家康が大仏に献上したのは本当に1本のヒノキだったのか|『豊臣兄弟!』第44回 富士の巨木と大仏殿の材木集め

雪をかぶった富士山を背景に、しめ縄を巻いた巨大な丸太を人足たちが綱で引いて川べりへ運ぶイメージ(イラスト)
この記事のポイント
  • 『豊臣兄弟!』第44回では、大仏の材木として諸大名が大木を献上するなか、家康がたった1本、富士の浅間大明神のご神木を差し出し、秀吉が「さすがは家康よ」と喜ぶ場面があるようです
  • 史実でも、秀吉は京の大仏殿のために諸大名に巨木を出させました。家康は富士山麓の巨木を運んだとされ、ドラマの場面にはこの伝えが下敷きにあるとみられます
  • ただし、それが浅間大社のご神木だったという記録は見当たらず、運ぶのに黄金千両をかけたという話も伝承です
  • 島津家には大仏殿の柱1本と、百姓から取りあげた刀・脇差3万腰を出すよう命じた記録が残っています。足りない材木は、秀長の熊野の山から切り出されました

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第44回「ある家臣の死」は、秀吉が京に建てる大仏の材木集めから始まるようです。前田利家や宇喜多秀家、宮部継潤らが見事な大木を献上するなか、家康から届いたのはたった1本のヒノキ。いぶかしむ周囲をよそに、それが富士の浅間大明神のご神木だと聞いた秀吉は、「さすがは家康よ」と上機嫌になる──。伝えられているあらすじでは、そんな場面が描かれるようです。では、家康が富士の木を大仏のために差し出したというのは本当なのでしょうか。

造営中の方広寺大仏殿と大仏のイメージ(イラスト)
造営中の方広寺大仏殿と大仏のイメージ(イラスト)
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結論:富士山麓の巨木を運んだという伝えはある

京の大仏殿の造営では、諸大名に巨木を出すよう命じられ、家康は富士山麓の巨木を運んだとされています。ドラマの場面は、この伝えをもとにしたものとみられます。

一方で、その木が富士山本宮浅間大社のご神木だった、という記録は見当たりません。家康が巨木を運ぶのに黄金千両をかけた、という話も伝わっていますが、これも伝承の域を出ません。ドラマは「1本だけ」「ご神木」という形にして、家康のしたたかさを描こうとしているのでしょう。

京の大仏と、材木集め

秀吉が京に大仏を建てると決めたのは天正14年(1586)のことです。いったん計画が止まったのち、天正16年(1588)に三十三間堂の北に場所を移して工事が再開されました。同じ年の7月に出された刀狩令には、取りあげた刀や脇差を「大仏の釘やかすがいにする」と書かれています(方広寺の大仏とは)。

奈良の東大寺をしのぐ大仏殿を建てるには、とてつもない大きさの柱が何本も必要でした。秀吉は諸大名に巨木の提供を命じ、各地から材木が京へ運ばれました。

徳川家康 富士山麓の巨木を運んだとされる(黄金千両をかけたという話は伝承)
島津家 天正17年(1589)、大仏殿の柱1本と、百姓から取りあげた刀・脇差3万腰を出すよう命じられる(『島津家文書』)。屋久杉を出したという伝えもある
豊臣家(秀長) 秀吉の直轄地となった紀州熊野の山から大量の材木を切り出す。差配したのは秀長の家臣・吉川平介

家康と富士山

家康はこのころ、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5か国を治め、駿府を本拠にしていました。富士山とそのふもとの森は、まさに家康の領国のなかにあったのです。富士山麓から切り出した巨木は、富士川などを使って海へ運び、船で上方へ送ったと考えられます。

富士山本宮浅間大社は、富士山をご神体としてまつる駿河一宮で、家康はのちに慶長9年(1604)、関ヶ原の勝利のお礼として社殿を造営しています。ドラマが家康の献上品を「浅間大明神のご神木」としたのは、家康と富士山、浅間大社との深い結びつきをふまえた脚色とみられます。

たくさんの大木を並べるのではなく、ただ1本の、しかも神さまの木を差し出す。秀吉の顔を立てつつ、自分の領国の富と格を見せる、いかにも家康らしいやり方として描かれそうです(家康は刀狩りに従わなかったのか)。

熊野の材木と、吉川平介の悲劇

あらすじでは、秀吉はこのあと、残りの材木はすべて直轄地の熊野から切り出すよう命じ、その総責任者に秀長を任じるようです。熊野の山で実際に木を切り出したのが、秀長の家臣で山奉行の吉川平介でした。史実の平介は、この材木をめぐる不正をとがめられて処刑されます。第44回のタイトル「ある家臣の死」は、この平介のことです(熊野の木はなぜ豊臣政権に狙われたのか、第44回「ある家臣の死」あらすじ予想と史実)。

東大寺の大仏殿を参道から望む
奈良・東大寺の大仏殿。秀吉の京の大仏殿は、これをしのぐ規模で計画された

その後の大仏殿

大仏殿の柱立ては天正19年(1591)5月に始まり、文禄2年(1593)に棟上げ、文禄4年(1595)ごろにはほぼできあがったと考えられています。ところが翌年の慶長伏見地震で、開眼前の大仏が壊れてしまいました。大仏殿そのものは倒れずに残ったものの、秀吉の大仏はついに開眼されないまま終わります。のちに秀頼が再建した大仏殿の鐘の銘文が、大坂の陣のきっかけとなる方広寺鐘銘事件を生むことになります。

よくある質問

Q. 家康は大仏のために富士山の木を献上したのですか?
A. 富士山麓の巨木を運んだとされています。ただし浅間大社のご神木だったという記録は見当たりません。

Q. 大仏殿の材木はどこから集められましたか?
A. 諸大名が巨木を出したほか、秀吉の直轄地だった紀州熊野から大量の材木が切り出されました。

Q. 京の大仏はいつ完成しましたか?
A. 文禄4年(1595)ごろにほぼ完成したと考えられていますが、翌年の地震で開眼前の大仏が壊れました。

まとめ

『豊臣兄弟!』第44回で描かれるという、家康の「1本のヒノキ」。史実でも家康は、京の大仏殿のために富士山麓の巨木を運んだとされ、ドラマの場面にはこの伝えが下敷きにあるとみられます。浅間大社のご神木という設定は脚色ですが、富士山を領国に持つ家康ならではの献上品として、秀吉と家康の駆け引きを象徴する場面になりそうです。

参考:Wikipedia「京の大仏」「方広寺」

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