淀城:茶々が鶴松を産んだ「淀殿」の名の由来 ─ 秀長が改修した淀古城と、徳川の淀城跡の見どころ・アクセス

三つの川が合流する水辺の淀古城のイメージイラスト
この記事のポイント
  • 「淀城」と呼ばれる城は二つあります。一つは戦国時代の淀古城(京都市伏見区納所)、もう一つは江戸時代に徳川幕府が築いた淀城(伏見区淀本町)で、場所も時代も別の城です
  • 天正17年(1589)、秀吉は弟の豊臣秀長に淀古城を改修させ、懐妊した茶々に与えました。茶々はこの城で長男・鶴松を産み、「淀の方」「淀殿」と呼ばれるようになります
  • 鶴松は天正19年(1591)に三歳で亡くなり、淀古城も文禄4年(1595)の秀次事件のあとに廃城となりました。いまは妙教寺の境内に石碑が残るだけです
  • 徳川の淀城は寛永2年(1625)ごろ、松平定綱が築き、のちに稲葉氏十万石の城となりました。京阪「淀駅」のすぐ近くに、本丸の石垣と堀が残ります

淀城(よどじょう)は、京都の南、桂川・宇治川・木津川が合流するあたりに築かれた城です。大河ドラマ『豊臣兄弟!』の時代に深く関わるのは、秀吉が茶々のために用意した戦国時代の「淀古城」で、茶々が「淀殿」と呼ばれるのは、この城に由来します。一方、京阪の淀駅前に石垣が残る「淀城跡」は、江戸時代に徳川幕府が新しく築いた別の城です。この記事では、二つの淀城の歴史と、いまの城跡の見どころ・アクセスを紹介します。茶々の一生は茶々(淀殿)の生涯でくわしく紹介しています。

三つの川が合流する水辺の淀古城のイメージイラスト
淀古城のイメージ。三つの川が合流する水辺の城で、茶々は鶴松を産みました(イメージイラスト)
目次

二つの淀城 ─ 淀古城と徳川の淀城

淀古城 淀城(徳川期)
場所 京都市伏見区納所 京都市伏見区淀本町(淀城跡公園)
時代 室町時代〜文禄4年(1595) 寛永2年(1625)ごろ〜明治
主なできごと 秀長が改修し茶々が鶴松を産む 稲葉氏十万石の城。鳥羽・伏見の戦いの舞台
いまの姿 妙教寺の境内に石碑のみ 本丸の石垣と堀の一部が残る

二つの城は、直線で一キロほどしか離れていません。淀は、京都と大坂を結ぶ水運の要で、川を行き来する船を押さえる場所として、時代が変わっても城が置かれ続けたのです。

淀古城 ─ 室町から戦国の城

淀古城の名が記録に現れるのは、室町時代の文明10年(1478)のことです。山城国の守護所が置かれ、細川氏の家臣たちが守る城として、京都をめぐる争いのたびに戦いの舞台となりました。永禄11年(1568)には織田信長の上洛にともなって焼き討ちにあい、天正元年(1573)には三好三人衆の一人・岩成友通が籠もった淀城を、信長の命を受けた羽柴秀吉らが攻め落としています。

秀長が改修し、茶々が鶴松を産んだ城

天正17年(1589)、茶々が秀吉の子を身ごもると、秀吉は弟の豊臣秀長に命じて淀古城を改修させ、茶々の産所として与えました。『豊臣兄弟!』の主人公・秀長が、兄の跡継ぎが生まれる城を整えたことになります(豊臣秀長とは)。

同じ年の5月、茶々はこの城で男の子を産みました。秀吉にとって、五十代になって初めて育つ見込みのある実子で、のちの鶴松です。茶々はこれ以後、城の名をとって「淀の方」「淀殿」と呼ばれるようになります。ただし「淀殿」は後世に広まった呼び名とされます。呼び名の由来は茶々はなぜ「淀殿」と呼ばれたのかでくわしく書いています。

▽ よく語られる話
茶々は「淀君」と呼ばれ、当時から淀城の主として権勢をふるっていた。
▼ 史実ではこうです
「淀君」という呼び名は江戸時代以降の読み物や芝居で広まったもので、当時の史料には見えません。茶々が淀古城にいたのは、鶴松が生まれてから大坂城や聚楽第へ移るまでの短い期間でした。

しかし、鶴松は天正19年(1591)8月、わずか三歳で亡くなります。同じ年の正月には秀長も病で世を去っており、豊臣家は一年のうちに弟と跡継ぎを失いました。秀吉の子どもたちについては秀吉に実子はいたのかでまとめています。

淀古城の廃城 ─ 秀次事件とともに

鶴松の死後、秀吉は甥の秀次に関白を譲り、淀古城は秀次の家臣・木村重茲が守る城となりました。ところが文禄4年(1595)、秀次は謀反の疑いをかけられて切腹し、木村重茲も罪に問われます。これにともなって淀古城は廃城となりました(秀次事件はなぜ妻子三十九人にまで及んだのか)。城の資材は、秀吉が新たに築いていた伏見城に使われたとも伝わります(伏見桃山城)。

淀古城の跡地は、いまでは住宅地や畑、小学校になっています。わずかに妙教寺(京都市伏見区納所北城堀)の境内に「淀古城址」の石碑が立ち、「北城堀」という地名に城の面影が残るだけです。

徳川の淀城 ─ 二条城の天守を移した城

江戸時代のはじめ、伏見城が廃城になると、幕府はその代わりとなる城を淀に築くことにしました。命を受けたのは松平定綱で、元和9年(1623)に工事が始まり、寛永2年(1625)ごろにほぼ完成します。天守は、二条城にあった天守を移したものと伝わり、伏見城の資材も使われたといわれます。

城主はたびたび替わり、寛文9年(1669)からは石川数正の叔父・石川家成の家を継いだ石川憲之も城主を務めました(もう一つの石川家)。享保8年(1723)に稲葉正知が十万石余りで入ってからは、幕末まで稲葉氏の城となりました。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは、敗れて退いてきた旧幕府軍が淀城に入ろうとしましたが、淀藩はこれを拒んで城門を閉ざします。藩主の稲葉正邦は当時、幕府の老中という立場でしたが、留守を預かる家臣たちは新政府軍と戦わない道を選んだのです。

いまの淀城跡 ─ 見どころ

徳川の淀城跡は、いま「淀城跡公園」として整備され、本丸の石垣と堀の一部が残っています。とくに見ごたえがあるのが天守台の石垣で、上にのぼると天守の礎石の跡を見ることができます。本丸の一角には、城主だった稲葉氏の祖先をまつる稲葉神社があります。春には堀端の桜も見どころです。

淀古城の石碑が立つ妙教寺までは、淀城跡から歩いて二十分ほどです。二つの淀城をあわせてめぐると、茶々の時代と江戸時代の淀の姿を重ねて感じることができます。茶々が鶴松のあとに秀頼を産んだのは大坂城でした(大阪城)。

▷ 大河ドラマではどう描かれるか(放送前の予想)
『豊臣兄弟!』では、茶々を井上和さんが演じます。第39回「茶々の本心」で茶々が秀吉の側室となる流れが描かれたあと、懐妊と、秀長が淀城を整える場面が出てくる可能性があります。放送後にこの枠を更新します。

淀城跡・淀古城跡の場所・アクセス

淀城跡(淀城跡公園)
住所:京都府京都市伏見区淀本町
見学:自由
入場料:無料
電車:京阪本線「淀駅」から徒歩すぐ
車:京滋バイパス「久御山淀インターチェンジ」から約5分。周辺に有料駐車場あり

淀古城跡(妙教寺)
住所:京都府京都市伏見区納所北城堀
電車:京阪本線「淀駅」から徒歩約20分

淀城についてよくある質問

Q. 茶々(淀殿)が住んでいたのはどちらの淀城ですか?
A. 戦国時代の淀古城(伏見区納所)です。京阪淀駅前に石垣が残る淀城跡は、江戸時代に徳川幕府が築いた別の城です。

Q. 淀古城を改修したのは誰ですか?
A. 天正17年(1589)、秀吉の命を受けた弟の豊臣秀長が改修し、茶々の産所としました。

Q. 鶴松はどこで生まれたのですか?
A. 天正17年5月、淀古城で生まれました。茶々が「淀殿」と呼ばれるのはこのためです。

Q. 淀城跡に天守はありますか?
A. 天守はありません。徳川期の淀城の天守台の石垣と、本丸の堀の一部が残っています。

Q. 入場料はかかりますか?
A. 淀城跡公園は無料で、見学も自由です。

まとめ

淀城には、秀長が改修して茶々が鶴松を産んだ戦国時代の淀古城と、江戸時代に徳川幕府が築き稲葉氏が治めた淀城の、二つの城があります。茶々が「淀殿」と呼ばれる由来になったのは淀古城ですが、その跡には石碑が残るだけです。京阪淀駅前の淀城跡公園で天守台の石垣を見たあと、妙教寺の淀古城址の碑まで足をのばして、二つの淀城をたどってみてください。英語版はYodo Castleです。

参考:福田千鶴『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房/京都市「淀城跡」/『多聞院日記』

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