- 三木合戦は、天正6年(1578)から天正8年(1580)にかけて、羽柴秀吉が播磨の三木城(兵庫県三木市)に籠もる別所長治を攻めた戦いです。兵糧攻めで知られ、「三木の干殺し(ひごろし)」とも呼ばれます
- はじめ織田方についていた別所長治が毛利方に転じたことで始まり、播磨の多くの国衆が別所に味方しました
- 秀吉は周りの支城を一つずつ落としたうえで、三木城の周囲に数十の付城を築き、土塁や柵でつないで城を囲みました
- 途中で荒木村重の謀反が重なり、包囲中には竹中半兵衛が陣中で病没、毛利方の兵糧搬入を阻んだ平田・大村合戦などを経て、およそ一年十か月に及ぶ長い戦いになりました
- 天正8年1月17日、別所長治は城兵の命と引き換えに一族とともに自害し、城は開かれました。この経験が、翌年の鳥取城の兵糧攻めに生かされます
羽柴秀吉の「城攻め」といえば、三木城の干殺し、鳥取城の渇え殺し、備中高松城の水攻めがよく挙げられます。そのうち最初の、そしてもっとも長い戦いが三木合戦です。包囲はおよそ一年十か月に及び、その間に秀吉は、味方の裏切り、軍師の死、兵糧の運び込みをめぐる激しい戦いを乗り越えなければなりませんでした。この記事では、別所長治が毛利方に転じた理由から、支城の攻略、付城による包囲、平田・大村合戦、そして長治の最期までを、順を追ってくわしく解説します。これ一つで、三木城の兵糧攻めの全体がわかるようにまとめました。
三木合戦とは ── 三行でわかる概要
天正5年(1577)、織田信長の命で播磨に入った秀吉は、播磨の国衆を次々と織田方につけていきました。ところが翌年、東播磨の有力者・別所長治が毛利方に転じ、居城の三木城に籠もります。秀吉は周りの支城を落とし、三木城を付城の列で囲んで兵糧を断ち、天正8年(1580)1月、長治の自害と引き換えに城を開かせました。
| 時期 | 天正6年(1578)3月ごろ〜天正8年(1580)1月17日 |
| 攻め手 | 羽柴秀吉(織田方)。織田信忠らの援軍も加わる |
| 守り手 | 別所長治(毛利方)。籠城したのは兵と領民あわせて七千五百人ほどとされる |
| 戦い方 | 支城の各個撃破と、付城の列による包囲・兵糧攻め |
| 結果 | 別所長治らが自害し開城。城兵は助命され、播磨は織田方に |
なぜ別所長治は毛利方に転じたのか
別所家は、播磨の守護・赤松家の流れをくむ東播磨の名門で、三木城を本拠としていました。当主の長治はまだ二十歳前後と若く、叔父の別所吉親(賀相)らが家中を支えていたといわれます。長治は、はじめ信長に従う姿勢を見せていましたが、天正6年(1578)の春、毛利方に転じました。
その理由については、いくつかの説が伝わります。よく知られているのは、秀吉が播磨の国衆を集めて開いた軍議(加古川評定)で、別所家の名代として出た吉親が意見を述べたところ、秀吉に軽く扱われて恨みを抱いた、という話です。ただし、これは後世の軍記に見える話で、確かではありません。むしろ、名門の別所家にとって、身分の低い出の秀吉の指図を受けることへの不満や、毛利家と結ぶ足利義昭・本願寺の働きかけ、そして播磨の国衆のあいだに広がっていた織田方への警戒感が重なった、と考えるほうが自然でしょう。いずれにしても、長治が毛利方についたことで、東播磨の多くの国衆が別所に同調し、播磨の情勢は一気にひっくり返りました。
天正6年 ── 上月城を見捨て、支城を一つずつ落とす
別所家の離反と同じころ、毛利家の大軍が播磨の西端にある上月城を囲みました。上月城には、尼子家の再興をめざす尼子勝久と山中鹿介が、織田方として籠もっていました。秀吉は救援に向かいましたが、三木の別所と西の毛利に挟まれる形になり、信長の命で上月城の救援をあきらめ、三木攻めに力を集めることになります。上月城は7月に落ち、尼子家の再興の夢は絶たれました。
三木城に向かった秀吉は、すぐに本城を攻めるのではなく、まず周りの支城を一つずつ落としていきました。野口城、神吉城、志方城、高砂城など、三木城を支える城を次々に攻略し、三木城を孤立させていったのです。織田信忠や、信長の重臣たちも援軍として加わり、神吉城の戦いでは激しい攻防が繰り広げられました。そして天正6年7月ごろから、信忠らが三木城の周りに付城(攻め手が敵城を見張るために築く城)を築きはじめます。

荒木村重の謀反 ── 背後が崩れた秀吉
三木城の包囲が始まったばかりの天正6年10月、思いもよらない事件が起こります。摂津の有岡城(伊丹城)の荒木村重が、信長に背いて毛利方についたのです。摂津は、播磨と京・安土を結ぶ道の途中にあたります。秀吉は、目の前の三木城だけでなく、背後の補給路まで脅かされることになりました。
このとき、村重を説得しようと有岡城に向かった黒田官兵衛(孝高)は、城内に捕らえられ、一年近く幽閉されることになります。秀吉にとって、播磨の事情に通じた官兵衛を失ったことは大きな痛手でした。それでも秀吉は三木城の包囲を解かず、有岡城の攻略は信長の本隊に任せて、播磨にとどまり続けました。
天正7年 ── 付城の列と、竹中半兵衛の死
天正7年(1579)に入ると、秀吉は三木城の包囲をさらに固めていきます。4月には新たな付城がいくつも築かれ、付城と付城のあいだは土塁や柵、堀で結ばれていきました。三木城の周りには、最終的に数十もの付城が並んだとされ、その遺構の一部はいまも三木市内の丘の上に残っています。秀吉自身は、三木城の北東、美嚢川(みのうがわ)を挟んだ平井山に本陣を置きました。
この包囲のさなか、天正7年6月13日、秀吉の参謀として知られる竹中半兵衛が、平井山の陣中で病のため亡くなりました。三十六歳でした。半兵衛は病をおして陣にとどまり続けたと伝えられ、その墓はいまも平井山のふもとに残っています。半兵衛の生涯は 竹中半兵衛とは でくわしく紹介しています。

平田・大村合戦 ── 兵糧をめぐる最大の攻防
包囲が固まるにつれ、三木城の兵糧はしだいに乏しくなっていきました。毛利家は、播磨の海岸から兵糧を陸揚げし、三木城へ運び込もうとします。天正7年9月、毛利方と別所方の兵が、兵糧を運び入れるために城の南西の平田付近へ打って出ました。織田方は、付城を守っていた谷大膳(衛好)が討ち死にするなど苦戦しましたが、秀吉の本隊が駆けつけて大村付近で別所方を打ち破り、兵糧の運び込みを阻みました。これが平田・大村合戦です。
この戦いで、別所方は多くの将兵を失い、外から兵糧を得る望みもほぼ絶たれました。さらに同じ年の秋、備前の宇喜多直家が毛利方から織田方に転じ、毛利家の軍勢は播磨へ出にくくなります。11月には有岡城も落ち、三木城は完全に孤立しました。
城内の飢え ── 「三木の干殺し」
外からの兵糧を断たれた三木城の中では、飢えが広がっていきました。城に籠もっていたのは、兵だけでなく、周辺から逃げ込んだ領民も多く、あわせて七千五百人ほどといわれます。後世の記録には、城内の人びとが牛や馬を食べ、やがて草や木の根、壁土に混ぜたわらまで口にした、といった話が伝えられています。こうした描写がどこまで正確かはわかりませんが、長い包囲で城内が極度の飢えに追い込まれていたことは確かでしょう。この戦いが「三木の干殺し」と呼ばれるのは、そのためです。
天正8年1月17日 ── 別所長治の最期と開城
天正8年(1580)正月、秀吉は総攻撃に移り、三木城の外側の出城である宮ノ上の砦や鷹の尾城などを次々に落としました。もはや城を守りきれないと悟った長治は、自分と弟の友之、叔父の吉親が腹を切るかわりに、城に籠もった人びとの命を助けてほしいと秀吉に申し入れます。秀吉はこれを受け入れ、城に酒や肴を送ったと伝えられます。
天正8年1月17日、別所長治は妻子とともに自害しました。年齢は二十三歳とも二十六歳ともいわれます。長治の辞世として、「今はただうらみもあらじ諸人の命にかはる我身と思へば」という歌が伝わっています。いまはもう誰も恨むまい、多くの人の命に代わるわが身と思えば、という意味です。こうして、およそ一年十か月に及んだ三木合戦は終わり、播磨は織田方の手に収まりました。三木城そのものについては 三木城跡 で紹介しています。
時系列で見る三木合戦
| 天正5年(1577)10月 | 秀吉、信長の命で播磨に入る |
| 天正6年(1578)3月ごろ | 別所長治が毛利方に転じ、三木城に籠もる |
| 4〜8月 | 毛利方が上月城を囲む。秀吉は救援をあきらめ、野口城・神吉城・志方城などの支城を落とす |
| 7月ごろ | 織田信忠らが三木城の周りに付城を築きはじめる |
| 10月 | 荒木村重が謀反。黒田官兵衛が有岡城に幽閉される |
| 天正7年(1579)4月 | 付城を増やし、包囲を固める |
| 6月13日 | 竹中半兵衛、平井山の陣中で病没 |
| 9月 | 平田・大村合戦。毛利方の兵糧搬入を阻む |
| 秋〜11月 | 宇喜多直家が織田方へ。有岡城が落ちる |
| 天正8年(1580)1月 | 秀吉が三木城の出城を落とす。17日、別所長治が自害し開城 |
| 天正9年(1581) | 秀吉、鳥取城を兵糧攻めに |
秀長はこの戦いで何をしていたのか
大河ドラマの主人公・秀長も、三木合戦の時期に播磨・但馬で兄を支えていました。秀長は但馬方面の攻略を任される一方、播磨でも働いています。天正7年(1579)には、三木城を支える城の一つで、三木城と摂津を結ぶ道を押さえていた淡河城(おうごじょう)を攻めたと伝えられます。このとき、城主の淡河定範が雌馬を放って攻め手の馬を混乱させた、という話が伝わっていますが、細部は後世の記録に拠るものです。兄が三木城を囲むあいだ、その周りの道と城を押さえるのが、秀長の役目だったといえるでしょう。この時期の兄弟の歩みは 豊臣兄弟!第22〜26回 史実解説 にまとめています。
鳥取城の兵糧攻めへ ── 三木で学んだこと
三木合戦は、秀吉にとって兵糧攻めの「学びの場」でもありました。包囲が長引いた大きな理由は、はじめのうち包囲に隙間があり、毛利方や周辺の別所方がたびたび兵糧を運び込めたことにあります。秀吉は、付城を増やして土塁や柵で結び、外とのつながりを一つずつ断っていくことで、ようやく城を孤立させました。
翌天正9年の鳥取城攻めでは、秀吉は最初から城の周りに隙間のない包囲網を築き、海からの補給まで断ちました。その結果、鳥取城はわずか三か月余りで落ちています。三木での一年十か月が、鳥取での三か月を生んだといえるでしょう。鳥取城の兵糧攻めについては 鳥取城の渇え殺し 完全ガイド で、その次の備中高松城の水攻めは なぜ秀吉は備中高松城を水攻めにしたのか でくわしく紹介しています。
三木城跡と付城跡を歩く
三木城跡は三木市の中心部にあり、本丸跡は上の丸公園として整備されていて、別所長治の辞世を刻んだ歌碑や、長治の像が立っています。城の周りの丘には、秀吉方が築いた付城の跡がいくつも残り、そのうちの一部は国の史跡「三木城跡及び付城跡・土塁」に含まれています。秀吉の本陣があった平井山には、本陣跡と竹中半兵衛の墓があり、城と付城、本陣の位置関係をたどりながら歩くと、包囲の規模を実感できます。訪れる前に、三木市の観光案内で道順や見学できる場所を確かめておくと安心です。
よくある疑問
Q. 三木合戦はいつからいつまでですか?
A. 天正6年(1578)3月ごろから天正8年(1580)1月17日まで、およそ一年十か月に及びました。
Q. 「三木の干殺し」とは何ですか?
A. 三木城の兵糧攻めのことです。城を囲んで食料を断ち、城内を飢えさせて降伏させたことから、こう呼ばれます。
Q. 別所長治はなぜ自害したのですか?
A. 城に籠もった人びとの命を助けてもらうためです。長治は自分と一族の命と引き換えに、城兵や領民の助命を求めました。
Q. 竹中半兵衛はどこで亡くなったのですか?
A. 三木城攻めの最中、天正7年(1579)6月13日に、秀吉の本陣があった平井山の陣中で病没しました。
まとめ
三木合戦は、別所長治の離反から始まり、支城の攻略、荒木村重の謀反、竹中半兵衛の死、平田・大村合戦を経て、およそ一年十か月の包囲の末に長治の自害で終わった戦いです。秀吉は付城の列で城を囲み、外とのつながりを一つずつ断つことで、名門・別所家を降しました。この長い戦いで得た経験は、翌年の鳥取城の兵糧攻め、そして備中高松城の水攻めへとつながっていきます。大河ドラマの全話の流れは 豊臣兄弟!全話一覧 でたどることができます。

