- 鳥取城の渇え殺し(かつえごろし)は、天正9年(1581)、羽柴秀吉が因幡の鳥取城を兵糧攻めで落とした戦いです。「鳥取の飢え殺し」とも呼ばれます
- 前年の第一次攻撃で城主の山名豊国はいったん降りましたが、家臣たちが豊国を追い出し、毛利家から吉川経家を城将に迎えて、ふたたび抵抗しました
- 秀吉は太閤ヶ平に本陣を置き、総延長十二キロ以上ともいわれる包囲網と数十の陣城で城を囲み、海からの兵糧の運び込みも断ちました
- 城内には城兵と領民あわせて四千人ほどがいたとされ、夏には兵糧が尽き、『信長公記』は目を覆うような飢えの惨状を書き残しています
- 10月25日、吉川経家が城兵の助命と引き換えに自害し、城は開かれました。包囲から三か月余りのことでした
戦国時代の籠城戦のなかでも、もっとも悲惨な戦いの一つとして語られるのが、鳥取城の渇え殺しです。羽柴秀吉は、力攻めをせず、城を完全に囲んで食料を断つことで、難攻不落の山城を落としました。この記事では、なぜ鳥取城が狙われたのかという背景から、二度にわたる攻撃、包囲網のしくみ、城内の惨状、吉川経家の最期、そして現地に残る陣城の跡までを、順を追ってくわしく解説します。これ一つで、鳥取城の兵糧攻めの全体がわかるようにまとめました。
鳥取城の渇え殺しとは ── 三行でわかる概要
天正9年(1581)、織田信長の命で中国地方の攻略を進めていた羽柴秀吉が、毛利方についた因幡の鳥取城を兵糧攻めにしました。7月中旬から城を幾重にも囲み、外からの食料の運び込みを一切断った結果、城内は飢えに苦しみ、10月25日に城将の吉川経家が自害して城は開かれました。秀吉はこの戦いで因幡を手に入れ、翌年の備中高松城攻めへと進んでいきます。
| 時期 | 天正9年(1581)7月中旬〜10月25日(第二次攻撃) |
| 攻め手 | 羽柴秀吉(織田方)。兵力は二万ほどとされる |
| 守り手 | 吉川経家(毛利方)。城兵と領民あわせて約四千人とされる |
| 戦い方 | 包囲と兵糧の遮断による兵糧攻め |
| 結果 | 吉川経家らが自害し開城。城兵は助命され、因幡は織田方に |
なぜ鳥取城が狙われたのか
鳥取城は、因幡の守護・山名家の居城で、日本海に近い久松山(きゅうしょうざん)の山頂に築かれた城です。因幡は、山陰道を通って毛利家の領国である伯耆・出雲へ向かう入り口にあたります。中国地方の攻略を任された秀吉にとって、播磨と但馬を押さえたあとの次の目標が、この因幡でした。鳥取城の城そのものについては 鳥取城跡 で紹介しています。
第一次攻撃 ── 降伏した城主と、追い出した家臣たち
天正8年(1580)、秀吉は但馬から因幡へ攻め込み、鳥取城を囲みました。城主の山名豊国は、織田方に降ることを決めます。ところが、家中の重臣たちはこれに納得しませんでした。毛利家との結びつきを重んじる家臣たちは、豊国を城から追い出し、毛利家に新しい城将を送ってくれるよう求めたのです。
こうして天正9年3月、毛利一族の吉川家から、吉川経家が鳥取城に入りました。経家は、毛利家の重臣・吉川元春の一族で、石見の福光城を本拠とする武将です。城主に追い出された城を、他国から来た城将が守ることになったわけで、経家にとっては最初から厳しい役目でした。経家は入城にあたって自らの首桶を携えていたと伝えられ、死を覚悟しての入城だったといわれます。
秀吉の下準備 ── 米の買い占めと、城に逃げ込む人びと
鳥取城の兵糧攻めでよく語られるのが、秀吉が事前に因幡の米を買い占めたという話です。若狭などの商人を使って、因幡の米を相場より高い値で買い集めさせたため、城内の蓄えまで売りに出され、籠城の前から城の米が乏しくなった、というものです。この話は江戸時代の軍記に見えるもので、どこまで事実かははっきりしませんが、秀吉が兵糧攻めを前提に周到な準備をしていたことを示す話として広く知られています。
もう一つの策として語られるのが、周辺の村々を攻めて、領民を鳥取城へ逃げ込ませたことです。城に籠もる人数が増えれば、それだけ早く食料が尽きます。城内には城兵だけでなく、周辺から逃げ込んだ領民もいて、あわせて四千人ほどがいたとされます。兵糧攻めにとって、籠城する人が多いことは、攻め手に有利に働いたのです。
天正9年7月 ── 太閤ヶ平と十二キロの包囲網
天正9年6月、秀吉は姫路を出陣し、7月中旬には鳥取城の東、約一・三キロの山に本陣を構えました。この本陣はのちに「太閤ヶ平(たいこうがなる)」と呼ばれ、いまも空堀や土塁がよく残っています。信長自身が出陣してくる場合に備えた、大将の陣城としての造りを持っていたことも、発掘調査などから考えられています。

秀吉は、鳥取城をぐるりと取り囲むように、数十の陣城を築き、そのあいだを柵や土塁、堀でつないでいきました。包囲網の長さは十二キロ以上ともいわれます。陣城の多くには櫓が立てられ、夜はかがり火をたいて城を見張ったと伝えられます。さらに、鳥取城の北は日本海に近く、千代川の河口から船で兵糧を運び込まれるおそれがありました。秀吉は海や川にも兵を置き、毛利方の兵糧船を見つけ次第、沈めさせたといいます。陸も海も、外とのつながりは完全に断たれました。
城内の惨状 ── 『信長公記』が書き残したこと
包囲が始まって一か月もたたないうちに、城内の兵糧は尽きはじめました。もともと蓄えが十分ではなかったうえに、四千人ほどが籠もっていたからです。人びとは牛や馬を食べ、草や木の皮まで口にしましたが、それも尽きると、飢えで倒れる者が相次ぎました。
『信長公記』は、このときの城内のありさまを、柵際まで出てきて助けを求める者たちが鉄砲で撃たれると、まだ息のある者に人びとが群がった、といった言葉で書き残しています。織田方の記録でありながら、目を覆うような描写が続くことからも、その惨状がうかがえます。外の陣城からも、城内の様子は見えていたのでしょう。

毛利の救援はなぜ届かなかったのか
毛利家も、鳥取城を見捨てていたわけではありません。吉川元春が救援の軍を率いて伯耆まで進みましたが、秀吉の包囲網を破るには至らず、鳥取城の西、四十キロほどのところで足止めされました。海からの兵糧の運び込みも、前に見たように阻まれています。毛利家は、同じころ備前・美作方面でも織田方と向き合っており、因幡だけに大軍を回す余裕がなかったのです。城は、援軍が来ないまま飢えに耐え続けることになりました。
10月25日 ── 吉川経家の最期と開城
籠城が三か月を超えた10月、経家はついに降伏を決めました。経家は、自分が腹を切るかわりに城兵と領民の命を助けてほしいと秀吉に申し入れます。秀吉は、経家は毛利家から遣わされた城将にすぎないとして助命を勧めたとも伝わりますが、経家はこれを受けず、山名家の重臣で豊国を追い出した者たちとともに自害する道を選びました。天正9年10月25日、経家は三十五歳で自害し、鳥取城は開かれました。
経家が自害の前に子どもたちに宛てて書いた遺書が残っていて、城を守りきれずに果てる無念と、家族への思いがつづられています。また、開城後に城から出てきた人びとに秀吉が粥を与えたところ、急に食べたために多くの者が命を落とした、という話も伝わっています。長く飢えた体に急に食べ物を入れると危険であることを、当時の人びとは知らなかったのかもしれません。
時系列で見る鳥取城の渇え殺し
| 天正8年(1580) | 秀吉が因幡に攻め込み、山名豊国がいったん降る。のち家臣たちが豊国を追い出す |
| 天正9年(1581)3月 | 毛利方から吉川経家が鳥取城に入る |
| 6月 | 秀吉、姫路を出陣 |
| 7月中旬 | 太閤ヶ平に本陣を置き、包囲網を築く |
| 8月ごろ | 城内の兵糧が尽き、飢えが広がる。吉川元春の救援は届かず |
| 10月25日 | 吉川経家が自害し、鳥取城が開かれる |
| 天正10年(1582) | 秀吉、備中高松城を水攻めに。本能寺の変へ |
三木城の兵糧攻めとの違い
秀吉の兵糧攻めといえば、鳥取城の前に、播磨の三木城がありました。三木城の包囲はおよそ一年十か月にも及びましたが、鳥取城はわずか三か月余りで落ちています。この差を生んだのは、三木での経験だったと考えられます。三木城では、毛利方による兵糧の運び込みをたびたび許し、包囲が長引きました。鳥取城では、包囲網を最初から隙間なく築き、海からの補給まで断ちました。三木で学んだことを、鳥取で徹底したといえるでしょう。三木城の兵糧攻めについては 三木合戦 完全ガイド で、その次の備中高松城の水攻めは なぜ秀吉は備中高松城を水攻めにしたのか でくわしく紹介しています。
秀長はこの戦いで何をしていたのか
大河ドラマの主人公・秀長は、この時期、兄の中国攻めのなかで但馬方面を任されていました。但馬は因幡の東隣にあたり、秀長が但馬を押さえていたことで、秀吉は但馬から因幡へ軍を進めることができました。鳥取城の包囲のなかで秀長が具体的にどの持ち場を担ったかは、はっきりとはわかっていませんが、兄の背後と補給の道を支える役目を果たしていたと考えられます。この時期の兄弟の歩みは 豊臣兄弟!第22〜26回 史実解説 にまとめています。
鳥取城跡と太閤ヶ平を歩く
鳥取城跡は鳥取市の中心部にあり、ふもとの石垣や復元された大手登城路の擬宝珠橋を見ながら、久松山の山頂にある本丸跡まで登ることができます。天球丸の丸い「巻石垣」も見どころです。そして、城の東の本陣山にある太閤ヶ平には、一辺六十メートル近い方形の区画を土塁が取り巻く、秀吉の本陣の跡がよく残っています。城と本陣を両方歩くと、両者の距離の近さと、包囲の緊張感が実感できます。山道があるので、歩きやすい靴で出かけ、天候や通行の情報は鳥取市の観光案内で確かめておくと安心です。
よくある疑問
Q. 鳥取城の渇え殺しはいつですか?
A. 天正9年(1581)です。7月中旬に包囲が始まり、10月25日に開城しました。
Q. 「渇え殺し」の読み方は?
A. 「かつえごろし」と読みます。食べ物がなく飢えさせて攻め落とすことを意味し、「鳥取の飢え殺し」とも呼ばれます。
Q. 吉川経家はなぜ自害したのですか?
A. 城兵と領民の命を助けてもらうためです。経家は自らの命と引き換えに、城に籠もった人びとの助命を求めました。
Q. 秀吉が米を買い占めたのは本当ですか?
A. 江戸時代の軍記に見える話で、同時代の記録では確かめられていません。
まとめ
鳥取城の渇え殺しは、羽柴秀吉が数十の陣城と長い包囲網で鳥取城を囲み、陸と海からの補給をすべて断って落とした兵糧攻めです。城主を追い出した家臣たちに迎えられた吉川経家は、援軍の来ない城で三か月余り耐えたのち、城兵の命と引き換えに自害しました。三木城での長い包囲の経験を生かした徹底した包囲は、秀吉の戦い方の完成形ともいえ、その翌年には備中高松城の水攻めへとつながっていきます。大河ドラマの全話の流れは 豊臣兄弟!全話一覧 でたどることができます。

