- 天下三宗匠(てんかさんそうしょう)とは、信長と秀吉に茶頭として仕えた、堺の今井宗久・津田宗及・千利休の三人をいいます
- 三人とも堺の商人で、わび茶を広めた武野紹鴎(たけのじょうおう)の流れをくんでいます。宗久は紹鴎の弟子で娘婿、宗及は紹鴎と親しかった天王寺屋の跡取り、利休は紹鴎に学んだ魚問屋の子でした
- 信長の時代は宗久が先頭に立ち、秀吉の時代は利休が筆頭になりました。天正15年(1587)の北野大茶湯では、秀吉とこの三人が茶頭を務めています
- その後、利休と宗及は天正19年(1591)に、宗久は文禄2年(1593)に世を去り、三人の時代は秀長の死とともに終わっていきました
天下三宗匠とは、今井宗久・津田宗及・千利休の三人のことです。堺の豪商として信長に近づき、茶頭(さどう)として天下人の茶会を取りしきりました。『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」では、この三人が秀吉とともに茶をふるまう場面が描かれそうです。この記事では、三人の出身と家業、師匠とのつながり、茶の好み、そして最期までを比べながら紹介します(北野大茶湯とは)。

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三人を一覧で比べる
まずは三人の違いを表にまとめます。三人とも堺の会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる有力商人の仲間で、茶の湯は商売と政治の両方につながる「つきあいの道具」でもありました(戦国の商人はどうやって成功したのか)。
| 今井宗久 | 津田宗及 | 千利休 | |
|---|---|---|---|
| 生没年 | 永正17年(1520)〜文禄2年(1593) | 生年不詳〜天正19年(1591) | 大永2年(1522)〜天正19年(1591) |
| 家業 | 納屋(倉庫業)。鉄砲・火薬も扱った | 天王寺屋。貿易と金融 | 魚問屋(ととや) |
| 紹鴎との関係 | 弟子で、娘婿 | 父の宗達が紹鴎と親しかった | 紹鴎に学んだとされる(その前は北向道陳) |
| 信長のもとで | いち早く名物を献上し、代官に | 茶頭として茶会に出仕 | 茶頭の一人。まだ三番手 |
| 秀吉のもとで | 三番手に下がる | 二番手として重用 | 筆頭の茶頭。政治の相談役にも |
| 残したもの | 『今井宗久茶湯日記抜書』 | 『天王寺屋会記』 | わび茶の大成、二畳の茶室 |
師匠は武野紹鴎 ─ 三人をつなぐ人
武野紹鴎は堺の革屋の主人で、村田珠光が始めた簡素な茶を、町衆の茶として広めた人です。豪華な唐物(中国渡りの道具)をただ並べるのではなく、ありあわせの道具にも美しさを見る「わび」の考え方を育てました(わび茶の美意識はどう変わったのか)。
今井宗久は紹鴎の弟子で、のちに娘婿となり、紹鴎が持っていた名物道具を受け継いだと伝わります。津田宗及の家・天王寺屋は、父の宗達の代から紹鴎と深く交わっていました。千利休は、はじめ北向道陳に茶を学び、のちに紹鴎の門に入ったとされます。三人は、同じ堺の同じ師匠の流れから出てきた、いわば同門の仲間でした。
信長の時代 ─ 先頭は宗久だった
永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて上洛した信長に、真っ先に近づいたのが今井宗久です。名物の茶入「紹鴎茄子」や茶壺「松島」を献上し、堺の近くの五箇荘(ごかしょう)の代官を任されました。のちには但馬の生野銀山にもかかわり、鉄砲や火薬を調えるなど、茶人というより信長の御用商人として働いています。
信長は名物の茶道具を集め、手柄を立てた家臣に茶会を開く許しを与えるなど、茶の湯を家臣の統制に使いました。のちに「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」と呼ばれるやり方です。その茶会を仕切ったのが宗久・宗及・利休の三人で、この時代の序列は宗久が先頭、利休は三番手でした。信長に仕えた堺の人では、右筆で堺の代官も務めた松井友閑も茶の湯に通じた側近の一人です(秀吉はなぜ千利休を切腹させたのか)。
秀吉の時代 ─ 筆頭は利休に
本能寺の変のあと、三人はそのまま秀吉の茶頭になります。ところが序列は入れ替わりました。秀吉がもっとも重く用いたのは利休で、宗及がそれに次ぎ、信長のころ先頭だった宗久は三番手に下がります。
利休は茶の湯だけでなく、大名との取次も任されるようになりました。天正14年(1586)に大坂城を訪ねた大友宗麟は、「内々のことは宗易(利休)に、公儀のことは宰相(秀長)に」と聞かされています(大友宗麟の大坂城訪問)。宗及も、九州攻めや北野大茶湯で秀吉の茶会に欠かせない人でした。いっぽう、信長に重用された堺の人びとは、秀吉の代になって一歩引いた立場になることが多く、宗久の扱いや、天正14年に堺の代官を外された松井友閑はその例です。
茶の好みはどう違ったのか
三人の好みの違いは、残した記録からうかがえます。宗及の家に伝わる『天王寺屋会記』は、宗達・宗及・宗凡の三代が、だれと、どの道具で茶会をしたかを細かく書きとめた記録で、唐物の名物を大切にする茶の様子がよくわかります。宗久も名物を多く持ち、信長や秀吉への献上に使いました。
利休は、名物をもちながらも、それに頼らない茶を進めました。二畳ほどの狭い茶室や、黒い楽茶碗に見られる、飾りを削ぎ落とした茶です。秀吉の黄金の茶室とは向いている方向が違いますが、北野大茶湯では、その黄金の茶室と利休の茶が同じ境内に並びました(秀吉の黄金の茶室とは)。
三人の最期 ─ 秀長の死とともに終わった時代
天正19年(1591)は、三宗匠の時代が終わった年でした。1月に豊臣秀長が亡くなり、2月28日に利休が秀吉の命で切腹します。4月には津田宗及も世を去りました。今井宗久は文禄2年(1593)まで生き、74歳で亡くなっています(天正十九年に何が起きたのか)。
利休の死の理由はいまもはっきりしませんが、秀吉に直言できた秀長と利休が相次いでいなくなったことで、豊臣政権の空気は大きく変わっていきます。利休の茶は、古田織部や細川忠興ら弟子たちに受け継がれました(千利休の弟子たちはどうなったのか)。
よくある質問
Q. 天下三宗匠とはだれですか?
A. 今井宗久・津田宗及・千利休の三人です。いずれも堺の豪商で、信長と秀吉に茶頭として仕えました。
Q. 天下三宗匠の師匠はだれですか?
A. 三人とも武野紹鴎の流れをくんでいます。宗久は紹鴎の弟子で娘婿、宗及の家は父の代から紹鴎と親しく、利休も紹鴎に学んだとされます。
Q. 三人の中でいちばん偉かったのはだれですか?
A. 信長の時代は今井宗久、秀吉の時代は千利休が筆頭でした。
Q. 天下三宗匠は北野大茶湯に参加しましたか?
A. はい。天正15年(1587)の北野大茶湯では、秀吉とこの三人が茶頭を務めました。
まとめ
天下三宗匠は、武野紹鴎の流れをくむ堺の三人の茶人でした。信長の時代は御用商人の顔も持つ今井宗久が先頭に立ち、秀吉の時代は千利休が政治の相談役にまで進みます。記録の人・津田宗及は、その両方の時代を茶頭として支えました。北野大茶湯で四つの茶席が並んだのは、三人がそろった最後の晴れ舞台だったともいえます。そして天正19年、秀長の死と前後して利休と宗及が世を去り、一つの時代が終わりました。
参考:『天王寺屋会記』/『今井宗久茶湯日記抜書』/熊倉功夫『茶の湯の歴史』朝日選書/桑田忠親『千利休』中公新書

