- 秀吉が関白に就いたのは天正十三年(1585)七月十一日。四国平定と同じ年である
- きっかけは公家社会の内紛「関白相論」で、秀吉はその調停者として割って入った
- 「将軍になれなかったから関白になった」という通説の根拠は、後世の編纂物にしかない
- 豊臣は既存の家の名ではなく、朝廷から新しく与えられた姓。系図を持たない男の解決策だった
天下人の地位を表す言葉として、私たちは「征夷大将軍」を思い浮かべやすい。頼朝も尊氏も家康もそうだった。ところが秀吉だけが違う。彼が選んだのは関白であり、さらに豊臣という新しい姓だった。
この選択は、しばしば「将軍になれなかったから仕方なく」と説明される。だが史料をたどると、話の順序はむしろ逆だったように見えてくる。

大坂城。関白となった秀吉はこの城を拠点に、朝廷の権威を背負って全国へ号令した
天正十三年七月十一日
前年の小牧・長久手の戦いで、秀吉は徳川家康に決着をつけられなかった。天正十三年(1585)三月に紀州を平定し、六月からは弟の秀長を総大将として四国へ渡海させる。長宗我部元親が降伏したのが七月下旬である。
その最中の七月十一日、秀吉は関白に任じられた。武力による統一が終わる前に、まず地位を先に取ったことになる。
関白相論に割って入る
直接のきっかけは、公家社会の内紛だった。当時、関白の座をめぐって二条昭実と近衛信輔が争っていた。いわゆる関白相論である。摂関家の内部で決着がつかず、話がこじれていた。
ここに秀吉が調停者として入る。そして出てきた結論が、どちらでもなく秀吉自身が関白になる、というものだった。手続きとしては、近衛前久の猶子となって藤原姓を得たうえで就任している。
強引と言えば強引だが、当事者にしてみれば第三者が入って争いが終わるなら受け入れる余地はある。秀吉は力ずくで官職を奪ったのではなく、公家社会が自力で解けなかった問題の出口として招き入れられたという形を取った。この手つきは、彼が大名同士の争いに介入していくやり方とよく似ている。
「将軍になれなかった」という通説を疑う
広く知られているのは、秀吉が足利義昭の猶子になって将軍職を得ようとしたが断られた、という話である。だがこの逸話が載るのは『足利季世記』などの後世の編纂物で、同時代の史料に裏づけがない。近年の研究では懐疑的に見られている。
そもそも「源氏でなければ将軍になれない」という観念自体、当時それほど厳格な制度だったわけではない。秀吉が将軍職を望んだ形跡そのものが乏しいのである。
関白と将軍を比べると、位置づけが違う。将軍は武家の棟梁であり、指揮できるのは武家の世界に限られる。関白は天皇を補佐して政務を統べる立場で、公家も寺社も含めた全体に及ぶ。天下を「武士の世界」より広く取ろうとするなら、関白のほうが器が大きい。

大和郡山城。関白就任と同じ天正十三年、秀長が百万石余の主としてこの城に入った
豊臣という姓を、新しく作った
関白就任の翌年にかけて、秀吉は太政大臣に任じられ、朝廷から豊臣の姓を与えられる。ここが本当の勘所だと思う。
当時の姓は、源・平・藤原・橘のいわゆる四姓が基本である。近衛前久の猶子となった時点で、秀吉は藤原姓を名乗っていた。つまり既存の家に入る形で問題は一応片づいていた。それをわざわざ、新しい姓を立てる形に切り替えたのである。
秀吉と秀長の出自をたどったときに見たとおり、この兄弟は父の名すら確かめられない家から出ている。既存の家に養子として入る限り、その家の系図の末尾に間借りしているにすぎない。だが姓そのものを新しく作ってしまえば、系図の起点は自分になる。証明できない過去を持つ人間にとって、これほど合理的な解決はない。
同時に、この解決には弱点もあった。一代で作った家は、一代で消えうる。頼朝や家康が背負っていた「代々の家」という重さを、豊臣家は最後まで持てなかった。
関白であることが可能にしたこと
関白になった秀吉は、大名同士が勝手に戦うことを禁じる命令を出す。いわゆる惣無事の命である。これは秀吉個人の力ではなく、天皇の権威を代行する立場から出された。
従わない者は、秀吉に逆らったのではなく公儀に逆らったことになる。九州の島津も、関東の北条も、この論理で討たれた。武力で従わせるより先に、従わないことが罪になる枠組みを作ってしまった。

大坂城。天下統一の後半は、戦いよりも「公儀」の名分で進んだ
聚楽第への行幸 ─ 権威の演出の頂点
関白の地位を目に見える形にしたのが、京都の内野に築かれた聚楽第である。天正十四年(1586)に着工し、翌年完成した。城郭でありながら政庁であり、邸宅でもあるという、それまでにない建物だった。
天正十六年(1588)四月、後陽成天皇がこの聚楽第に行幸する。天皇が臣下の屋敷に足を運ぶこと自体が異例で、しかもこのとき秀吉は、居並ぶ大名たちに天皇と関白への忠誠を誓う起請文を書かせた。
大名が忠誠を誓う相手は秀吉個人ではなく、天皇とその代行者である関白だった。個人への服従は当人が死ねば終わるが、公の秩序への服従はそうではない。秀吉が作ろうとしていた仕組みが、この一日に凝縮されている。
もっとも、その聚楽第は長くは保たなかった。関白職とともに秀次へ譲られ、文禄四年(1595)の秀次事件の後に徹底的に破却される。現在は地名と石碑を残すのみで、遺構はほとんど地上に見えない。
大河で描かれない話
豊臣姓は秀吉ひとりのものではない。弟の秀長も豊臣姓を与えられ、従二位権大納言に叙されて大和大納言と呼ばれた。徳川家康や前田利家をはじめ、有力大名にも官位と、場合によっては豊臣姓が配られていく。
これは巧妙な仕掛けである。官位を受け取った大名は、その瞬間から朝廷の秩序の中に位置づけられ、秀吉はその秩序の頂点にいる。刀を交えずに序列を作る方法だった。前田利家のように、かつては信長の下で横並びだった者たちも、この体系の中では明確に格付けされる。
そして天正十九年(1591)十二月、秀吉は関白を甥の秀次に譲って太閤となる。譲れる地位であったことが、のちの秀次事件の悲劇を準備してしまった。
よくある質問
Q. 秀吉が関白になったのはいつですか。
A. 天正十三年(1585)七月十一日です。紀州平定の後、四国平定の最中にあたります。
Q. 関白と征夷大将軍はどちらが上ですか。
A. 単純な上下ではなく性質が違います。将軍は武家の棟梁、関白は天皇を補佐して政務全般を統べる立場で、及ぶ範囲は関白のほうが広くなります。
Q. 足利義昭の猶子になろうとして断られたというのは本当ですか。
A. 後世の編纂物に見える話で、同時代の裏づけはありません。近年は懐疑的に見る研究が多く、そもそも秀吉が将軍職を望んだ形跡が乏しいと指摘されています。
Q. 豊臣という姓は誰が作ったのですか。
A. 朝廷から新たに下賜されたものです。源・平・藤原・橘に並ぶ新しい姓を立てる形で、秀吉が家の起点そのものになりました。
Q. 聚楽第はどこにあったのですか。
A. 京都の内野、現在の上京区一帯です。天正十五年(1587)に完成しましたが、文禄四年(1595)の秀次事件の後に破却され、地上の遺構はほとんど残っていません。
ゆかりの地をめぐる
- 大阪城(大阪府大阪市)… 関白秀吉の本拠。ここから公儀の命令が全国へ出された
- 大和郡山城(奈良県大和郡山市)… 同じ天正十三年に秀長が入った城。大和大納言の居城
- 長浜城(滋賀県長浜市)… 秀吉が最初に城主となった城。ここから関白までは十年余りだった
関白となった秀吉が、その権威をもってしても動かせなかった相手が徳川家康である。妹と母を差し出して臣従させた経緯は旭姫と大政所の人質外交で取り上げている。
まとめ
秀吉が関白を選んだのは、将軍になれなかったからではない。武家の枠に収まる地位より、公家も含めた全体を統べる地位のほうが、彼のやろうとしたことに合っていたからである。
そして豊臣という姓は、系図を持たない男が系図の問題そのものを消してしまう発明だった。出自を証明できないという弱点を、彼は隠すのではなく、証明が要らない場所へ移すことで解いた。大坂城の普請が資材と人を集める仕組みの発明だったとすれば、関白就任と豊臣姓は、権威を調達する仕組みの発明である。どちらも「持たざる者」が天下を取るための工夫だった。

