鳥取城は久松山の頂から麓まで、山城と近世城郭が一つの山に重なって残っている城跡です。羽柴秀吉の兵糧攻め、いわゆる渇え殺しの舞台として知られますが、城の見どころはそれだけではありません。山上には戦国の曲輪が、山下には池田氏が整えた石垣が並び、そのなかには球面に積まれた世界でも例のない石垣まであります。
- 久松山の山上と山麓に、戦国と近世の城が重なって残る
- 秀吉の兵糧攻めは、包囲の前に米を買い占める経済戦から始まった
- 天球丸の巻石垣は、球面に積まれた国内唯一の石垣
- 池田氏三十二万石の城として幕末まで続いた
鳥取城とは:一つの山に重なる二つの城
鳥取城は鳥取県鳥取市東町、標高二百六十メートルほどの久松山にあります。山頂の一帯を山上ノ丸と呼び、本丸と天守台、二ノ丸が置かれました。麓には山下ノ丸が広がり、二ノ丸、三ノ丸、天球丸といった曲輪が石垣で固められています。戦国の山城として始まり、江戸時代に麓へ生活と政務の場が下りてきた結果、二つの時代の城が上下に積み重なる姿になりました。
石垣も一様ではありません。自然石を粗く積んだ古い区画、面をそろえた区画、きれいに切りそろえた区画が場所ごとに違い、歩くだけで技術の移り変わりが追えます。城郭の博物館と呼ばれるゆえんです。

山下ノ丸に残る中仕切門。江戸時代の門がそのまま残り、石段と石垣にはさまれて立っている。
鳥取の渇え殺し:包囲の前に勝負はついていた
山名氏の城だった鳥取城は、織田方と毛利方のあいだで揺れ続けました。城主の山名豊国は羽柴秀吉に降りますが、それを不服とした家臣たちが豊国を追い出し、毛利方から吉川経家を城将として迎えます。天正9年(1581年)、秀吉は二万ともいわれる軍勢で城を囲みました。

山下ノ丸の石垣。斜面に沿って何段にも積まれ、石段が曲輪をつないでいる。
宮部継潤から池田氏へ
落城後、鳥取城には秀吉の家臣の宮部継潤が入りました。継潤は山上の城だけでは治めきれないと考え、麓に曲輪を広げて城下町を整えます。山城から近世城郭への転換は、このときに始まりました。
関ヶ原ののちは池田長吉が入り、さらに姫路から池田光政が移ってきます。のちに岡山の池田家と入れ替わる形で池田光仲が鳥取へ入り、以後、因幡と伯耆をあわせた三十二万五千石の大名として池田氏が十二代、幕末まで続きました。岡山城の池田家とは同じ一族で、両家は親戚として長く行き来しています。
吉川経家が残した手紙
城を預かった吉川経家は、石見の武将で、毛利方から急ぎ送り込まれた人物でした。到着したとき城の兵糧はすでに乏しく、勝ち目の薄さは本人がいちばんわかっていたはずです。それでも四か月を持ちこたえ、最後は城兵の命を救うことを条件に自らの腹を切りました。
経家が国もとへ書き送った手紙が伝わっています。子どもたちへ宛てて、武士として名を残せることを書き、自分のあとを頼むと結んだ文面で、覚悟を決めた人の筆とは思えないほど静かです。秀吉は経家の最期を惜しんだと伝えられ、遺体を丁重に扱わせました。城跡には経家の像が建てられ、山下ノ丸を見下ろしています。
三十二万石の城下町
池田氏の時代、鳥取の城下は千代川の扇状地に広がりました。武家地が城の周囲を固め、その外に町人地が続き、日本海に面した賀露の港が物資の出入り口になります。因幡と伯耆の二国をあわせた領地からは、米のほか鉄や和紙、木綿が産まれ、北前船で大坂や北陸へ運ばれました。
幕末の鳥取藩は尊王の色が濃く、藩士が京で活動した記録も残ります。城の麓に建つ白い洋館の仁風閣は明治になってから建てられたもので、いまは資料館として公開され、城跡を歩く人の出発点になっています。
球面に積まれた石垣
この城でいちばん風変わりな遺構が、天球丸の巻石垣です。石垣の下部に、球を半分に切ったような丸い石積みが貼りついています。造形として面白がられがちですが、もとは補強のために築かれたものでした。
江戸時代の後期、天球丸の石垣がはらんで崩れそうになったとき、前面に丸い石積みを添えて押さえることが考えられました。平らな壁で受け止めるより、球面のほうが力を分散できるという理屈です。橋脚の基礎などに使われていた技術を石垣に応用したもので、城の石垣としてはここにしか残っていません。近年の調査と積み直しによって、崩れていた姿からほぼ完全な形へ復元されました。

山下ノ丸の石垣の上から鳥取の市街を見下ろす。城下町はこの足もとから広がっていった。
天守が失われたあとの城
山上の天守は、元禄年間に落雷で焼け落ちました。以後、天守は再建されず、山上ノ丸は次第に使われなくなります。藩の政務と暮らしは山下ノ丸に移り、御殿や役所がそこに置かれました。明治の廃城令で建物の多くが失われましたが、中仕切門だけが残り、いまも江戸時代の姿を伝えています。
近年は復元の取り組みが進み、大手登城路にあたる擬宝珠橋と中ノ御門表門が木造で建て直されました。堀に架かる木橋は長さが四十メートルを超え、江戸時代の城の入口の大きさを実感できます。山上ノ丸へは徒歩で登れ、天守台からは鳥取砂丘と日本海までが一望できます。

園内の案内板にある山下ノ丸の全体図。二ノ丸、三ノ丸、天球丸と曲輪が並ぶ配置がよくわかる。
鳥取藩/池田家32万5千石:池田慶徳 戊辰戦争では新政府に与し河田左久馬・北垣晋太郎らを輩出した鳥取藩
鳥取城の地を治めた鳥取藩が、幕末をどう生きたかをまとめています。
鳥取城跡・場所とアクセス
鳥取県鳥取市東町2丁目。JR鳥取駅からバスで十分ほど、仁風閣・県立博物館前で降りればすぐです。城跡は自由に歩けます。日本100名城のスタンプは麓の仁風閣に置かれています。山上ノ丸まで登るなら片道四十分ほど、途中の道は険しいので歩きやすい靴が要ります。竹田城跡や月山富田城跡、松江城とあわせれば、山陰の城を順にたどれます。
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