豊臣秀吉の側室で、名前と出自が確かめられるのは十人ほどです。宣教師フロイスは「大坂城に三百人」と書きましたが、これは誇張とみられます。側室の多くは織田・浅井・京極・前田といった名家の娘で、秀吉の子を産んだと確かにいえるのは茶々(淀殿)だけでした。そして正室の寧々(北政所)は、その側室たちの上に立って奥をまとめる立場にありました。『豊臣兄弟!』第39回「茶々の本心」で、秀吉が寧々を思って茶々との縁組に反発する場面の背景を、史実から整理します。
※アイキャッチの絵は、醍醐の花見をもとにしたイメージ(イラスト)です。
秀吉の側室は何人いたのか ─ 「三百人」は本当か
秀吉の側室の数を正確に記した史料はありません。名前や出自がわかる女性を数えると、およそ十人前後になります。一方で、よく引かれるのが「三百人」という数字です。
戦国大名が多くの側室を持つのは、家を継ぐ男子を得るためのふつうの手段でした。秀吉の場合は、正室の寧々とのあいだに子がなく、天下人になってからも跡継ぎの問題がついて回りました。秀吉の子どもと養子たちについては秀吉に実子はいたのか ─ 石松丸・鶴松・秀頼でまとめています。
主な側室の一覧 ─ 出自・呼び名・秀吉の死後
名前のわかる主な側室を、側室になったとされる時期のおおよその順に並べました。時期がはっきりしない人も多く、順番は目安です。
| 呼び名 | 出自 | 呼び名の由来 | 秀吉の死後 |
|---|---|---|---|
| 南殿(みなみどの) | 長浜時代の女性。出自は不明 | 長浜城の南の御殿に住んだためとされる | 石松丸の母とする説があるが、根拠は弱い |
| 姫路殿 | 織田信包(信長の弟)の娘 | 秀吉が築いた播磨の姫路城に住んだことから | 子はなく、寛永18年(1641)に没 |
| 松の丸殿(京極竜子) | 京極高吉の娘。母は浅井長政の姉。はじめ若狭の武田元明の妻 | 大坂城西の丸から伏見城松の丸に移ったことから | 大津城の兄・高次のもとへ。出家して寿芳院 |
| 三条殿 | 蒲生賢秀の娘で、蒲生氏郷の妹 | 屋敷の場所にちなむとされる | くわしい消息は不明な点が多い |
| 加賀殿(摩阿姫) | 前田利家の三女 | 父の領国・加賀にちなむ | 公家の万里小路充房のもとへ。のち金沢に戻る |
| 茶々(淀殿) | 浅井長政とお市の方の長女。母は信長の妹 | 鶴松を産んで与えられた淀城から | 秀頼とともに大坂城に残る |
| 三の丸殿 | 織田信長の娘 | 伏見城の三の丸に住んだことから | 妙心寺に塔頭を建て、のち二条昭実と再婚 |
このほか、成田氏の甲斐姫なども側室だったと伝わりますが、確かな史料は乏しいとされます。
呼び名の多くは、住んだ城や曲輪(くるわ)の名から来ています。茶々の「淀殿」は、秀長が普請した淀城に入ったことに由来します(茶々はなぜ淀殿と呼ばれたのか)。京極竜子の「松の丸殿」、信長の娘の「三の丸殿」も、伏見城の曲輪の名です。
茶々が側室になったのはいつか
茶々が秀吉の側室になったのは、天正16年(1588)ごろとされます。翌天正17年5月に鶴松を産み、その功で淀城を与えられました。茶々の父・浅井長政は秀吉が攻めた小谷城で、母・お市の方と養父・柴田勝家は秀吉に攻められた北ノ庄城で亡くなっています。仇ともいえる相手の側室になった理由は、茶々はなぜ仇・秀吉の側室になったのかで、茶々の一生は茶々(淀殿)の生涯でくわしく紹介しています。
なぜ名家の娘ばかりだったのか
一覧を見ると、側室の顔ぶれには共通点があります。旧主・織田家の娘(三の丸殿・姫路殿)、自分が滅ぼした家ゆかりの娘(茶々・京極竜子)、有力な大名の娘(加賀殿・三条殿)です。農民の出から天下人にのぼった秀吉は、家柄の点では諸大名に劣っていました。
ここからは筆者の見方です。名家の娘を側室に迎えることは、秀吉にとって二つの意味があったと考えられます。ひとつは、生まれてくる子に由緒ある血を入れること。茶々を迎えれば、子は織田と浅井の血を引きます。もうひとつは、相手の家との結びつきを強めることです。前田利家の娘を迎えたのは、北陸を任せた重臣との絆を固める意味があったでしょう。秀吉が「豊臣」という新しい氏をつくったのも、同じく家柄の弱さを補う工夫でした(豊臣と羽柴はどう違うのか)。
『豊臣兄弟!』第39回で、秀長が「相手は織田の血を引く茶々しかいない」と考えるのも、この発想の上にあります。秀長が茶々を勧めたという記録はありませんが、その筋立てが生まれる理由は秀長は本当に秀吉に茶々を勧めたのかで考えました。
寧々は側室たちとどう向き合ったのか
寧々は、秀吉がまだ身分の低いころに結ばれた妻です。秀吉が関白になると「北政所」と呼ばれ、側室たちの上に立って豊臣家の奥を取り仕切りました。側室が何人いても、正室の座は動きませんでした。
夫の女性関係に悩んだことをうかがわせる記録もあります。長浜時代、寧々の訴えを聞いた織田信長が寧々に宛てた手紙で、秀吉を「はげねずみ」と呼んでたしなめ、寧々には正室として堂々とふるまうよう励ましたことはよく知られています(寧々(ねね・北政所)とは)。
その一方で、秀吉は寧々を、奥のことを任せる相手として頼りにしていました。天正18年(1590)の小田原攻めの陣中から、秀吉は寧々に宛てた手紙で、淀殿を小田原へ呼び寄せたいので手配してほしいと頼んでいます。側室の呼び寄せを正室に頼むのは、寧々が奥の差配を握っていたからです。
醍醐の花見の「杯争い」は誰と誰の話か
秀吉の妻たちがそろった場面として有名なのが、慶長3年(1598)3月の醍醐の花見です。このとき輿は、北政所(寧々)、西の丸殿(淀殿)、松の丸殿、三の丸殿、加賀殿の順に並び、前田利家の妻・まつも加わったとされます。この並びは、そのまま奥の序列を表していました。
寧々と茶々の関係は、後世の小説やドラマで「正妻と側室の対立」として描かれることが多いのですが、実際には、奥をまとめる正室と、跡継ぎの母という役割の違いとして見るほうが実情に近いと考えられています。関ヶ原の戦いで寧々が東軍、茶々が西軍に肩入れしたという俗説にも、研究者から疑問が出されています(石田三成と茶々(淀殿)の関係)。
秀吉の死後、側室たちはどうなったのか
慶長3年8月に秀吉が亡くなると、側室たちはそれぞれの道を歩みました。
- 茶々(淀殿)は、幼い秀頼とともに大坂城に残り、豊臣家を背負います(茶々は本当に悪女だったのか)。
- 松の丸殿(京極竜子)は、兄の京極高次がいた大津城に身を寄せ、関ヶ原ののち出家して寿芳院と名のりました。京都で長く暮らし、寛永11年(1634)に亡くなっています。
- 加賀殿は、公家の万里小路充房のもとに入り男子を産みましたが、のちに金沢へ戻りました。
- 三の丸殿は、秀吉の供養のため妙心寺に塔頭を建てたのち、関白も務めた二条昭実と再婚しました。
- 寧々は出家して高台院と名のり、京都東山に高台寺を開いて秀吉の菩提を弔いました。
再婚した人、出家した人、豊臣家に残った人。側室たちのその後は、豊臣家がこのあとたどる道と重なっています。この先の流れは豊臣兄弟!史実ではこの後どうなる?で年表にしました。
秀吉の側室についてよくある質問
Q. 豊臣秀吉の側室は何人いましたか?
A. 正確な人数を記した史料はありません。名前と出自がわかるのは十人ほどです。フロイスの「三百人」は、宣教師が秀吉を批判する文脈で書いたもので、誇張とみられます。
Q. 秀吉の子を産んだ側室は誰ですか?
A. 確かなのは茶々(淀殿)で、鶴松と秀頼を産みました。長浜時代の男子・石松丸の母を「南殿」とする説もありますが、根拠は弱いとされます(秀吉に実子はいたのか)。
Q. 寧々と茶々は仲が悪かったのですか?
A. 激しく対立したという話の多くは後世の創作です。寧々は奥をまとめる正室、茶々は跡継ぎの母という、立場の違う二人でした。醍醐の花見の「杯争い」も、茶々と松の丸殿の話として伝わっています。
Q. 秀吉がいちばん大切にした側室は誰ですか?
A. 跡継ぎを産んだ茶々が別格の扱いを受けたのは確かです。ただ、醍醐の花見では松の丸殿が茶々のすぐ後ろに並ぶなど、京極竜子も重んじられていました。
Q. 『豊臣兄弟!』で寧々と茶々を演じているのは誰ですか?
A. 寧々は浜辺美波さん、茶々は井上和さんです。
まとめ
秀吉の側室は、名前のわかる人だけで十人ほど。その多くが織田・浅井・京極・前田などの名家の娘で、家柄の弱い天下人が血筋と縁を求めた結果ともいえます。それでも子が生まれたのは茶々だけで、豊臣家の未来は一人の側室とその子に託されることになりました。正室の寧々は、その奥全体を束ねる立場にいました。『豊臣兄弟!』第39回で秀吉が寧々を思って迷う場面は、史実の秀吉とは少し違いますが、この夫婦の結びつきの強さを描こうとしたものでしょう。放送後は第39回「茶々の本心」あらすじ予想と史実に、実際の描かれ方を追記します。
参考:ルイス・フロイス『日本史』/『太閤記』/福田千鶴『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房/田端泰子『北政所おね』ミネルヴァ書房/小和田哲男『豊臣秀吉』中公新書

