栃木県さくら市喜連川の「お丸山」に残るのが喜連川城、別名大蔵ヶ崎城です。中世には塩谷氏の山城でしたが、小田原征伐で主を失って廃城になりました。そのあとに入ったのが、足利将軍家の血をひく喜連川氏。石高はわずか五千石ほどなのに、幕府から十万石相当の国主並の家格を認められ、しかも参勤交代を免除されていた。日本の大名のなかでも、ここまで特殊な家はほかにありません。
- 別名は大蔵ヶ崎城。塩谷惟広が文治二年(一一八六)に築いたと伝わる
- 天正十八年(一五九〇)、塩谷惟久が小田原征伐に参陣せず出奔して廃城
- 秀吉が古河公方の血をひく足利国朝に喜連川四百貫(三千五百石)を与えた
- 喜連川家は最大でも五千石ほど。それで十万石相当の国主並の家格
- 「国勝手」として参勤交代の義務を免除され、妻子の在国も許された
- 二代頼氏の代に山を下り、藩庁は現在の役場の位置へ。館は明治九年に焼失

お丸山に残る堀切。山を断ち切って曲輪を分ける、中世の山城そのものの姿が残っている
大蔵ヶ崎城 ― 塩谷氏四百年の城
この城の本来の名は大蔵ヶ崎城といいます。現地の橋の由来を記した碑によれば、源平の合戦で源義経に従って武勲をたてた塩谷惟広が、文治二年(一一八六)にこの地に城を築いたのが始まりと伝えられます。

橋名の由来を刻んだ碑。八百余年におよぶ大蔵ヶ崎城の歴史が刻まれている
喜連川の市街地は、荒川が山地から平野へ抜ける出口にあたります。その要地を見下ろす丘が、お丸山。塩谷氏はここを本拠に、四百年にわたって喜連川一帯を支配しました。那須神田城跡や黒羽城と同じく、那須・塩谷の武士が土だけで築いた城です。
小田原征伐で、城が消えた
終わりは唐突でした。天正十八年(一五九〇)の小田原征伐です。
碑文によれば、塩谷惟久は秀吉の小田原攻めに参陣しなかった。そして秀吉の怒りに触れることを恐れて出奔してしまいます。当主が逃げ出したことで大蔵ヶ崎城は廃城となりました。
戦って負けたのでも、包囲されて開城したのでもない。参陣しなかった、それだけで家が消えたのです。小田原征伐が関東の武士に突きつけたのは、戦いの強弱ではなく、秀吉のもとへ出向くか出向かないかという踏み絵でした。同じ年、芦野氏は所領を安堵され、那須氏は改易されています。明暗を分けたのは、ほとんどこの一点でした。
秀吉が、足利の血をここに置いた
空いた喜連川に秀吉が入れたのは、意外な人物でした。足利国朝。室町将軍家の分かれである小弓公方・足利頼純の子です。
秀吉は、古河公方家の血をひく足利氏姫を国朝に嫁がせ、天正十八年に下野喜連川に四百貫(三千五百石)の所領を与えました。関東で二百年近く争い続けた古河公方と小弓公方、その両家の血を一つにまとめ、喜連川という小さな土地に収めたのです。
ところが文禄二年(一五九三)、国朝が没します。氏姫は国朝の弟の頼氏と再婚し、頼氏が喜連川の所領を受け継ぎました。以後この家は喜連川氏を名のります。
五千石で、十万石格
喜連川氏の待遇は、江戸時代の大名のなかでも突出して変わっています。
ここで思い出したいのが、同じ栃木県内の芦野氏です。芦野氏は三千二十六石の旗本で、交代寄合として参勤交代を義務づけられていました。喜連川氏は五千石で参勤交代を免除されている。石高はほとんど変わらないのに、扱いが正反対です。
この差を生んだのは、血筋以外にありません。足利将軍家の末裔という一点が、幕府に別格の扱いをさせた。徳川家は源氏の棟梁を称しましたから、足利の血を粗末に扱うわけにいかなかったのです。
「御所」と呼ばれた家
喜連川の当主は喜連川公方、あるいは御所様と呼ばれました。城を持たない、一万石にも満たない家が、公方と呼ばれる。
そのかわり、幕府の職に就くこともなく、大きな普請役を課されることもありませんでした。格式は高いが、力はない。血統だけを保存された家です。喜連川氏が明治まで存続できたのは、この危うい均衡があったからでした。
氏姫は、一度も喜連川に来なかった
この家の成り立ちを象徴する事実がひとつあります。
喜連川氏の血の源であり、国朝と頼氏の二人に嫁いだ足利氏姫は、生涯一度も喜連川に足を踏み入れませんでした。古河公方館で一生を過ごしています。
秀吉が結びつけたのは、人ではなく血筋でした。氏姫が古河にいたまま、喜連川では夫と、その弟が家を継いでいく。喜連川氏という家は、生きた家族としてではなく、制度としてここに置かれたのだということが、この一事によく表れています。
山を下りた藩庁と、明治九年の火事
喜連川氏はお丸山の山城を本拠にしませんでした。二代頼氏の代に、山を下ります。

道路をまたいで建つ大手門。館があったのは山の上ではなく、この平地だった
大手門に掲げられた案内板には、こう記されています。二代頼氏の代になって、現在の町役場の位置に館が建てられました、と。山城ではなく平地の館。城ではなく陣屋。参勤交代を免除された家に、守るべき城は必要なかったのです。

大手門の案内板。館が明治九年に焼失し、門が平成三年に復元されたことまで記されている
そして案内板は続けます。館は明治九年に焼失し、門は平成三年に復活しました、と。三百年近く続いた御所は火事で失われ、いま道路をまたいで建つ大手門は、それから百年以上のちに建てられた復元です。

町なかの道標。「喜連川神社」と「足利家館大手門」が並んで示されている
山の上に残るのは、土だけ
お丸山公園として整備されている山頂部には、中世の遺構が残っています。

堀切に架かる赤い橋。橋がなければ渡れないほど、山はきれいに断ち切られている
見どころは堀切と土塁です。山の尾根をまっすぐ断ち切った堀切に、いまは赤い橋が架かっています。橋の上から下を見ると、この城が山を削ることだけで守っていたことがよくわかります。石垣はありません。

曲輪の縁を巡る土塁。塩谷氏が使っていた頃の姿を、そのまま伝えている
これらの遺構は、喜連川氏のものではなく塩谷氏の時代のものです。喜連川氏は山を使わなかったので、中世の縄張りが手つかずで残りました。皮肉な話ですが、参勤交代を免除された家がこの山を放置したおかげで、四百年前の城が残ったとも言えます。
【実録】一万八千石から出た二人 ― 黒羽城と大関増裕、朝ドラ『風、薫る』の大関和、そして喜連川の大手門
黒羽城跡から喜連川の大手門まで、車で一泊二日の行程です。
見どころとアクセス

お丸山公園に建つスカイタワー。城とは関係ない展望塔だが、山の高さを測る目印にはなる
お丸山公園の山頂にはスカイタワーが建っています。城郭遺構とは無関係の展望施設ですが、市街地からこの塔を目印に歩けば、山の位置がすぐわかります。
歩き方としては、まず町なかの大手門と役場周辺で「御所」があった平地を見て、それから山へ登るのがおすすめです。喜連川の歴史は、山の上と山の下に分かれているので、両方を歩かないと話がつながりません。
所在地は栃木県さくら市喜連川。町なかには喜連川神社もあり、あわせて回れます。温泉地としても知られ、日帰り入浴施設が複数あります。





