじみの黒田長政と並んで戦いました。黒田家は福岡52万石の大名に、竹中家は美濃岩手の旗本として、それぞれ幕末まで続きます

『豊臣兄弟!』では、菅田将暉さんが竹中半兵衛を、倉悠貴さんが黒田官兵衛を演じ、「二兵衛」と呼ばれた秀吉の二人の軍師が描かれました。二人の関係を語るうえで欠かせないのが、半兵衛が信長の命令に背いてまで、官兵衛の一人息子・松寿丸を守った出来事です。この記事では、そのとき二人がどんな立場にあったのか、二人の子どもたちはどうなったのか、そして黒田家と竹中家のその後までを紹介します。

山城の御殿で碁を打つ竹中半兵衛のイメージイラスト
竹中半兵衛のイメージ(イメージイラスト)
目次

そのとき二人はどんな立場だったのか

天正6年(1578)ごろの二人の立場を整理すると、次のようになります。

竹中半兵衛 黒田官兵衛
生まれ 天文13年(1544)、美濃 天文15年(1546)、播磨
主君 織田信長(秀吉の与力として秀吉の下で働く) 播磨・御着城の小寺政職(家老で姫路城を預かる)
役目 秀吉の参謀。美濃・菩提山城の城主 秀吉の中国攻めの案内役。姫路城を秀吉に差し出す
子 嫡男・吉助(のちの重門)。天正元年(1573)生まれ 一人息子・松寿丸(のちの長政)。永禄11年(1568)生まれ
天正6年の年齢 35歳 33歳

大事なのは、官兵衛がもともと信長の家臣ではなかったことです。官兵衛は播磨の小寺家の家老で、織田方につくことを主家に勧め、自分の居城の姫路城を秀吉に差し出しました。信長から見れば、外から味方についた者です。その忠誠の証として、官兵衛は一人息子の松寿丸を人質に出していました(御着城跡)。

一方の半兵衛は、美濃の出身で、信長の命で秀吉の与力となり、秀吉のそばで作戦を支えていました。同じ秀吉の下で働く二人は、立場こそ違いましたが、中国攻めの両輪でした(竹中半兵衛とは)。

人質・松寿丸

天正5年(1577)、官兵衛は10歳の松寿丸を人質として差し出しました。松寿丸は秀吉の長浜城で、寧々のもとで育てられたと伝わります。人質は、主君を裏切れば殺されることもある存在でした(石川数正はなぜ家族を連れて出奔できたのか|戦国の人質と離反の明暗)。

長浜城
松寿丸が人質として過ごしたと伝わる秀吉の長浜城(長浜城)

信長の命令 ─ 「松寿丸を殺せ」

天正6年(1578)10月、摂津の荒木村重が信長に背いて有岡城に立てこもりました。官兵衛は村重を説得するため単身で有岡城に向かいますが、そのまま捕らえられ、城内の牢に閉じこめられてしまいます(有岡城跡/荒木村重の結末とは)。

官兵衛が戻らないことを知った信長は、官兵衛も村重に寝返ったと考えました。そして、人質の松寿丸を殺すよう命じたと伝わります。主家の小寺政職が村重に同調していたことも、信長の疑いを強めました。

半兵衛はなぜ命令に背いたのか

このとき半兵衛は、松寿丸をひそかに美濃の自分の領地へ移してかくまい、信長には殺したことにして命を救ったと伝わります。江戸時代に黒田家がまとめた『黒田家譜』では、松寿丸は美濃国不破郡岩手の菩提山城の城下にかくまわれたとされ、家臣の不破矢足の屋敷にいたという言い伝えも残ります(菩提山城)。

半兵衛がなぜ信長の命令に背いたのか。その理由として、次の三つが考えられます。

① 官兵衛は裏切っていないと信じた

半兵衛は、官兵衛の人柄を見て、寝返るような人物ではないと考えていたと伝わります。官兵衛が戻らないのは何か事情があるからで、その子を殺せば取り返しがつかない、という判断でした。

② 黒田家を敵に回せば中国攻めが崩れる

官兵衛は、秀吉の中国攻めの案内役でした。もし松寿丸を殺し、官兵衛が実は無事だったとしたら、黒田家は織田方を恨み、播磨の情勢は一気に崩れてしまいます。秀吉の参謀として、半兵衛はその危うさをよくわかっていました。

③ 自分の命が長くないと知っていた

このころ半兵衛は、すでに重い病をかかえていました。信長の命令に背けば、自分が責めを負うことになります。それでも、残り少ない命をかけて、仲間の子を守る道を選んだと考えることもできます。

▽ よく語られる話
半兵衛は信長をあざむいて、ひとりの判断で松寿丸を救った。秀吉も何も知らなかった。
▼ 史実ではこうです
この話は主に『黒田家譜』など江戸時代の記録に見えるもので、細かな経緯には不確かな点もあります。半兵衛が亡くなったあとも松寿丸が無事だったことなどから、秀吉も事情を知っていた可能性が高いとみる見方もあります。

半兵衛の死と、官兵衛の救出

天正7年(1579)6月、半兵衛は播磨の三木城を囲む平井山の陣中で亡くなりました。36歳でした。息子の重門は、まだ7歳でした(三木合戦 完全ガイド)。

その年の11月、有岡城が落ちると、官兵衛は約1年ぶりに救い出されました。長い牢暮らしで足を悪くした官兵衛は、そこで初めて、殺されたはずの松寿丸が生きていたことを知ります。命の恩人の半兵衛は、すでにこの世にいませんでした(黒田官兵衛(如水)とは)。

有岡城跡
官兵衛が約1年閉じこめられた有岡城の跡(有岡城跡)

関ヶ原 ─ 黒田長政と竹中重門

それから21年後の慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起きます。かつての松寿丸、黒田長政は東軍の中心として活躍し、小早川秀秋らの寝返りを仕掛けた立役者でした(黒田長政とは)。

一方、半兵衛の子・竹中重門は、美濃の岩手に5000石ほどの領地をもつ豊臣大名でした。重門ははじめ西軍につき、犬山城の守りに加わっていましたが、井伊直政の仲介で東軍に転じます。関ヶ原は竹中家の領地のすぐそばで、本戦では、幼なじみの黒田長政の隊と並んで戦いました。関ヶ原の古戦場には、いまも黒田長政と竹中重門の陣跡が並んで残っています。

戦いのあと、重門は伊吹山中に逃れていた西軍の小西行長を捕らえて家康のもとへ送り、領地を安堵されました。父が救った松寿丸と、その子の重門が、21年後に同じ陣で戦ったのです。

陣中で書状をしたためる黒田長政のイメージイラスト
関ヶ原で東軍の調略を担った黒田長政のイメージ(イメージイラスト)

黒田家と竹中家 ─ 分かれた運命

関ヶ原のあと、二つの家は大きく違う道を歩みます。

黒田家 竹中家
関ヶ原のあと 長政が筑前52万石余を与えられ、福岡藩主に 重門が美濃岩手6000石を安堵され、旗本に
江戸時代 福岡藩主として幕末まで続く 交代寄合(大名に準じる旗本)として幕末まで続く
本拠 福岡城 竹中氏陣屋(岐阜県垂井町)
二つの家の縁 重門の子・重次は黒田家の縁で福岡藩に仕えた

黒田家は福岡52万石の大大名として、竹中家は美濃の旗本として、規模は大きく違いました。それでも二つの家の縁は続き、重門の子の一人は、黒田長政との縁から福岡藩に仕えています。半兵衛が守った一つの命が、二つの家を江戸時代までつないだのです。

なお竹中一族からは、半兵衛のいとこの竹中重利が豊後府内の大名となり、府内城を築いています(大分府内城)。

福岡城跡
黒田長政が築いた福岡城(福岡城跡)
竹中氏陣屋跡の櫓門
竹中家が江戸時代を通じて構えた竹中氏陣屋の跡(岐阜県垂井町)
▷ 大河ドラマ『豊臣兄弟!』では
『豊臣兄弟!』では菅田将暉さんが竹中半兵衛を、倉悠貴さんが黒田官兵衛を演じました。松寿丸をめぐる二人の物語が、どのように描かれたのかもあわせて振り返ってみてください。

よくある質問

Q. 竹中半兵衛はなぜ松寿丸を助けたのですか?
A. 官兵衛が裏切ったとは考えられなかったこと、黒田家を敵に回せば秀吉の中国攻めが崩れることなどが理由と考えられます。信長の命令に背き、美濃の自分の領地にかくまったと伝わります。

Q. 松寿丸はどこにかくまわれたのですか?
A. 『黒田家譜』では、美濃国不破郡岩手の菩提山城の城下とされます。家臣の不破矢足の屋敷にいたという言い伝えもあります。

Q. 竹中半兵衛はいつ亡くなりましたか?
A. 天正7年(1579)6月、三木城を囲む平井山の陣中で亡くなりました。36歳でした。官兵衛が有岡城から救い出される前のことです。

Q. 竹中重門は関ヶ原でどちらについたのですか?
A. はじめは西軍でしたが、井伊直政の仲介で東軍に転じ、本戦では幼なじみの黒田長政の隊と並んで戦いました。

Q. 黒田家と竹中家は江戸時代どうなりましたか?
A. 黒田家は福岡藩52万石余の大名として、竹中家は美濃岩手の旗本(交代寄合)として、それぞれ幕末まで続きました。

まとめ

竹中半兵衛は、信長の命令に背いてまで、黒田官兵衛の一人息子・松寿丸を守りました。官兵衛は裏切っていないという信頼と、秀吉の中国攻めを守る判断があったと考えられます。半兵衛は官兵衛の救出を見届けずに亡くなりましたが、救われた松寿丸は黒田長政となり、関ヶ原では半兵衛の子・重門と並んで戦いました。福岡の大名と美濃の旗本、規模は違っても、二つの家は半兵衛が守った命でつながり、幕末まで続いたのです。

参考:『黒田家譜』/『信長公記』/『寛政重修諸家譜』

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