栃木県那須町芦野にある芦野氏陣屋跡は、地元では「御殿山」と呼ばれ、芦野城・桜ヶ城という別称も伝わります。奈良川の東岸に張り出した丘の上、平地からの比高は最高部でおよそ六十メートル。名前が複数あるのには理由があります。ここは戦国期には城として築かれ、江戸時代には三千二十六石を領する旗本・芦野氏の陣屋として使われ続けたからです。大名ではないのに参勤交代をする「交代寄合」という、聞き慣れない身分の家でした。
- 別称は芦野城・桜ヶ城。通称は「御殿山」
- 丘陵上の平山城。面積およそ三ヘクタール、比高は最高部で約六十メートル
- 江戸時代の芦野氏は三千二十六石。無役で参勤交代する旗本、すなわち交代寄合
- 交代寄合のなかでも「那須衆」四家のひとつ
- 築城には天文年間説と天正十八年説の二説がある。現地の案内板は前者を有力と見る
- 明治四年の廃藩置県まで、およそ三百四十年間ここが支配の拠点だった
- 那須神社(金丸八幡宮):与一が祈ったと伝わる社と、重要文化財の本殿・楼門
- 喜連川城(大蔵ヶ崎城):五千石で十万石格、参勤交代をしなかった足利の末裔

本丸跡。平坦な広場の縁を土塁が取り巻いている。城としての骨格が、陣屋になってからも残された
城なのか、陣屋なのか
この場所の呼び名が定まらないのは、性格が途中で変わったからです。戦国期には芦野氏の城として築かれました。ところが江戸時代に入ると、芦野氏は大名ではなく旗本になります。
旗本は城を持てません。一万石に届かないので城主格ではないからです。そこで同じ建物を「陣屋」と呼びかえて使い続けた。現地の案内板も、はっきりこう書いています。居館を陣屋といい、ここを支配の拠点とした、と。
つまり御殿山の上にあったものは、実態としては城でありながら、制度上は陣屋でした。土塁も空堀も戦国のまま。名前だけが江戸の身分制度に合わせて付け替えられたのです。城跡を歩きながら「芦野城」と「芦野氏陣屋跡」の二つの呼び名に出会うのは、この事情によります。
交代寄合 ― 旗本なのに参勤交代した家
芦野氏の身分を示す言葉が交代寄合(こうたいよりあい)です。現地の案内板には、こう記されています。芦野周辺の村落および芳賀郡内の六か村をあわせて三、〇二六石を領有し、無役で参勤交代する旗本(交代寄合)として、と。

那須町が立てた案内板。平面略図と復元想像図が添えられ、石高と身分まで具体的に書かれている
交代寄合は、旗本でありながら領地に住み、参勤交代を義務づけられた三十余家を指します。普通の旗本が江戸に屋敷を構えて幕府の職に就くのに対し、交代寄合は国元に陣屋を構え、老中の支配に属しました。石高は全体的に三千石以上が大半で、芦野氏の三千二十六石はまさにその線上にあります。
那須衆四家のひとつ
四衆は所領の地域ごとに分かれており、その内訳は那須衆四家、美濃衆三家、伊那衆三家、三河衆二家です。芦野氏は那須衆に入ります。
- 那須氏 下野国福原 千石
- 福原氏 下野国佐久山 三千五百石
- 蘆野氏 下野国芦野 三千十六石
- 大田原氏 下野国森田 千三百石
ここで目を引くのは、那須氏の名前が千石で載っていることです。かつて那須七騎を束ね、烏山城を本城とした那須氏の、これが江戸時代の姿でした。逆に同じ那須七騎の大関氏は黒羽で一万八千石の大名、大田原氏は大田原で大名になっています。戦国末の身の振り方が、そのまま江戸二百六十年の格を決めたわけです。
なお石高は、現地の案内板が三千二十六石、家の一覧では三千十六石と、十石の違いがあります。加増や検地の時期によって数字が動くので、どちらかが誤りとは言い切れません。この記事では現地の案内板の数字を採りました。
築城には二つの説がある
いつ築かれたかについて、案内板は二つの説を並べています。
案内板は、第一の説のほうがより正しいと考えられる、と結論づけています。天正十八年は小田原征伐の年で、那須の諸家が秀吉の裁定を受けた年でもありますから、第二の説にも動機はあります。ただ、城の縄張りそのものが戦国の中頃の造りだという判断が働いているのでしょう。

那須町教育委員会の説明板。築城の二説と、明治四年までの三百四十年をひと続きに語っている
ここは三つ目の拠点だった
芦野氏がこの丘に来るまでには、二度の引っ越しがあります。
案内板によれば、芦野氏の祖先は七百年から八百年前の鎌倉時代、小さな武士団の頭としてこの地を支配しはじめました。最初の居館は奈良川の右岸にありました。次に応永年間(一三九四〜一四二八)ごろ、館山城へ移ります。そしてこの平山城が三つ目の拠点になりました。
川のそばの居館から、山の城へ、そして川を見下ろす丘へ。この動きは那須神田城跡のような平地の方形居館から山城へという流れと重なります。武士の住まいが、どの時代に何を恐れていたかを地形が記録しているのです。
御殿は間口二十九メートルだった
案内板の記述でとりわけ貴重なのが、御殿の具体的な姿です。
屋根は木羽葺き。間口は約二十九メートル、奥行きは約十一メートル。内部は玄関、客間、奥の間、大広間、宿直間、仲間部屋、広敷台などに区切られ、建物の奥には陰殿(トイレ)もあったとあります。
間口二十九メートルというのは、教室にすればおよそ三つ半ぶんの幅です。大名の御殿と比べれば小さいけれど、三千石の旗本の住まいとしては立派なもの。しかも玄関と大広間を備えているのは、ここで公的な対面が行われたからです。宿直間があるのは警固の者が泊まり込んでいたからで、仲間部屋があるのは下働きの者を抱えていたから。間取りの名前を並べていくだけで、この建物がどう使われていたかが浮かんできます。
土塁と空堀、そして切通し
いま残っているのは土の遺構です。中心は本丸と二の丸で、三の丸は西の下に置かれていました。

本丸の東側に残る空堀。陣屋と呼ばれるようになってからも、戦国の防御はそのまま残された
見どころは二の丸の東西に伸びる土塁、本丸東側の空堀、そして丘を断ち切る切通しです。門は二か所あり、西北隅に裏門、二の丸の西南隅に表門がありました。裏門は現在も上の町の大塩家に現存していると案内板は記しています。建物が失われた城跡で、門だけが町のなかに生き残っているというのは珍しい話です。

土塁の上を歩く。比高六十メートルの丘から、奈良川沿いの平地が見渡せる
変わり種としては、本丸まわりの土塁の上と南端部に「からたち」の生垣があったと伝えられること。からたちは鋭い棘を持つ低木で、生きた鉄条網として使われました。石垣を積まない城が、植物で防御を足していたわけです。
築城記念と伝わる高野槙
本丸の東方に、大きな高野槙が立っています。案内板は、この木を築城記念のものといわれる、と紹介しています。

天然記念物の碑と「とちぎ名木百選 芦野城址のこうやまき」の標柱
天然記念物に指定され、とちぎ名木百選にも選ばれています。築城記念が本当なら、天文年間説を採れば樹齢は五百年に近づきます。木の年輪が城の年代を示す証人になる、というのは城跡ではまれな話です。もっとも、これも「いわれる」という伝承の範囲にとどまります。
城下に残る武家屋敷 ― 旧平久江家
丘を下りた城下に、旧平久江(ひらくえ)家 武家屋敷門及び構えが残っています。那須町の指定建造物です。

旧平久江家の武家屋敷門。門と土塀が「構え」としてまとめて指定されている
案内板によれば、平久江家は江戸初期から芦野家の重臣を務めた家柄です。本家は根古家の一段高い地に屋敷を構え、こちらは分家筋にあたりますが、幕末には家老職を勤めた人物も輩出しています。
注目したいのは構えの形です。門を入ってすぐ直進できないように折り曲げた枡形になっています。城の虎口と同じ発想で、武家屋敷特有の造りです。陣屋と呼ばれた城の下に、城と同じ考え方で建てられた家臣の屋敷が残っている。城下町がまるごと防御装置だったことが、門ひとつから読み取れます。
見どころとアクセス
御殿山は現在、山林と公園になっています。面積はおよそ三ヘクタール。土塁の上に道が通っているので、本丸から二の丸へ土塁づたいに歩けます。

麓の那須歴史探訪館。芦野氏と芦野宿の資料がまとまっている
麓には那須歴史探訪館があり、芦野氏と奥州街道の宿場だった芦野の資料が展示されています。あわせて回れば、丘の上の陣屋と、街道沿いの町との関係がつかめます。芦野は芦野石の産地としても知られ、町なかの石蔵や石塀も見どころです。
所在地は栃木県那須郡那須町芦野。旧奥州街道沿いで、那須歴史探訪館に駐車場があります。

