栃木県那須烏山市にある烏山城跡は、那須氏が二百年近く本拠とした山城です。東西約三百七十メートル、南北約五百十メートル、範囲はおよそ四十六ヘクタール。五城三郭と呼ばれる曲輪群が山をまるごと覆っています。土を削って築いた中世の城でありながら、本丸のまわりには石垣が残っており、山道を登っていくと杉木立のなかに突然その列が現れます。国の史跡です。
- 応永二十五年(一四一八)、下那須家初代の那須資重(沢村五郎資重)が築いた
- 東西約三百七十メートル、南北約五百十メートル、面積およそ四十六ヘクタール
- 本丸・古本丸・中の丸・北城・西城を中心とする五城三郭の構成
- 空堀・竪堀・堀切・土塁に加え、本丸周辺には石垣が残る
- 天正十八年(一五九〇)に那須氏が改易され、以後は城主が次々に入れ替わった
- 享保十年(一七二五)に大久保常春が入り、八代百四十余年。明治二年の版籍奉還で廃城

登城路の脇に長く続く石垣。上は土塁と草地で、石を積んだのは斜面の裾だけとわかる
応永二十五年、下那須家がここに築いた
築いたのは那須資重、沢村五郎資重とも呼ばれる人物です。年は応永二十五年(一四一八)。那須氏が上那須家と下那須家に分かれていた時代で、資重は下那須家の初代にあたります。
那須氏はもともと那須神田城跡のような平地の四角い館から出発した一族です。そこから稲積城を経て、この烏山の山へ本拠を移しました。平地から山へという移動は、南北朝から戦国へと戦いが長期化していく時代の流れそのものです。
やがて上那須家が絶え、下那須家が那須氏を一本にまとめます。以後、烏山城は那須七騎を束ねる本城となりました。黒羽の大関氏、大田原の大田原氏、芦野の芦野氏。那須郡に散らばった家々が仰いだのが、この山の上の城でした。
五城三郭 ― 山ひとつを城にした
烏山城の規模は、中世の山城としては破格です。東西約三百七十メートル、南北約五百十メートル、面積およそ四十六ヘクタール。主要部は五城三郭と呼ばれます。

登り口に立つ案内図。本丸を中心に、古本丸・中の丸・北城・西城といった曲輪が山上に並ぶ
案内図を見ると、本丸を中心に古本丸、中の丸、北城、西城が連なり、そのまわりに若狭曲輪、常盤曲輪、大野曲輪といった小さな平場が張り出しています。ひとつの山を削って、いくつもの独立した砦を作り、それを堀切と土橋でつないだ構造です。
防御は空堀・竪堀・堀切・土塁。斜面には縦方向に竪堀を刻んで、横に移動できないようにしています。攻め手は限られた道を登るしかなく、その道の脇からは常に見下ろされる。皆川城や喜連川城と同じ、関東の土の城の発想です。
なお現地の案内板には「八ヘクタール」とあります。市の説明する約四十六ヘクタールとは数字が合いませんが、これは案内板が主郭部だけを指しているためと考えられます。板は古く、文字の傷みも進んでいるので、数字は市の公表値で見るのが確かです。
土の城に、なぜ石垣があるのか
烏山城でいちばん意外なのが、石垣です。

杉木立のなかに現れる石垣。雨に濡れると苔と石の境目がはっきりして、積み方がよく見える
中世の山城は土だけで築くのが普通です。関東ではなおさらで、黒羽城も芦野氏陣屋跡も石をいっさい使っていません。ところが烏山城には、本丸周辺に石垣が積まれています。

「石垣」の標柱。角の大きな石と、その先へ細かい石が長く続く積み方が確認できる
写真を見ると、手前は大きめの石を据え、そこから先は小ぶりな石を横に長く連ねています。上部は土塁と草地で、石を積んだのは斜面の裾だけ。土の城の弱点である崩れやすい足もとを、石で押さえた造りです。
那須氏が城主だった時代の中世山城に、近世に入ってから石垣が加えられたと考えるのが自然でしょう。次の節で見るように、烏山城は改易のあと何人もの大名が入れ替わりで入っています。そのうちの誰かが、土の城を近世の城らしく仕立て直そうとした跡だと見ることができます。
那須氏の改易 ― 小田原に行かなかった代償
この城の運命が変わったのは、天正十八年(一五九〇)です。
豊臣秀吉の小田原征伐にあたり、当主の那須資晴は参陣しませんでした。その結果、那須氏は所領を没収され、烏山城を失います。
同じ年、同じ理由で喜連川城の塩谷惟久も出奔し、家が消えました。逆に芦野氏や大関氏、大田原氏は所領を安堵されています。戦って勝ったか負けたかではなく、秀吉のもとへ出向いたかどうかだけが、家の存続を分けた年でした。
那須氏はのちに一部の家が旗本として残り、江戸時代には交代寄合の那須衆として下野国福原に千石を与えられています。かつて那須郡の総領だった家の、これが最後の姿でした。
忍城からやってきた成田氏
那須氏が去ったあと、烏山に入った家のひとつが成田氏です。
成田氏長。武蔵国の忍城の城主だった家です。小田原征伐のとき、石田三成の水攻めに耐えて最後まで落ちなかった、あの城の主でした。小説と映画で「のぼうの城」として知られています。
関東を代表する堅城を守り抜いた家が、那須の山城へ移ってくる。城を守り切った者が、その城を離れて別の城に入る。近世の大名にとって、城は守るべき居場所ではなく、幕府から預けられた任地に変わっていました。烏山城が短期間で城主を替え続けたのも、同じ理屈です。
城主が入れ替わり続けた百三十年
那須氏の改易から江戸中期まで、烏山の城主はめまぐるしく交替します。織田、成田、松下、堀、板倉、那須、永井、幕府代官、稲垣。市の説明はこれを「短期間のうちに城主が交替」と書いています。
この落ち着かなさが、烏山城という城の性格をよく表しています。八ヘクタールの主郭を持つ立派な山城でありながら、誰にとっても通り過ぎる場所でした。同じ那須郡で、大関氏が黒羽に二百九十五年、大田原氏が大田原に動かずにいたのとは対照的です。
万治二年、山を下りた三の丸
転機は万治二年(一六五九)でした。城主の堀親昌が、城山の東麓に三の丸を増築します。
山の上の曲輪群は戦うための施設で、日常の政務には不便です。だから麓に平地の御殿を作り、そちらへ生活と行政を移した。喜連川城の喜連川氏が山を下りて役場の位置に館を建てたのと、まったく同じ動きです。
江戸時代の大名にとって、山の上の城はもう使う場所ではなくなっていました。烏山城の五城三郭が壊されずに残ったのは、この時期から山が使われなくなったからでもあります。
大久保氏八代、そして明治二年
享保十年(一七二五)、大久保常春が入封します。ここでようやく城主が落ち着きました。大久保氏は八代・百四十余年にわたって烏山を治めます。
終わりは明治二年(一八六九)。版籍奉還とともに廃城となりました。
烏山城跡は国の史跡に指定されています。中世の那須氏が築いた山城の姿を、五城三郭という規模のまま伝えていることが評価されました。
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登城路は山道です。整備されてはいますが、足もとは土と丸太の階段。雨のあとは滑ります。
それでも雨の日には雨の日の利点があります。石が濡れると、苔と石肌の境目がはっきりする。乾いているときは全体が同じ色に沈んで見えにくい積み方が、濡れると一段ずつ輪郭を持ちます。杉木立に霧がかかると、山城の奥行きも実際より深く見える。歩きにくさと引き換えに、石垣の写真はよく撮れます。
歩き方としては、まず麓の三の丸跡から登り、石垣を見ながら本丸へ。そこから古本丸、中の丸、北城と尾根づたいに回るのがおすすめです。堀切を渡るたびに曲輪が変わるので、案内図を手元に置いておくと構造がつかめます。所要は一時間半ほど。
所在地は栃木県那須烏山市城山。国道二九四号沿いに登り口があります。那須神社や大田原城跡とあわせて、那須七騎の城をまとめて回るのもよい組み立てです。
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